11話 我が大道、征くは妄執の涯よ1

 黒く燃えたつ指骨だけの爪先が、大地を踏みしめひびを穿つ。

 瞬転。


 ―――

 不破ふわ直利の懐深くで、骸骨が虚ろに眼孔を覗かせた。


「は」

 ――疾い。


 条理を逸した現象に慄然と、それでも直利は精霊器を掴む。

 微温く大気が腐り滴る谷間に、彼我の白銀が迸った。


 瘴風を捲く刃筋を断ち切らんと、木気を猛らせた斬閃が絡みつく。

 鬩ぎ合いは幾重にも、撃音と揺れる地の底を彩った。


 沈む爪先が、互いの一歩深くを踏み込む。

 刃零れた精霊器の軌跡が、直利の持つ太刀の鎬に火花を刻んだ。


 頬を跳ねる石火。莫大な瘴気に負けじと、直利は渾身で精霊力を練り上げた。

 行使するは、人を塞の化身へ昇華せしめる精霊技せいれいぎ

 玻璃院流はりいんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝、――五劫七竈。


「破ァッ!!」


 堅牢と強化された直利の刺突つきが、衝撃を伴い剥き出しの胸骨に喰い込む。

 ――瞬後。衝撃が谷間を渡り、爆音が吹き抜けた。


 凝る瘴気の渦から直利は逃れ、間合いを仕切り直しながら咽喉のどに触れる。


 ――僅かに瘴気を吸ったか。


 絡む呼吸いきに、躊躇うことなく回生符を励起。

 青白い炎で瘴気を祓いつつ、太刀を中段に構え直した。


 赤黒い瘴気の向こうに、異形と堕ちた骸骨が一体。

 骨の表面は黒く滑る光沢を持ち、陽炎の如く炎を従えている。


 右手に掴むは一振り。刃零れた精霊器の切っ先で、無数の鬼火が瘴気に泳いだ。


「口調から真逆とは思ったが、その剣筋なら間違いないな。

 ……怪異と成り果てたか、天山」

 ―――


 直利の吐き捨てへと応える舌は無く、骨鳴りが寂しく声代わりに返る。

 微動だにしない骸骨と向かい合い、直利は油断なく精霊力を練り上げた。


 天山は自身を凡庸と称したが、それは雨月歴代と比べての話である。

 雨月に相応しい才覚も持ち合わせている事実を、不破ふわ直利はよく理解していた。


 精霊力に特筆するものは無く、確かに陰陽師としても飛躍はない。

 天山が真に得手としていたものは。


 ―――嚇々カカッ!!


 骨鳴る音が、立つ者の耳朶を苛む。――瞬後。

 直利の眼前へと躍り出た骸骨が、瘴気の凝る太刀を振り下ろした。


 骸骨の纏う瘴気に揺らぐものは覚えず、指骨だけの踏み込みが地へ巍々と打ち立つ。

 予兆すら見えなかった斬撃を辛うじて受け止め、直利は軒昂と呼気に精霊光を散らした。


 天山はこの時点、五劫七竈を行使した直利と正面から撃ち合っている。――にも関わらず、凝る瘴気に目減りの気配は窺えなかった。

 つまり天山であったこの骸骨は、瘴気をたのみとせず技術だけで直利と渡り合ったのだ。


 骨だけと化して尚、卓越したその剣技。

 思わず直利の口の端から、不満が漏れた。


「縮地。……何処が凡庸だ、全く。

 精霊技せいれいぎを行使せずに怪異を屠るなど、山ン本五郎左エ門でも聞かん逸話だろうが」


 元より天山の本質は、陰陽師ではなく衛士。

 それも剣技だけで怪異を圧倒するほどに卓越していたと、直利は聞いていた。


 見れば剣理を盗み、数合を撃ち合えば己が物に替える。

 現役を退いて尚、剣士としての武名は天下に轟いていた。


「やはり、その剣筋は健在か」


 骨だけの腕が、流離とひるがえる。刹那と畳み掛けられる斬撃を流し、直利は大きく踏み込んだ。

 天山の知識は、己が人間だった頃を元としている。――つまり現時点、大きく嵩を減らした己の肉体に、未だ慣れていない。


 衛士として劣る直利に付け込める隙があるとすれば、今この瞬間しかなかった。


 玻璃院流はりいんりゅう精霊技せいれいぎ、初伝、――唸り猫柳ねこやなぎ


 玻璃院流はりいんりゅうが得意とする内功の重ね掛け。渾身を籠めた膂力をたのみに、直利は天山の上段を受け流した。


 骨だけの感覚に追いつかない天山の上体が大きく泳ぐ。その隙に直利は、右足を軸に体躯を旋回させた。


 精霊器の切っ先から迸る精霊光が、天山だったものの頸骨へと叩き墜ちる。

 幾重もの衝撃を一点に集中させるそれは、不破ふわ直利の十八番。


 範囲は疎か、距離すらも無視した威力の一点重ね。この精霊技わざを受けて堅牢と耐えた相手は、怪異にすら存在しない。

 玻璃院流はりいんりゅう精霊技せいれいぎ、止め技、――重ね栴檀、


 ――吧々ハハァッ!

「刈り椿!!」


 直利の誤算は、天山は骨だけと思い込み、頸を落とせば決着すると拙速に焦った事だ。


 ――斬撃が骨の隙間に喰い込んだ途端、放発と噴き上がる瘴気。

 粘性さえ帯びた瘴気の奔流は、直利へと絡みついて有無もなく弾き飛ばした。


 不破ふわ直利の身体が陽の下を舞い、やがて崖の向こうへと。

 消えた直利を追おうとし、――思い直したのか虚ろな視線を彼方に向けた。

 そのまま追撃に移る事無く、天山は踵を返して姿を消す。


 ―――嚇堕カタリ、堕、、堕。

 虚ろと空いた眼光の向こうには連翹山と、


 ――雨月の屋敷が遠く在った。


 ♢


 御厨みくりや早苗さなえは幼い頃より、一日すら自由の望めない生を送ってきた。

 勉学に作法。上流の女性が修める手習いは、日々の隙間も無いほど。


 その総ては御厨家みくりやけが旧家に返り咲き、やがては院家を管理してやるため。

 ――早苗さなえは疑いも無く、御厨みくりや至心の決めた道筋を辿ってきた。


 雨月天山との婚姻が知らされたのは、婚儀の三日前の事。


 ――八家如きとは云え、その一位。ならば旧家の末席として、りで赦せる際か。

 至心の承諾を他人事で眺める光景だけが、早苗さなえの記憶に残っていた。




 陪臣達も捜索に移り、家人の姿もまばらとなった屋敷の一画。雨月早苗さなえは落ち着きなく、畳の上で往復を繰り返していた。


 ――未だか。……未だ朗報は届かないか。

 忠義を靡かせ易いからと、陪臣の中でも小者を特に選んだことが裏目に出たか。


 苛立つ侭に、親指へと歯を立てる。

 親指へと奔る鋭い痛みに、早苗さなえは肺腑から呼気を吐き出した。


 自身の姓が御厨みくりやであった頃より、半生を捧げてきた大願。

 その成就を寸前に儚く零れる様は、早苗さなえにとって到底受け入れ難い現実であった。


 ――施しは一つ。何も為せぬ其方に赦されるは、零すか零さないかを選ぶだけよ。


 脳裏を過ぎる懐かしい声。婚儀を前日に控えたその夜に、夢現の狭間で告げてきた金色の少女の託のたまが蘇った。

 その輝かんほどの眼差しは何を思ったものか。遠く記憶の向こうで、優しく眇められた。




 廊下の向こうから響く、どたつく足音。

 早苗さなえの立つ中広間へと、遣ってやった鹿納峰助がまろび込んだ。


「お、お方様。一大事、一大事に御座います!」

「――これ以上の事も起きようが無いでしょう、騒々しい。

 、 、あれ・・は、穢レ擬きもどきの死体は回収できたのですか」

「それどころでは御座いません。連翹の麓から少し入った場所に、御厨みくりや至心さまの御遺体が!!」

「お、お父さまが? 一体、誰が。下手人は」


 青天の霹靂とも云うべき鹿納の報せ。脳裏へと意味が染み渡るに連れ、早苗さなえの顔面から感情いろが抜け落ちた。


「何とも。で、ですが、近くに蒸気自動車の残骸が。

 恐らく、穢レ擬きもどきの誅滅までは及ばれたかと」

「ば、莫迦もの!! ならば穢レ擬きもどきの死骸は何処に。お父さまは、御厨家みくりやけの、 、

 ――高天原たかまがはらの至宝そのもの、なのよ!」


 神霊みたま遣いは、旧家に有っても特別な意味を有している。

 加えて歴史上でも類のない土行の神霊みたまを宿した至心は、疎い早苗さなえの知識に有って揺らがず最強であった。


 ――否。問題は誰が殺したかではない。雨月天山の死体すら見失っている現時点、五月雨領さみだれりょう御厨みくりや至心が死んだなどと公される訳にはいかないという現実の方である。


 渦巻く混乱を肺腑から吐き出し、早苗さなえは思考を鎮めた。

 幸いにも、雨月家は混乱の最中。筋書きに多少の矛盾が生まれても、誤魔化すのはまだ間に合う。


「お父さまの死を知っているものは?」

「儂の手下てかが数人。至心様の御顔を存じているものは、2人か3人ですが」

「処分なさい」


「――――は?」

 鹿納の返答に、断じる応えは冷たく短いもの。

 意味を理解するに、小者の顔面が蒼白と変わった。

「お、お待ちくださいっ。口封じとしても、儂の手勢を殺せなど。

 火急の事態に一体何故!?」


「何故? ――天山の死程度すら確かめず、其方が母屋を後にしたからであろうが」


 お陰で最初の時点から、予定を組み直す必要に迫られてしまったのである。

 苛立つ余りから眼光も昏く、早苗さなえは小兵でしかない鹿納を見下ろした。


 雨月天山は楽観的に考えていたが、御厨家みくりやけの凋落を具にした早苗さなえは、雨月家の終焉を九割だと見ていた。

 そうなれば早苗さなえも勿論、無関係とはいかないだろう。


 雨月天山の正妻。しかも生まれた頃の晶を、庭へ蹴り落とした前科があるのだから。

 晶からしても処分を求めねばならない筆頭に、早苗さなえは躍り出ているのだ。


 晶の判断が処分に傾けば、粛々と首を垂れるしか早苗さなえには残らない。

 それよりも早く、早苗さなえ自身とその一人息子の助かる可能性を模索するのは、ごく自然な帰結であった。


 雨月がお取り潰しとなるなら、早苗さなえに残る途は御厨みくりやへの帰参しかない。

 この判断に邪魔となる存在が、雨月晶と雨月天山。――そして、御厨みくりや至心の3名であった。


 昨夜の内に、鹿納が不意を突くことで天山を殺害。同時に御厨みくりや至心が、雨月晶を処分するように誘導。残る御厨みくりや至心を、義王院ぎおういん家の客人を害した罪で謀殺する。


 罪人の処断と雨月の取り潰しを引き換えに、御厨みくりや早苗さなえ颯馬そうまと共に助命してもらうのだ。

 現神降あらがみおろしすら修めていない早苗さなえにとって、謀殺こそが生きるための最後の手段である。


 ――であるにも拘らず、天山の殺害すら満足に成っていない現状。

 早苗さなえに取れる方策は、できるだけ目撃者を削る事だけであった。


「どの途、手下の処分は承知していたはず。

 遅い速いが今になっただけ、何を躊躇っているのですか」

「しかし、ですが」

「ああそうね、死体は連翹山に散らばらせなさい。――数刻でも、事態の混乱が叶えば御の字でしょうが」


 味方の切り捨てすら勘定でしかない冷酷な判断が、表情一つ揺らすことなく下される。

 その様子に本気だと悟った鹿納は、従うしかないと震えながら首肯を返した。

 その時。


 ―――嚇々カカッ、ァッ!


 薄く雲に陽が翳り、寂しく哄笑に似た物鳴りが屋敷へと響き渡った。


「何ですか、耳障りな」「……これは」


 不快気に眉間へと皺を寄せた早苗さなえとは対照に、鹿納が表情を強張らせる。

 上位精霊を宿していてもケガレから遠い早苗さなえと、中位精霊だが現役の鹿納。2人の違いが、数秒だけの生死を別けた。


 中広間正面を臨む中庭へと、轟音と共に何かが大きく土砂を抉り立てる。

 巻き上がる瘴気。土煙の向こうで赫く、凶ツ眼が揺らいだ。


「何者か!」

「御方様、儂の後ろへ――」


 状況も見えず誰何すいかを投げる早苗さなえを背に、鹿納は精霊器へと手を掛――。

 茫漠と立つ土砂を貫き、刹那、黒く一陣の颶風ぐふうが駆け抜ける。


 。鹿納の初動が僅かと遅れ、その背で赤く鮮血が散った。


「な――」「ぎゃあっ!?」


 一拍を置いて迸る早苗さなえの悲鳴。振り向く鹿納の視線の先で、黒く燃える骸骨が人間の腕をくわえる姿が飛び込む。


「ひ。わ、私。私の、 、腕が」「ケガレ、じゃと!? 連翹の神域傍であるぞ、どうやって侵入を果たしたっ」


 混乱にへたり込む早苗さなえへ一瞥も無く、骸骨が早苗さなえの左腕であったものを噛み砕いた。

 ごり、もり、くちゃり。隠すものの無い頬骨が動き、下品な咀嚼音が響き渡る。


 ――やがて鮮血の滴る肉塊は、虚だけの肋骨へ滑り落ちた。


 飛沫と垂れる鮮血から肋骨へ、赤と青の紐が絡みつく。

 内臓さえも無いままに、顎骨の隙間から舌だけが踊った。


 ―――。――憎シ。


 眼孔に生まれた眼球が、鬼火の如く2人を睨めつける。――その明確な憎悪に塗れた囁きを耳に、鹿納は恐々と正体を舌へ乗せた。


「真逆、御当主様」

「天山、ですって!? ケガらわしい化け物風情が、迷わず死ねば良いものを」


 ―――良クモ儂ニ、剣ヲ向ケテクレタワ。鹿納ヲオォォォ。


 噴き上がる憎悪よりも疾く、鹿納が精霊器を抜刀き放つ。

 加速された精霊力が幾重もの波紋を穿ち、早苗さなえの頭上を越えて骸骨へと牙を剥いた。

 義王院流ぎおういんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝、――清月鏡せいげつのかがみ


 ―――微温イワァッ。

「か、は」


 ひるがえる骸骨の腕。刃零れた精霊器が波紋総てを迎え撃ち、そのまま早苗さなえに突き立つ。

 零れた刃筋に内臓を抉られたか、早苗さなえの口から鮮血が溢れた。


「――お方様ぁっ!」


 ここで早苗さなえを喪う訳にはいかない。鹿納の斬撃はしかし、骸骨の左腕が受け流す。

 畳み掛けようとした鹿納を斬り捨て、天山だったものが熾火の眼光を向けた。


 ―――雨月ヲ終ワラセントハ、不忠ドモメ。ほろビハセヌ、終ワルナド赦サヌ!!


 抗う骸骨の認めじと叫ぶ嘆き。その滑稽な末路に、早苗さなえは空くほどの爽快さを覚えた。


「……雨月など、疾おの昔に終わっているでしょうが」こぽり、こぽ。泡立つ鮮血に咽喉のどを鳴らし、凄絶と早苗さなえが嘲笑う。

「末路を見せずに済ませてやろうと、私の慈悲に、――」


 嗤う声に何を遺そうとしたのか、一頻りの吐血を最期に早苗さなえも事切れた。

 中広間へと降りる沈黙に思うものがあるのか、骸骨に応える声は無く。死骸と果てた早苗さなえへと、大きく口を開けた。


 がり、ごり、もり、 、くちゃり。雨月だったものたちが、際限なく骸骨の胎へと消えてゆく。


 ―――雨月は亡びぬ。


 然程も時間が経たないうちに、明瞭な人の呟きが嗄れた囁きに混じった。


 ―――儂こそが、雨月である。


 そこに立つは天山に非ず。

 嘗て雨月であった天魔が、堕ちた咆哮うぶごえをその時に上げた。

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