10話 明くるに未だ、霞を眺め1
ガラリ。高宿の勝手口から続く木戸が、音を立てて開かれた。
仕込みの手を止めた主人の、
外風に揺れる電球の下、雪を叩き落とす知人に鼻を鳴らし、
台所の脇に腰を掛け、
「もう閉めたかと、……迷惑をかける」
「全く。付き合いの長い
――そちらの衛士様が、
雪の名残だろう雫に濡れ、木戸の脇で少年少女が安堵を交わす姿。
羽織に奔る解れが、鉄火場の結末を暗に主張する。
「君に預けた貸しは、今回を支払っても釣りが出ると思うけどね。
――食べるものは?」
「部屋で待て。
客の一人も帰りが
不満そうな主人の呟きに、直利が瞼を瞬かせた。
雪の降り頻る夜半に逃げるのは、それこそ防人であっても自殺行為に近い。
「南の街道を目指しても、人の足だと迷いかねんぞ」
「俺の知った事か。口を開けば不平ばかりの老旦那が、勘定ぐらいは不満なく支払って欲しかったね」
溜息交じりに応じ、主人は竈へ
燃え爆ぜる火の粉が一際、煙に混じって散り消える。
その呟きに相手を察し、直利は追及を止めた。
同じ相手を思い浮かべたのだろう、窺う視線が晶たちの間で行き交う
「この子たち2人分の宿代を、懐へ隠せただろう。
一晩の口止めと考えたら、良い内職のはずだ」
「御領主の屋敷帰りを内密にってんだ、それ位はして貰わなぁ割に合わん。
……面倒は御免だぞ」
「安心しろ、念の為だ。
子供たちが出立した後は、口にしても構わないさ」
「「――一晩、御厄介になります」」
「大人しくはしておけ」
框を過ぎる少年少女の柔い会釈。
鼻を鳴らして返事と代え、主人は脇の鍋へと手を伸ばした。
宿の中庭に面した奥間の一角。
部屋の障子に締め出され、戸鳴らす風が耳から遠のく。
「……直利先生。
「雨月家所有の蒸気自動車が壊されたんだ、……少なくとも報告は必要だろう。
他家の膝元で密殺に及んで、返り討ちとなれば世話も無いが」
「――
「御正妻である
……晶くんの意向次第で、出方を変える可能性はあるだろうが」
どうするのか。言外にそう問われ、晶は眼差しを伏せた。
屋敷の清掃だけの甘い要求に、付け入る隙を仕込んだ
天山自らが望んで、晶を屋敷へと招き入れさせる。
その総ては、出来る限り穏やかに屋敷を抜ける為。屋敷の裏手にある祖母の墓へ、時間は短くても穏やかに頭を下げたかったからだ。
祖母への墓参という目的が達成された時点で、晶の心残りはそれほど残っていない。
雨月の対応が予想通りであった以上――、
「何故、
「雨月の思惑が崩れたからだろう?
……
「ええ。ですけど、至心が布津之淡を奪っても意味はないはずです」
神器の返還を頻りに囀っていたが、
きし、き。晶の疑問に沈黙が墜ちる中、背後から響く廊下の軋む足音。
障子の滑る音。屋鳴る風の向こうから、店の主人が奥間へと入った。
「隠して用意できたのは、これが限界でな」
「――充分です」
頭を下げる晶たちの前へと、湯気の薫る椀が並べられる。
――とろみのある出汁餡に、白く泳ぐ麺。
視線を交わし、晶と咲は箸を椀に突き立てた。
掬う麺から、出汁が雫と重く撥ねる。
一口啜ると同時に広がる、干した椎茸と鰹節の風味。
掻き込む熱に2人悶え、少年と少女の口元が綻んだ。
「冷や麦と聞いていたが、熱麦を出してくれるとは意外だ」
「子供に冷たいばかりを喰わせるほど、矜持も腐っちゃいない。
……とは云え、飯処を畳む前で良い収入にはなってくれた」
「瘴気の群発は終息したが、客足は遠のいたままか」
「冬は小麦も高騰する一方だ。駅周りの宿屋は、大体が同じ事を囁いている」
忽ちに空となった晶たちの椀を取り、主人が腰を上げる。
障子の向こうで遠のく気配に、咲が窺う視線を巡らせた。
「雪の勢いは激しいですけど、汽車の出立が遅れませんか」
「咲。南部の積雪は珍しいけど、北部の冬じゃ日常だ。
――この程度なら小雨感覚だよ」
咲の呟く心配に、晶が柔らかく応じる。
晶とて
「それは持ち上げ過ぎだろうが、運行が停まる心配は無用だろうね。
それよりも、連翹山で見た瘴気溜まりが問題だ」
「陰陽師が浄化に入ったのでは?」
「連翹山。つまり土地神の神域近くを、浄化で刺激するのは少し不味い。
――まぁ、君たちが心配する事じゃない。明日も朝が早いだろうし、今日はもう寝なさい」
そう言葉を残し、直利も腰を上げた。
晶と咲が動けなくとも、
衛士として以上に、晶たちを探す視線を自身に引き付ける囮として。
直利にとって、今日という夜はここからが本番でもあった。
♢
闇に沈む岩肌を、蝋燭の灯明が舐めるように過ぎた。
ざり。昏く足元で、砂を踏み躙る音が響く。
「……莫迦な。このような事、有っていい筈が無い」
己を鼓舞するように、闇へと消える呟き。
頼りなく揺れる灯明を握り締め、雨月天山は窟の奥へと歩を進めた。
やがて窟の最奥で天山を迎えたのは、
其処は雨月当主のみに知らされる、歴代の当主が遺した書庫であった。
乱雑に紙の束を除け、蔵書へと目を通す。
その内容に記されている日々の雑事、天山は只管に過去を追った。
ちり。蝋燭が半分まで目減りした頃、紙面の上で天山の指先が揺れる。
凡そ400年前。――
更に深くと天山は書庫を漁り、やがて神代契約の全文へと辿り着いた
「神代契約の内容が。……
嚇怒に揺れる天山の手が、古びた書物へ皺を奔らせる。
天覧仕合の折り、
当然だ。ラーヴァナであった
特に欠落していた知識は、
――その程度の認識で満足していた過去の己を、糾してやりたいほどに。
知識を辿るほどに、茫漠とした絶望が天山の心中を占めた。
神柱が
加えて、400年前の当主が遺した言葉から、
遡って考えるならば、
絶望のままに漸く神代契約を理解した天山は、茫洋と腰を上げた。
ちりり。辛うじて揺れていた蝋燭の灯明が、熔けた蝋へ沈む音を残す。
歩く足取りも覚束ないまま、天山は屋敷の廊下で我に返った。
「――何故。晶は
己のものとも判然としない呟きが、
抑々として、晶の愚鈍に振り回された挙句が現状だ。
それを怠った挙句、雨月家の方が責を問われるなど言語道断。
責任からの逃避にそれでも、天山は動くべく覚悟を決めた。
「ここまでの擦れ違い。……しかし失伝を取り戻した以上は、」
「――御当主様」
振り返る先に佇む、陪臣の影。
「……鹿納。何用であるか」
「此度の仕儀、御当主様に
天山の
常日頃であれば無礼と咎める言葉に、しかし天山も余裕なく声を返した。
「責任の所在も含め、急ぎ伝手を頼る処よ。晶と和解する必要はあるだろうが」
「なりませんぞ。雨月の次期当主は、
――どうか、御再考のほどを」
「一時の混乱は確かにあるだろうな。だが、雨月の八家零落を回避するには、前提として晶と歩み寄る必要がある」
「精々が、主家さま方に珍奇がられただけに御座います。一時の迷いに気を取られるなど、せめて御当主様は本道を見失わなきよう」
「くどい」
言を断じた天山へと、表情を俯かせたまま鹿納が渋る声を張り上げる。
――昏い廊下。不意に天山は、鹿納以外に誰もいない事実が気に掛かった。
思考に過ぎる疑問を抑え、溜息に交えて言葉を紡ぐ。
「現状を鑑みれば、晶を受け容れる事こそが本道だろう。
――鹿納。儂の下した決定に、何の権限を以て言を弄するか」
「ただの忠言にて。あの
「別に翻意などしておらぬ。雨月家を繋ぐには必要な判断であっただけ、
「……は」
頑と言葉を撥ね退けられ、眼前の老人は残念そうに慨嘆を漏らした。
翻意と見られるのは天山も覚悟の上。鹿納へと宥める言葉を残し、今度こそ背中を向ける。
「案ずるな。晶とてこの地に育ったものに違いは無かろう。雨月家が判断を
――
聞き慣れない違和感に、次いで天山を襲う灼ける痛苦。
か。吐息が詰まり、混乱から躰が棒立ちとなった。
「……困るのですよ、本当に」
「 、 、の、ぅ」
激痛から沈み始めた天山の意識へ、鹿納の潜めた囁きが響く。
覚悟と云うより、流された果てに終わる情けない決意のそれ。
――如何して思い至らなかったのか、廊下に圧し掛かる感触は人除けの結界だ。
「これ以上、天山殿に足を引っ張られるのは御免だと。
重要なのは、
「貴、さ。至心に、転んだか」
「ご安心召されよ。
儂が注進申し上げた故、あの
こうなる可能性を畏れて、至心を遠ざけたというのに。
行き場も無く膨れ上がる憎悪と嚇怒。身体から抜ける精霊力を振り絞り、天山は振り抜きざまに腕を
「――死ィァッ」
「ぐゥッ」
銀光の刻む軌跡が、鹿納の首を
ガラリ。小太刀が廊下へ転がる、寂しい音。
追撃の気力すらないのか、鹿納はそのまま闇の向こうへと消えた。
「……いや、致命傷か」
憎悪や嚇怒も、一線を越えると笑いが浮かぶらしい。
狂気に近い感情で浮かされるまま、天山も立ち上がる。
忘れ、天山は何処ともなく歩き出した。
僅かと垂れる血痕から昇る精霊光は、
――やがて呆気ないほどに赫く散る。
結局、真実を知ったとしても、天山の口から晶への謝罪が漏れる事は無かった。
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