14話 天を徹れ、微睡みの涙4
その刹那。
「これは、」
懐かしい世界の感触に、思わず吐息が漏れる。
視界の涯無くまで広がるその光景は、嘗て晶を染めた時に味わった光景だ。
――晶の、心奧。
「――やっと起きたかや、
「
唐突な揶揄う囁きは、一年振りとなる相手の響きだ。
鼻に皺を寄せ、視線を肩越しに巡らせる。
「晶に刻んだ
文字通り牙を剥き出し、己を封じていた
朱金を身に纏う少女は悠然と嗤い、神気の散り征く晶の内奥を見渡す。
状況は大方に理解できた。
二つの神柱を宿し得る、空の位最大の特権。それこそが、神域の外で
「成る程な。ラーヴァナの宿す九法宝典の神域解放は、対神柱に特化した敗北の呪いか。
「
端女風情の鳥頭は、随分とものの道理を弁えんらしいわ」
「何を云うか。初めて逢った時分、晶は泣いておったのだぞ。
――
「それは!」
続けられない二句に詰まり、黒い少女の
言い分は如何あれ、浮かれた
晶を放置してしまった3年。どう足掻こうとも、これから後に禍根として響く。
「――まぁ、善い。今は晶が先決じゃ」
両者とも云い分が衝突するだけ。
朱金などという派手なだけの残滓は、欠片も残す
猛りを上げる黒の波濤が、雪崩を打って晶の心奧を満たし始めた。
「くふ、その通り。晶の眠る場所を護るが、善い
――まぁ。未通女を拗らせた、居眠り亀には知れぬ真理であろうがさ」
「黙りゃっ」
多分に優越を含んだ
途端に黒の輝きが敵意に騒めき、水気が凍てつく呪詛を帯びた。
十重二十重と、相克関係に任せた術式が、
「――忘れたか、
どれだけ日輪が囀ろうとも、現世に
「忘れてはおらぬよ。
故に
ぱきり、ぱき。霜が
その現実を理解して尚、
――やがて厳冬の旋風が舞い去る頃、
「覚えておけ、
声はもう相手には届かない。それでも、充分に意図は伝わったと確信して
「決着は直ぐに。――神嘗祭でつけてやる!」
♢
水気が黒い輝きを伴い、晶と
莫大な質量のそれは、無策に足を踏み入れた瞬間に牙を剥く防壁。
下手に足を踏み入れる事も躊躇い、ラーヴァナは憎悪に眦を歪めた。
「莫迦な」
青く染まる
理解はしても、受け入れられない。――受け入れられる訳がなかった。
ただの
例外はただの一つ。空の位。複数の神柱を同時に宿す、文字通りの奇跡。
そんなものがラーヴァナの仕組んだ土壇場に現れるなどという埒外、神柱であるからこそ予想だに出来なかった。
「こんな、こんな都合のいい偶然が在って堪るかぁっ!! 二度も得られぬ空の位が、選りにも依って身共の策が結実する寸前に、 、
――真逆、」
怒気を張り上げるラーヴァナの瞳が、衝動のままに叫ぶ己の言葉に見開かれる。
信じがたい現実に棒立ちとなる異形の神柱へ、何という事も無い声が投げられた。
「……気は、済んだかや?」
悠然と。黒い輝きそのものの童女は、ラーヴァナを睨みつける。
「為らば去れ。
今後、
――此度に冒した貴様の不義、
「ふ、巫山戯てくれるな、
龍穴を喪ったとはいえ同格の神柱に対し、尊大な宣言。
譲れぬ矜持に衝き動かされて、ラーヴァナは憤激に表情を歪めた。
「身共にとって、現世は遊び場同然。
去るも来るも身共の自由なれば、龍穴に縛られた貴様如きに制限を掛けられる謂れなど無いわ!」
ラーヴァナから跳ね返る決裂の声に、
嘘を孕む可能性がある以上、神柱が意見を
嘘を吐ける権能である九法宝典が神域特性と引き換えに失われた現在、ラーヴァナも誓約を遵守する以外に道は残っていないのだ。
「為らば、致し方在るまい。ここで果てろ、ラーヴァナ!」
攻める速度に迷いはなく、掲げた右手に水気が宿る。
「雄ォッ!!」
吐き出す呼気は短く。絶大な水気は細く強靭に、振り抜く掌に従って一筋の刃と変わった。
一滴の滴などと、神柱の身であっても嗤い飛ばすことなど出来ない。
神柱殺しでなくとも、その質量は神柱の護りを越えて無視のできない損壊に届く恐れがあるからだ。
――そう。
晶に後が無いと嘲ったラーヴァナだが、その条件はこの客人神でも条件は同じ。
神域を持たない神柱に赦されるのは、それまで得ていた信仰による神気と溜め込んだ瘴気まで。
――彼女に残っているのは、その総てを犠牲にして得た敗北の呪いを与える神域特性だけであった。
思わず、視線を己の手元へと向ける。
九法宝典で突き込んだ際、不自然なほどに返る手応えは無かった。
今は沈黙する九法宝典に使用限界を減らした様子は感じられない。
無駄に使用回数を浪費しなかった事実だけを幸いに、ラーヴァナは大きく前方に大地を蹴った。
日輪を玉体とする神柱が持つ、神柱殺しの権能。
最も警戒した権能を封殺した手応えを、間違いなくラーヴァナは確信していた。
それだけを救いに、右手の鉄鞭を
水気の渦の外から放たれた大気を裂き割る斬撃は、
――しかし黒い童女へと届く寸前、六角形をした黒い輝きに阻まれた。
ぎり。歯を軋み鳴らせた異形の少女の足元が踊り、華奢な身体が
唸る鉄鞭はやがて視界に影を残さず、致死を齎す音だけが大気に響き渡った。
追う事すらできない斬撃も、都度に生まれては消える黒い輝きに弾かれる。
暫くして重ねられる攻勢も尽き、水気の渦巻くさざめきだけが辺りに残った。
――互いに無傷。
「く」
奥歯の軋む音を残し、無駄と悟ったラーヴァナが距離を取る。
護りに堅き。その威名が示す通り、水行が得手とするのは護りだ。
ラーヴァナが理解できないのは、九法宝典の権能までも護り切った絡繰り。
敗北の呪いは伊達ではない。
権能でも無いというのに、神域特性を無効化する
ちらりと後方へ視線を流す。
その先に佇む
「――行かせると思う?」
「!」
思考が逸れ、生まれる刹那の隙。停滞するラーヴァナへと、
辛うじて回避する青い肌を、その穂先が僅かに裂く。
咲を囲い込む独鈷杵と鉄鞭。旋回する薙刀は双方を弾き飛ばし、
――吸い込まれるように、ラーヴァナの肩口へと落ちた。
「それが在ったな、忌々しい棘め。
身共に2度目の敗北を刻むか」
「ええ。貴女を制する事が、シータの望み。
もう一度だけ告げるわ。
――ランカーに還れ、そこが貴女の居場所よ」
咲の技量は、
だがその事実に関わらず、咲の持つパーリジャータは刻まれた歴史そのままにラーヴァナへと敗北を齎すのだ。
神域特性は疎か権能ですらない、歴史の再現。
神柱の護りすらも無視する嘗て在った苦い敗北に、ラーヴァナの口元が歪む。
「いいや、
肩口に喰い込んだはずの穂先が、何時の間にか青く冷めた肌の表面で震えていた。
刃物が、柔らかな張りに傷一つ刻めていない。
九法宝典の神域特性。敗北の呪いが、パーリジャータを霞と消し去った。
徒手と変わった少女を見据え、ラーヴァナの持つ独鈷杵が咲へと牙を剥く。
刹那の攻防。その切っ先を見据え、咲は隠していた左手を
――半分に折れた
九法宝典の神域特性は、飽く迄も神柱を対象にしている。
精霊器を相手にするならば、意味を成さないのが最大の弱点だ。
「
全力で叩き込む、純粋な浄滅の檻。神気で織られた灼熱の底へ、ラーヴァナの姿が消える。
共に捲かれた熱圏から飛び退き、咲はその場で咳き込んだ
「咲!」「けほっ、まだ!」
案じる晶の声に、鋭く返る警告。
一瞬に生じる隙。遠く跳び上がったラーヴァナの姿が、
この場で霊道を潜る資格を有しているのは、晶と咲の2人しか残っていない。
決意に満ちた咲の眼差し。晶は迷いを振り捨て、立ち上がった咲と共に
「晶!」
その背中を追う、
「忘れりゃな。其方が持つは――」
霊道へ潜ると同時に、
それでも迷うことなく、咲と肩を並べてその先へと駆け出した。
「はぁ、は、ははは。やったぞ、
――高御座!!」
それまでの霊道と比べ、
連戦と、直に受けた敗北の歴史。辛うじて潜り抜けたラーヴァナは、辿り着いた霊道の向こうを見据え、粗く
広がる高御座の神域であろう、明るいだけの
簡素なだけのその奥で、気炎を吐くラーヴァナと相対した金色の少女が微笑みを浮かべた。
――言葉は返らない。
だが気にする余裕も無いままに、ラーヴァナは一歩と踏み出した。
霊道の終焉まで、後少し。
九法宝典の神域特性は残り6度。充分に残存する敗北の呪いを、その手に掲げて見せる。
「最期に訊いておきたいことがある」
充分に策を練り、露見しようと勝利するための罠を張った。
神柱の持つ膨大な時間に任せて、火行を宿す
僅かに策動が早まっただけだというのに、何度も破綻の憂き目を見た。
それさえも想定していたというのに、本当に最後の最後。
空の位。想像すらしなかった要素が、全ての盤面を引っ繰り返してくれた。
「――何時からだ?」
疑問だったのは、余りにも都合の良過ぎるその展開。
こうなる事を理解していないと、辿り着けない偶然と奇跡の数々。
「何時から、身共の策動を見抜いていた!?」
ラーヴァナの激憤を受けて尚、崩れぬ会心の笑みが高御座の口元を彩った。
玲瓏と零れるその呟きは、敗北を前にしてそれでも平易なまま。
「――最初から」
酷く簡素な響きだけを伴って、神域の磐座へと響いた。
――高御座の象は、万物の基礎たる土行。
「そうか。まぁ、良い。それさえも潜り抜けて、身共の策は成就した。
貴様に一度でも触れれば、
「叶いもしない願いは、持たぬ方が良い。
――さても、暫く。土産は大切に持ってきてくれたかの?」
総てを見通す金睛が、確信を射抜き、霊道の縁へと手を掛けたラーヴァナの向こうへと、無造作な視線を向けた。
「はい」
返るはずもない応え。慄然と背筋を粟立たせたラーヴァナの後背で、晶と咲が肯いと共に手を差し出す。
見た目には頼りない、小さな水晶の欠片。
鈍く煌めくだけのそれに宿る金色の神気を見抜き、ラーヴァナは思わず叫びを上げた。
――
「貴さっ、 、 !!」
「
娘たちにここまでの痛苦を強いたのだ、私も痛みを伴わねば」
巡礼の儀式を止めることはできない。
――だが、神域を丸裸にする事と引き換えに、霊道そのものを砕くことは可能だ。
晶という名の杭の打ち手に赦された、それは神権の破壊。
晶の掌中で水晶に幾重もの
変化は直ぐに。
今までいた場所から投げ出されるようにして、晶たちは深い木立の間へと放り出された。
「ぐ」「きゃあっ!?」
折り重なるようにして、咲と晶が倒れ込む。
強制的に霊道を抜けた影響か、断続する酩酊感に晶はえずく
揺れる視界を天に向ける。
そこに広がる茜の空、晶は無情の安らぎを覚えた。
「ここは、?」
答えを求めて周囲を見渡すが、広がる木立に咲も頭を振って返す。
辛うじて想像がつくのは、央都からそれほどに距離を離していない事くらいか。
呻く声がもう一つ。
少し離れた場所で、ラーヴァナが立ち上がった。
「やって、くれたわ、高御座。
――千年ぞ。この策動を練り上げ、充分に時期を待った。その総てを無駄だと」
神柱の浮かべる憤怒の視線が、晶たちを射抜く。
策が全て潰えた今、ラーヴァナには神気すらも残っていない。
僅かに残る神域特性を振るうだけの時間。消えるだけの敗北など受け容れはしないと、異形の神柱は気炎を吐いた。
「こうなった今、ただ朽ちるだけなど赦せるものか。
――
「ああ、そうだな」
赦せないのは、晶も同じだ。
それでも、一言だけラーヴァナに告げたい言葉があった。
「――有難う、ラーヴァナ。お陰で、逢う事も出来ないと覚悟していた方に逢えた」
逢うという選択肢は有った。
だが、恐かったのもまた事実だ。
憎まれていると思っていた。蔑まれているとも思っていた。
本当は頭の片隅に、ずっと思い残しがこびりついていたのだ。
追放されたあの日。どうして思い切って、静美や
そうだったら、そうすれば。
――己の怯懦が招いた、未練だけの仮定。
話をしようと思う。
これまでの事を。これまでの三年と、これからどうすべきかを。
子供が迷う時期は、もう終わりなのだろうから。
晶は茜の深まる晴天に手を差し伸べた。
霊道を通った影響か、
だけど、構いはしなかった。
この青い空が繋がってさえいれば、
――それは降り頻る星辰の護り手。現世を隔てる九重の天蓋。
その神器は晶の中に最初からあって、見上げれば何時でも広がっていた。
――黒曜の微睡みを護る盾。
彩りに移り変わるその神器を、天から引き摺り降ろす。
「天を透れ、――
その瞬間、
――世界に夜が降った。
♢
頬に貼り付く霜を払い落し、
「ふん、
「大丈夫ですか、
「問題ない。そろそろ晶が決着をつける頃合いじゃろうしの、本殿から物見としようか」
案じる
半壊した本殿から足を踏み出し、見える向こうへと視線を向けた。
「戦場は移り変えたようよな。
鬼門の郊外。客人神が逃げるなら、順当な方角か」
「そうなれば、
晶の限界は、既に明確なものとなっている。
だが頭を振って、
「神器に相性はあれど、強弱が存在しない事は知っておろう。
じゃが、現世に
「最強?」
本来は有り得ない言葉に、
神柱に位階は存在しない。司る象の相性が存在するだけなのは、有名な事実だからだ。
「然り。ほうら、始まるぞ。
――現世に
緩やかに、しかし速やかに世界へと玄が降りる。
その全貌を目の当たりに、
♢
茜の空が白々明けへと彩りを戻し、時間を巻き戻したかのように青天へと戻った。
やがて青の輝きは九重の真円に縁どられ、透徹へと移り変わる。
円の狭間から垣間見える、黒曜に煌めく夜天。
星辰は、その一つ一つが神柱の神威で織られた雫だと云う。
混沌に満ちた黒曜の海。降り頻る星辰の輝きから現世を護り続ける、微睡みの
見上げて映る天は、その総てが亀甲を象と鍛え上げた世界最大の神器だ。
「――其方は、現世を己の遊び場と口にしたな」
その声が耳に届き、ラーヴァナは視線を戻した。
何時の間にか晶の傍らに立つ、童女の姿が視界に映る。
「
神域の外に外れたことは理解していた。だからこそ、
「
何処に逃げようとも、何処に隠れようとも。吾の庭先を乱すだけならば、其方に逃れる術は与えぬ」
「……そうか。
最初から最後まで、身共は
何処までも策動に踊らされていた事実を悟り、ラーヴァナは鉄鞭を振り放った。
瞬時に生まれる亀甲の盾に吸い込まれ、手応えも無いままに脇へと抜かれる。
「――其方が簒奪した神器は、天に届くと思い上がれるのか。
星辰まで届くこの距離こそ、
力無く、ラーヴァナは無為に帰した神器を投げ捨てた。
だが、勝利までも投げ捨てた覚えはない。
その手に宿る九法宝典の神域特性を、剣の形に削り出した。
嘗て、その手で振るった、懐かしい剣の幻影。
虚空を斬り裂き、滑らかに構える。
「それは良い事を聞いた。距離そのものが盾だからこそ、神域特性に掛からなかったのか。
逆に距離を見据えて突き刺せば、九法宝典の神域特性に掛かるという事だな」
「いいや。もうこれで詰みだ、ラーヴァナ」
――神域、解放。
呟く晶の掌で、黒い輝きが軌跡を辿った。
「
掌に削り出される、剣の残影。
「在るが侭にと、月日
凝るそれは、黒曜の太刀を一振り象った。
神器に見えるそれは、神器ではない。
奇しくもそれは、
ゆるりと構える、攻め足に
晶が最も慣れた、
総ての手番が潰えたことを悟り、ラーヴァナは力なく自嘲を浮かべる。
それでも僅かな勝機を信じ、その爪先は力強く地を蹴った。
地を啄むような、踊る歩法。
晶を幾度となく惑わしてきた、独特のそれ。
間合いに忍び込む速度は健在のまま、それでも叩き落す晶の斬撃は追いついて見せた。
その剣理も、そこまで見れば大方に理解はできる。
虚実の入れ替わりは激しいが、攻める速度にそう変わりはない。
ラーヴァナの斬撃と晶の太刀が、火花を散らして鎬を削った。
踏み込む脚元が攻撃圏を奪い合い、一進一退の攻防が刹那に入れ替わる。
終わりは直ぐに訪れた。
呼気を吐き出し、ラーヴァナが大きく一歩を踏み出す。
明確な。本当に
掬い上げるようにして黒曜の太刀がその斬撃を弾き返し、
――踏み込んだ晶の上段から返す一撃が、ラーヴァナの肩口から斬り裂いて抜けた。
晶たちを翻弄した神柱は、末期の声すら残さなかった。
ただ異形の美貌に笑みを浮かべ、黒曜の太刀から解き放たれた星辰の輝きに呑まれて消えた。
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