11話 ぶつかり合い、淑女の意地と策謀と2
息せき切って、咲は
勢いに揺れた薙刀袋や鞄に結わえた杭やらが、抗議の悲鳴を上げる。
だが、それらへと意識を向ける余裕は、今の咲は持ち合わせていない。
練武館から響く武張った号声を横目に、少女の足は緑角館へと向かった。
扉を開けると、古びた紙の匂いと共に練武の喧騒が一気に遠のく。
変わらず静寂に満たされた本の間を泳ぎ、目当ての棚へと手を伸ばした。
先日、晶が手にしていた本。頁が勢い良く踊り、文字の連なりが過ぎて行く。
やがて、脇から覗き込んだ時に目にした一節へと、咲は辿り着いた。
記述の前後へ指を落とし、丁寧に辿る。
「……やっぱり。それが事実だったら、矛盾が出てくる」
――書に
呪符を
しかし、瘴気を
加えて、鬼道は仙人の技術である。
東巴大陸の知識に浅いアンブロージオが、付け焼刃で
アンブロージオに神器を引き抜かせた術が鬼道と異質のものだと仮定すれば、咲の腑にも落ちる。
――術とは、神柱の象に近い概念の一つ。
神柱は、自身の
加えて、その概念は行動理念にも同様に、絶対的な影響を及ぼす
鬼道と謎の技術、そしてアリアドネ聖教を利用し、
――これらには共通の理由が存在し、その先にこそ滑瓢の正体は潜んでいる。
「これ以上は、専門家の知識を借りないといけないか。
――晶くん、 、は無理よね」
哨戒任務で直ぐには逢えない少年の顔が脳裏に浮かぶも、咲は直後に却下した。
晶の持つ呪符の知識は捨てがたいが、現実に横たわる距離の問題は如何ともし難い。
現状で咲の採れる選択肢は、非常に限られている。
その中でも確実に会うことが赦されて、これらの知識に期待が持てる相手となると……。
「――
即断即決で結論を下し、緑角館を後にするべく咲は立ち上がった。
勢いよく緑角館の表へと出た咲の歩む先に、一筋の影が差す。
影の持ち主を視界に咲の爪先が歩む勢いを喪い、
……やがて止まった。
水兵服から覗く襟の色は、高等部に在籍するもののそれ。
自然体で立つ姿に殺気は無い。しかし、眼前に立ちはだかった相手は、嵐の前に似た穏やかさを孕んでいた。
「ご機嫌よう、
「――ご機嫌よう、
央都に帰還されていたのですね、驚きました」
「ええ。所用がありまして、私だけ一足早く。
「そうですか」
表面上だけ、乾いた笑みを交わし合う。
――何時の間に、央都へ到着していたの?
四院の央都不在という幸運が続いていたことで、無意識に脇が甘くなっていたか。
にこやかに挨拶を交わす内心で、咲は苦く
緑角館は、学院の奥まった位置に建っている。
出入口は学舎に繋がる
それに、
その事実が、少なくとも
現在、
しかし、側役である
「私が、静美様より代行権を与っている事は御存じの通り。
私の言葉は
やはり、側役が持つ最大特権、代行権の宣言をしてきた。
……つまりは、逃げられないという事。
「
それほどの信任、職役も与えられていない身には羨ましく思います」
惚けた
「真逆。所詮は私如き、晶
何れ惜しい花を逃したと、
「……………………それは、どうも」
――お互いに、同じ穴の
謙遜で糊塗した言葉の真意を正確に読み取り、咲の頬が強張りを覚えた。
であるにも拘らず、高天原の真反対に位置する
――問題は、何処まで把握されているのか。
それは、
「単刀直入に。
――
「意向は承りましたが、応じる旨は難しいかと。
確かに私は晶
それに、私は
夜劔姓。それを持ち出された以上、晶が学院に通っている事も露見しているか。
――何時からと迄は不明だが、直近の行動も把握されていると考えた方が良い。
――しかし、側役として状況に通じている少女は、頑然と首を振った。
「それでは遅いと、咲さんも承知のはず。
「……………………」
そうなるように
本来、龍穴から出る事の無い神柱が一堂に会する、神嘗祭の担う役割は多い。
平民にとっては五穀豊穣を願う祭事。華族には、後一年に
更に、神柱にとって見れば龍脈の調整を行う一大行事であり、
――三宮四院八家では正式に一族の後継を周知する最大の機会も含んでいた。
本来、三宮四院八家として正式に認められるものは当主とその継嗣の二人に限られている。
つまりそれ以外のものは、この大斎に参加する資格すら与えられていない。
正式に後継と認められる期間は12歳から15歳。しかし、最終年齢でのお披露目が瑕疵として見られる以上、実質的な最終年齢は14歳となる。
本来は晶の婚姻と併せて去年に披露したかったのだが、
一応、婚姻相手の発表はこの限りでは無いものの、相手は
決定のズレを隙と見做すものが多いことも、遅れた理由の一因であった。
以降の予定が総て崩れた現在、
「――何も、咲さんを責める意図はありません。
晶さんと
「不要です。
咲個人に対しては破格であろうが、晶の価値に対して甘過ぎる。
切り口としても手不足が否めない相手の提案に、咲は内心で首を傾げた。
「無論。
――応じていただければ、御家への謝礼も充分に約束いたしますが」
「過分なご提案ですが、ご提案には応じかねます。
所詮、私は教導の身。晶くんの決定に介在する権限は、それほどにありませんので」
「……謙遜ですね。
ですが、
突然の話題転換に、咲の瞼が
咲の兄である
家督に揺れが生じたとは、
「晶くんの教導に兄は関与してきませんが」
「咲さんが晶さまの側室に入られるとなれば、大いに関わりがあるでしょう」
「え!? で、ですけども、晶くんと私はそんな関係では無くて!!」
降って湧いた驚天動地、咲の頬に隠しきれない朱が散った。
未だその方面の認識が薄い少女にとって、晶とは教導の相手だけの先入観があり、
――精々が相棒の意識しか持ち合わせていない。
深奥に秘めた感情を暴かれ、咲の挙動に不審なものが見え隠れする。
わたわたと両手を無意味に振って、咲は頬の熱を誤魔化した。
「未だ拙い咲さんを教導へ就けた
同じ八家として、
「……どういう意味でしょうか」
鋭さを滲ませる咲の双眸に素知らぬ振り、
――彼我の距離がまた一歩と溶ける。
「
加えて、
綺麗事で体裁を糊塗しただけの
――咲が容認の選択肢を選ぶ可能性など欠片も無かった。
「お断りします。
晶
彼の選択は本人の意思次第でありますが、
エズカ
彼我の距離は、肩の擦れ違う狭間も無い。
「
「未熟なだけの
随分と軽んじてくれますね」
未だ短い夏を一つ越えただけの仲。
だが、咲のこれからに根付いた晶の表情が、荒く感情の波立つ脳裏に浮かんだ。
――これは意地だ。絶対に譲れない
吐息さえも触れ合わんばかりの距離で、咲と
「……御意見、無用にて。私と晶くんの仲に意見を差し挟む意味も無いでしょう。
「――
その意地を充全に含んだ、ただの箴言。
咲の
身内が気付いていないだけで、既に雨月の価値は地へと堕ちている。
現状は、雨月と強い繋がりを持っていた派閥の切り捨てが進んでいる段階だ。
内情を知っている相手から、捨て札に繋がればと受ける助言はただの皮肉にしか過ぎない。
――詰まる所、咲は
これは、
何れの雄も、雌を手中に収めるために生死を賭けるという。
だがそれは、雌とても同じ事。
より良い雄を惹き付けるために、己を最上の蜜と見せつけるのだ。
隣の蜜よりも、より甘く、より香り高く。
「
――覚悟も教育も足りていない咲さんに、これから側として振舞えるとは思えませんが」
「私は未だ、年齢も未熟の身。
絡み合い緊張を越えた双眸が、咲の宣言と同時に殺意に似た鋭さを帯びた。
双方に声も無く、
――これは、互いを切り捨て合う、女性の本能に基づいた儀式。
最早、言葉すら必要ない。
迸る精霊力が咲たちの間合いを軋ませ、弾けるように散って消えた。
♢
競い合う少女たちの円舞。
―――見ツケタ。
その背中で踊る杭の神器に、木彫りの面に穿たれた眼孔の奥が歪に笑みを
言葉は無く、意志すらも求められなかった。
ただ、面に刻まれた記憶の通りに、人外の存在が躯を起こす。
――みちり。
瘴気を吐き出し、面に刻まれた記憶がその肉体を
みちり、みち。緩やかに、しかし停滞する事無く変貌は続く。
僅かに流れる瘴気が虚空に散じて色も失われた後、
其処に立つのは鍛え上げられた体躯の男であった。
「ふムう。
――悪クない」
無骨な笑みが口元を彩り、脇に置かれた
生前の記憶通り。否、それ以上に滑らかな所作で肉体が動く。
「さアテ。 ……主上の願い通り、機を見計らって狼煙上げとするか」
どかりとその場に座り直し、男は眼下に繰り広げられる闘いの趨勢読みに興じる。
――数百年遡るその昔、平民でありながら剣技の妙で名を馳せた志士がいた。
在野で戦に明け暮れた果て、その志士は
その男の末路を知る者はいない。
刃を諦めて余生を寂しく過ごしたとも、剣技の妙を極めた奥義書をどこかに隠して野垂死んだとも諸説に聞く。
ただその名前だけが、憧憬を以て人々の記憶に上るのみ。
――
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