9話 少女が来る、狼煙を上げて3
――かつ。
静寂だけが支配する中、黒板に白墨が落ちる微かな音が響いた。
かつかっ。数字と公式の弾き出した答が結ばれ、晶の声が締める。
「――以上で証明終了です」
「正答だ。
――戻って良いぞ」
教諭の許可に一礼を返し晶が着席した時、半鐘が数度に分けて鳴らされた。
一拍の沈黙を置いて、教諭は眼鏡を外す。
「時間だな、今日の授業はここまで。
――次は新しい項に入る。予習を忘れないように」
「「ありがとうございました」」
一斉に唱和された声に送り出され、扉の外へ教諭が消えたのを皮切りに喧騒が教室を支配した。
晶という異物が混入したとしても、学院の日常に崩れる気配は窺えない。
解放感に沸く生徒たちに紛れて独り。晶は支給された教科書を十字に縛り、帰り支度を整えた。
雨月
――
「晶」
意識を向けないまま掛けられた声に、晶は顔を上げる。
視線の先には、この数日で何かと会話を交わす関係になった諒太が、相変わらずの表情を浮かべて晶の前に立っていた。
「教諭から呼び出し、帰る前に教員室に寄れとよ。
――確かに伝えたぞ」
「ありがとうございます。
――
目礼を返す晶を背に、何を思い侍らせていたのか鼻を一つ鳴らす。
その足は止まることなく、歩む先に立っていた一団へと消えた。
ぱさり。紙の束が立てる僅かな音と共に、惜しそうな担任教諭の視線が晶を射抜く。
諦観を多分に含んだその視線を、無感動な晶の視線が迎え撃った。
「判断は変わらんか?」
「ご提案は嬉しく思いますが……」
惜しそうに口にされた幾度目かの提案に、然して心を残すこと無く晶は頭を振って返す。
暫定で晶の担任教諭となった
その机には、転入手続きの書類が一揃い。
学院における晶の立ち位置は、目立つことの無い質素なものだ。
しかし、地頭の能力やそれに伴う結果まで誤魔化せるものでは無い。
前面で注視されるような事態は避けられても、試験の結果を公で
結果、編入した後に行われた学力試験で、晶は上位を軒並み掻っ攫ったのである。
その結果は晶たちの学級に止まらず、『北辺の至宝』たる雨月
雨月
横から合いの手で入ってきた少年が、その記録へと迫ったとなれば、教諭たちの驚天振りも図れよう。
律法に明るく、算術に優れている。特に符術や陰陽術に関連する授業では、周囲より呪符の理解に一歩先んじる向きすら感じられた。
――
担当教諭である四倉がその考えに到ったのは、ごく自然な帰結であろう。
「――又、振られましたか?」
「何の。彼が
――何でしたら、
背中で聞き耳を立てていた別学級の担任からの
……それに、
残念には思うが晶に問題が無い訳でもない。
特に、朝と夕方の練武に顔を出さないのが問題であった。
晶たちの時代、体育の必要性はそれほどに周知を得られていない。
それに代替する授業として、門閥流派の練武が取り入れられていたからだ。
華族たちにとって心技体の技術は、精神修養以上に純粋な戦闘技術としての面を研鑽する目的がある。
練武に顔を出さない晶を学院生として推挙するのは、文の才知に目覚ましくとも担当教諭1人だけの意向では難しい。
惜しいと思いながらも意識を切り返る。
――仕事は他にもある、四倉は自身の机で別の書類を広げた。
♢
廊下を急ぐ晶は、その向こうから
「先輩か。随分と疲れているな」
「よう、後輩。
そりゃあな。これでもかってくらいに課題を寄越されたら、寝不足にもなる。
誰だよ、電球なんてものを発明した奴は。人間、夜には眠るのが常識だろうが」
「羨ましいくらいだ。
長屋住まいじゃ、未だ
迅ほどではないが、晶も授業の補講として連日の深夜付き合いである。
電球の存在は知っていたが、その絶大な光量の恩恵に鮮烈な感動を覚えたのは数日前の事だ。
因みに悪いのは、電球ではなく補習に苦労している迅である。
明後日の方向から恨みを買った電球をさておいて、苦笑しながら晶は目礼だけを返した。
「――そうだ、後輩。今日の午後、予定は空いているか?」
「ああ。
この後、
晶の応えに、迅は軽く頷いて返す。
「
――付き合えよ」
迅の誘いに、晶は少し考え込んだ。
予定が無いのは事実であるし、それなりに付き合いの生まれた相手の
気懸りはあるものの深く考えることはなく、晶は頷きを返して承諾した。
――
報告に赴いた晶が会議室の引き戸を叩いた時、咲を除く女性陣は既に室内で顔を揃えていた。
中央棟にある会議室など、本来ならば然う然う立ち入る用など起きはしない。
掃除が余り行き届いていないであろう現実を暴くかのように、宙を遊ぶ埃が窓掛から差し込む日差しの形を削りだしていた。
「遅くなりました」
「いいえ。私たちも、先刻に座ったばかりです。
――晶さんは、日々を問題なく過ごせていますか?」
「はい。俺、 、 、自分には思いもしなかったほど、充足した日々に刺激を受けています」
晶の返事に満足したのか、
襟口を辿るように整えてから、奥襟に縫われた名札に視線を巡らせた。
「新しい姓には慣れましたか?」
「……姓を持たないのが日常だったので、未だに落ち着きは感じません。
暫くすれば、違和感も無くなってくれるでしょうが」
「不明が無ければ、後は時間の問題ですよ。
……女性の多くは、一度、姓を変えるのが普通ですので」
慣れないと零す晶を宥め、名札の姓に指を当てた。
思いつかない選択肢は、存在しないものと認識するのが人間だ。
雨月
晶の名前が記憶に引っかかるのであれば、別の姓を用意すればいい。
名前だけならば記憶に引っ掛かる可能性もある、しかし姓が違えば勝手に向こうが別人と思い込んでくれるだろう。
新しい晶の姓は、見えないところで晶を護り続けていた。
暫く、側役たちと離れた位置で談笑を交わす。
その内に息を急き切った咲が、一陣の秋風と共に会議室へと飛び込んできた。
「遅くなりました!!」
「然程には待っていません。
咲さんも昨日の山狩りに疲れは残っているでしょうし、楽になさってください」
「感謝申し上げます。――
先に会議室の席へ腰を掛けていた
勧められて立つだけにもいかず、気後れもそこそこに咲と晶も
「では、始めましょうか。
……山に巣喰っていた
「そうですか。
――央都の守備隊は」
守備隊が口減らし目的で無茶を
何故ならば、どの
それに、晶たちは所詮、他洲の防人である。
今回の山狩りを過怠無く過ごせたとしても、晶たちが離れれば元の木阿弥であることは瞭然だ。
それでも山の平穏を取り戻すことが叶えば、酸鼻を抓むような出来事も減るだろう。
「隊長の宍戸からの苦情が上がったので、総隊長の
五行結界の威光を盾に洲へと戻ることを勧めてきましたから、余程、肚に据えかねたのでしょうね」
「四院に楯突いたのですか?」
「珍しい事ではありません。
――彼らにとって旧家の矜持とやらは、百鬼夜行よりも優先されるべきものらしいので」
三宮の威を借りた旧家の態度は、今に始まった事ではない。
その増長も央都を出ないため目立ちはしなかったものの、それでも他洲を軽んじる態度は常々問題視されてきた。
「極言、旧家は囀るのが仕事、放置しても問題ないかと。
それよりも、
――初手としては常道ですが、私を含め四院の直系を五行結界の要に詰めて、
「要、ですか?」
幾度か聴いた記憶のある言葉に、視線を上げた晶の表情を咲が窺うように覗き込む。
五行結界の存在は有名であるが、その詳細となれば知っているものは意外と少ないからだ。
「洲の龍脈は、総て央都の周囲に
五山を巡る大斎を経て強大な結界を維持するのが、四院に課せられている義務なのよ」
「では、
咲の説明を受けて、視線を戻した晶に
「南東にある
北山、茅之輪は
現在、
――
「そうですか……」
その場にいる全員が晶の変調に気付き、
――努めて何ごとも無いかのように視線を戻した。
「
――故に私たちも、反攻の一手を用意しなければなりません。
その為にも先ず、
「
「龍穴を
――神柱とは司る象そのもの。
所詮は敗北を刻まれた神柱。条件さえ整えることが叶えば、神柱は不本意だろうと必然の結果に準じるしかない
――だが、
「……『アリアドネ聖教』を隠れ蓑にしていた以上、来歴は西巴大陸でしょうが」
「うん。だけど……」
考え込む晶の呟きに、咲が苦く応じた。
鉄の時代。神域が閉じて龍穴の制御が侭ならなくなっていると、嘗て金髪碧眼の少女が口にしていた。
それを考慮すれば、西巴大陸を起源としている可能性は更に跳ね上がる。
しかし、西巴大陸は広大だ。地図の上だけでも、その広さは相当と評して余りある。
これだけの土地。風穴と何ら変わらない規模まで含めると、龍穴の数も星の数ほどに登るだろう。
返る言葉の濁りは承知していたのか、然して残念そうな表情を浮かべることなく
「陰陽省の書庫か、央都図書館の資料庫にあれば良いのですが。
――数日の後に
「判りました。
――後、ご相談があるのですが」
「はい」
晶からの珍しい願い出に、
幾度か喉の奥を濁らせた後、やがて意を決したのか晶の視線が
「
昨夜の山狩りで、自身の継戦能力に大方の目算は付いていた。
陰陽術と違い、
行使速度と威力の桁が違う反面、多大に精霊力を
神気へと精霊力を昇華して
「万全の状態で、神気に昇華しない。この条件であっても戦闘は10も重ねられません」
「……
この言葉の意味を、今一度、考えてみてください。
――晶さんは、既にその事を知っているはずです」
僅かに云い淀んだ後、
伝えるかどうかは悩ましかったが、現状の問題は百鬼夜行だ。
抗うための手段は、一つでも多い方が良い。
だが端的すぎるその忠告に、晶は二句を継げなかった。
「それは、」
「此方は夜行に間に合うか不明ですので、喫緊の夜行にも備えておきましょう。
――央都に限りますが、神気を満たす方法は用意しています」
要は央都に在って、
「
即ち、あの領域に在れば、
――この後、下見も兼ねて玖珂太刀山へと赴く予定ですが、晶さんも来られますか?」
「はい、それは、 、 、あ……」
承諾を繋げようとした晶の記憶に、迅の誘いが蘇る。
「申し訳ありません。駅で出迎えを頼まれまして、今日は控えさせていただきます」
「「え?」」
予想の外から返った応えに、
学内に
……何の慰めにもならなかったが。
「だ、誰が……?」
「
央都に要人が来訪されるとかで、数合わせを頼まれました」
「要人?
出迎えを
思考が正答を導き出し、
五行結界の強化に四院の直系を央都へ
その内三院までが
報道でも近日に来訪することは判っていたが、依頼を出した昨日の今日で到着するなど不可能である筈。
時機から逆算すると、晶たちが央都に向かう辺りで準備に入っていないとおかしい。
ましてや
――怪しまれている事は気付いていた。しかしどこで確信を得たか、
友人関係を盾に呼ぶのは上手い一手だ。無理なく断りにくい建前で、もし露見しても
この指示の後ろに立っているのは
珠門洲の関係者を排除した状況を整えて、
「晶くん。出迎えの人数は言及されていないのね? ……なら、私も付き合う。
――八家の出迎えなら、
「は、はい」
どこまで状況を読めているのか、頬を膨らませた咲が晶に圧力をかけた。
気圧されながらも首肯を返した晶に、咲は漸く笑顔を浮かべる。
その様子に一先ずの安堵を得て、
これは女性の戦いだ。陰湿で独占的な、女性の隠すべき部分を削ぎ落す通過儀礼。
状況をそれなりに理解している咲なら、上手く牽制をしてくれるだろう。
……であるならば、
自身を巡る戦いが盤外で熾烈な花火を散らし始めているなど、自己評価の低い晶には想像にも及ばなかった。
央都へと西の風を運んでくる童女が、その意図とは別に狼煙を上げる。
幾つかの書類が風に乗り、会議室の机上へと広がった。
そのうちの一つに書かれた、晶の新しい姓が少女たちの騒動に揺れる。
何時かに滅んだ華族の姓。
旧く、そして最も新しい。晶だけに赦された。
――
それが、晶の新しい居場所の響きであった。
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