9話 少女が来る、狼煙を上げて2

 鬱蒼と広がる夜闇の向こうで轟く遠雷に、弓削ゆげ孤城こじょうの口元が知らず綻びを見せた。


 頭上には、灯明に困らないほどの星明りが満ちている。

 夜天に響いた時ならぬ雷声は、陣楼院流じんろういんりゅう精霊技せいれいぎを行使した証であった。


「……迅の奴め、疾雷しつらいを行使ったな。

 苦手を行使するほどに追い詰められたか、……晶くんたちを気に入ったか」


 同年代では頭一つ飛び抜けて実力を示していた迅は、歪みこそはしなかったものの友誼を結ぶ相手に難儀していることが気掛かりであった。


 晶との間に自然な交友関係を期待はしたが、果たして振った賽の目は随分と良い出目を見せたようである。


 少し離れた場所で、刹那の火焔が立ち昇った。

 阿僧祇あそうぎ厳次げんじ精霊技せいれいぎであろう。爆発とみるには静かで、完全に統御された炎。


 火行の精霊遣いらしからぬ、それでも冴えわたる剛の一太刀は見るものを惹きつけて止まない。

 阿僧祇あそうぎ厳次げんじと洲を越えて友誼を結べたのは、弓削ゆげ孤城こじょうとしても何よりの僥倖であった。


 ――気心に障らず背中を任せられる友情は、防人にとって貴重な存在だ。

 迅が巡り合えた縁が長く続くよう祈りながら、孤城こじょうは年少たちに遅れまじと太刀を抜刀いた。


「私も負けていられないか。

 ――さて。瘴気の濃さから、蜘蛛の首魁はこの辺りのはずだが」


 化生としても、絡新婦ジョロウグモは知能の低い部類に入る。当然にして、瘴気の隠蔽を始めとした戦術をとられる心配は基本的に無い。


 それでも孤城こじょうの所作に油断は一切なく、罠があっても突き破れば良しと云わんばかりに闇の奥へと踏み込んだ。


 瘴気の奥から、女面の化生が迫る。

 大きく裂けた口蓋から乱杭歯が向けられ、孤城こじょうの足元には粘糸が絡みつく。


「罠としても、拙いな」


 対する孤城こじょうはつまらなそうにそう呟くだけで、ごく自然な動作から眼前の女面に太刀を衝く。

 陣楼院流じんろういんりゅう精霊技せいれいぎ、初伝、――旋風牙つむじきば


 尖鋭い切っ先が面の額に大きく埋もれ、内部で爆ぜた風の渦が蜘蛛の肢体を四散。


 ――嵩が一匹。個の死よりも群れを優先する蟲の思考が、蜘蛛たちを恐れも終わりもなく孤城こじょうへと続かせる。


 その度に斬閃が絡新婦ジョロウグモとおり貫け、化生の躯を腑分けしていった。

 連技つらねわざ、――乱繰り糸車。


「恐れも退却も知らぬ死兵。――確かに厄介ではあるが、所詮はそれ止まり。

 慣れれば、嵩も知れるか」


 雲霞うんかの如く湧き出る化生を斬り捨てながら尚、その歩みに澱みは窺えない。

 散らばる残骸を踏み躙り、孤城こじょうは更に奥へと進んだ。


 ――やがて大きく開けた一画で、孤城こじょうの歩みは終わりを告げた。


「やれやれ、随分と奥に潜んでくれたな」


―――、 、ゥヲ、 、 。


 月の明かりに照らされた広場。


 木々が粘糸で囲われたその中央で、一層、巨きな蜘蛛の躯が孤城こじょうに赤黒い凶眼マガツメを向ける。

 軋むような音を立てて八肢が蠢き、鈍重そうなその巨躯が僅かだけ屈んだ。


 周囲に転がる生き物であった残骸から澱む、隠しきれない死臭と瘴気が渦と捲く。


 孤城こじょうの戦意に焦れたか、それとも蟲なりに恐怖でも覚えたか。判然としないままに地を蹴立て、巨大な蜘蛛の躯が孤城こじょうへと向かう。


 対する孤城こじょうは、何の気なしと云わんばかりに太刀を斬り昇らせるだけ。

 だが、迸る精霊力が刀の軌跡に追従し、昇る竜巻が女面の顎を克ち上げた。


 陣楼院流じんろういんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝、――鮭颪さけおろし


 顎ごと跳ね上がる蜘蛛の巨躯に構わずもう一歩を重ね、

 切っ先に沿って叩き落された無形の槌に、女面が蜘蛛の躯ごと地面へと埋まった。


 陣楼院流じんろういんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝、――地嵐じあらし


 抵抗の赦されないまま暴風に玩弄され、それでも絡新婦ジョロウグモは平然と立ち上がる。

 その様子にやや興味が掻き立てられ、孤城こじょうは蜘蛛の化生を一瞥した。

 通常の絡新婦ジョロウグモでは有り得ない、その巨躯を取り巻く濃密な瘴気。


「……成程。瘴気でその巨躯を強化しているな。

 偶然か? それとも――」


 その考察の半ばで、猶予を待ってやらぬとばかりに蜘蛛の躯が跳ねた。

 見た目に反して素早い跳躍、孤城こじょうは黙って視線だけで追う。


 巣の外殻を構成していた木々を薙ぎ倒し、轟音を蹴立てた絡新婦ジョロウグモ孤城こじょうの背後に回り込んだ。

 ――その勢いのまま孤城こじょうに跳びかかり、その乱杭歯は孤城こじょうの代わりに虚空そらだけを八つ裂いて過ぎる。


 至極あっさりと回避され、絡新婦ジョロウグモ凶眼マガツメ孤城こじょうを探して夜闇を彷徨った。


「後ろに回り込むのは悪くない発想だが、……所詮は蟲の浅知恵か」


 興味の失せた声が、蜘蛛の背後から響く。

 醒めた響きに誘われて躯ごと向き直った赫い光芒に、孤城こじょうが刀を脇に構える姿が落ちた。


「御座が醒めた、終わらせてやろう」


 ―――!!。


 醒めたその呟きに触発されたか、絡新婦ジョロウグモが地を蹴って孤城こじょうへと真正面から突進。

 対する孤城こじょうは、自然な所作で刀を振り抜くだけ。


 微風は疎か精霊力も励起されない静寂の一太刀が、蜘蛛の勢いを徹り貫ける。

 陣楼院流じんろういんりゅう精霊技せいれいぎ、初伝――。


虎落笛もがりぶえ


 女面の喉笛が半ばまで断ち切られ、極小の暴風が女面を喰うように乱裂いた。

 交差。しばらく歩いたその後に、力を失った蜘蛛の肢体が地響きを立てて崩れ落ちる。


 周囲の脅威が完全に収まった気配を確認して、孤城こじょうは常と変わらないような息を一つだけ吐いた。


 ♢


 ごつり。遠慮のない音を立てて、厳次げんじの拳が晶の頭に落ちた。


「~~~~っっつつつ」


 意図を理解しているその一撃を敢えて受け、晶は視界に奔る火花に悶絶を漏らす。

 その様子に、厳次げんじは大きく溜息いきを吐いた。


「退路を確保していない時点で先行するのは愚の骨頂だと、どれだけ教えればお前の知識あたまに染みてくれるんだろうな?」


「~~……押忍」


 理解はしている。厳次げんじが怒っている通り、それが悪手である事も当然に。

 ――だが、あの瞬間に自分の衝動が抑えられなかったのも、また事実である。


 このままではいけないと自問自答を繰り返してはきたが、結局、ずるずると今まで引き摺ってきてしまった。

 さらに最悪な事にこの問題は、程度の差こそあれ弾かれた結論の規模が段々と大きくなってきている。


 前回までは笑いごとで済んだが、今回は隊列を乱すほどの問題が噴出しているのだ。

 ――このままいけば次回つぎでは、最悪、人死にが出かねない。


 何しろ、晶の無茶を支えてきた朱華はねずの加護も、現時点では有限でしかないのだ。


 この衝動をどうにかしなければいけない。

 前に進めない焦れた感情だけを、晶はただ持て余していた。




 かさり。落ち葉を踏む音に、周囲の警戒をしていた咲の視線が巡る。

 闇の広がる木立の向こうに、衛士の羽織をひるがえした孤城こじょうの姿を認めて警戒を解いた。


「お疲れ様です、弓削ゆげの御当主さま」


「ああ、輪堂りんどうのお嬢さんも。

 ――絡新婦ジョロウグモの首魁は討った。これで、残りは烏合の衆となるはずだ」


「そうですか」


 大きな山場を越えた報せに、咲の安堵が大きく吐かれる。


 絡新婦ジョロウグモの中でも一際に巨きな個体が、瘴気溜まりを維持するための要になる。絡新婦ジョロウグモが巣食う棲み処を浄滅するという事は、その個体をどれだけ早く討伐できるかの時間勝負でもあった。


「――それで、晶くんは?」


「……独断専行の件を怒られている真っ最中です。

 明日は特別訓練ですね」


 笑いを堪える仕草を見せる咲に対して、孤城こじょうも苦笑で応じる。


 何時、百鬼夜行が央都を襲うかも判らない状況である。神無の御坐の精神状態は、こちらの勝敗を左右し兼ねない可能性も孕んでいるからだ。


 一通り、周囲を見渡すと、奈切迅なきりじんが小走りに寄ってくる姿が見えた。


「お疲れ様です、師匠」


「ああ。迅の方も問題なかったかな?」


「後輩が手抜かりをした以外は」


 詳細を訊けば、呪符と精霊技せいれいぎの同時行使に失敗したと返事が返る。

 その奇妙な結果に、孤城こじょうは内心で疑問を浮かべた。


 確かに同時行使は特殊な技術だが、呪符の励起程度ならば初歩で憶えていなければならない技術でもある。

 晶の知識と神無かんな御坐みくらとしての素養を考えれば、有り得ない失敗だが。


 そこまで考えて、小首を振る。

 興味はあるが、詳細を突っ込むと藪蛇になりかねない。


「他には?」


「疑問に思っていたのは、守備隊の総隊長が口にしていた瘴気の薄さです。

 確かに央都郊外は然程でもありませんでしたが、一つ山を越えただけで絡新婦ジョロウグモに当たったんで話が食い違っているなと」


 個の化生とすれば雑多に過ぎないが、絡新婦ジョロウグモの本領は群れた時だ。

 数の暴力を使い捨てにする戦術・・は、如何なる局面でも決して無視はできない有効手段である。


「……二曲輪にのくるわ殿の言い分からすれば、山を越えれば地方と見ているだろうね。

 央都の郊外と云えば、五行結界の外周。そりゃあ、穢獣けものも少ないのが当然か」


 五行結界とは、五洲の龍穴と直結させた央都外郭の五山を結び、央都そのものを神域にする大結界のことだ。

 4千年突破された事の無い結界は央都の御自慢であるが、二曲輪にのくるわの言い分からすれば随分と微温湯ぬるまゆに浸っていたことが窺える。


 ――要は、信頼という名の怠惰をむさぼっていただけか。

 肩を竦めた己の弟子に苦笑を向けて、孤城こじょう厳次げんじへと足を向けた。


 悄然とする晶を余所に、距離を取った厳次げんじの背中へと声を掛ける。


「――絡新婦ジョロウグモの首魁は討った。麓の連中宍戸たちが教練通りの封鎖をしたら、完全な浄滅にはそう時間が掛からんさ」


孤城こじょう殿には苦労を掛けた。うちの莫迦弟子が隊列を乱さなけりゃ、もう少しは早く済んだでしょうに」


 気にすることは無いと頭を振って、孤城こじょうは晶たちに聴こえないように声を潜めた。

 晶の問題はさておき、懸念は他にもあるからだ。


厳次げんじ。宍戸たちの事だが……」


「判っている。

 ……腹立たしいが、奴等、絡新婦ジョロウグモの事を知っていたんだろうな」


 ――やはりか。

 苦々しく返る厳次げんじの同意を受けて、孤城こじょうの胃腑にも得心が落ちた。


 確かに五行結界の周辺では華蓮かれんよりも穢獣けものが少なく、これが日常だと口々に証言は得られている。

 過去数年の記録を漁っても齟齬は見当たらなかったため、疑問には思いつつも言及はしなかったのだ。


 不穏を孕んだまま数日が過ぎて行く中、耳にした山狩りの報。

 参加の意思を示した時に二曲輪にのくるわが見せた表情の意味を知れただけでも、半ば横槍を差し込んだ甲斐はあったというもの。


 やや多勢に組まれた勢子班の頭数と、山の封鎖に到るまでの判断の拙速つたなさ。


 ――恐らくは最初から、勢子班を捨てる心算つもりで行動を起こしていたのだろう。


「……口減らし。随分と品の無い所業を隠していたな。

 山一つ越えただけでこの有様ならば、更に外側はどれほどか」


絡新婦ジョロウグモはあまり巣から出てこないとはいえ、脅威を甘く見積もり過ぎだ。

 ……華蓮かれんの守備隊でも、何処ぞの番隊が似たような事をしていると噂になってはいたが」


 西巴大陸の医療技術が台頭するにつれて爆発的に増えた人口は、あぶれた子供たちの受け入れ皿でもある守備隊の経済状況を圧迫していた。

 発展いちじるしい華蓮かれんの守備隊でも問題視されていたくらいだ。人口当たりの面積が限られてしまっている央都での顕在化は想像するに容易い。


 華蓮かれんの方では確か、万朶ばんだに近い華族連中が率いていた隊が槍玉に挙がっていたと記憶にあった。

 今頃は、権力争いと後釜競争に血眼であるだろう。


「私の口から、内密に訴状を上げようか?」


「旧家相手に八家が仲違いを起こすのは不味いだろうな。

 特に今は、周囲の状況が本当の意味で把握できていない」


 華蓮かれんにさえ戻ればほぼ無関係となる厳次げんじたちと違い、八家、特に名の売れている弓削ゆげ孤城こじょうは旧家との関りも何かとある。

 状況が起きてもいない今から余計な波風を立てる判断は、厳次げんじに下せなかった。


 獣声に似た唸りを咽喉のど奥で漏らし、厳次げんじたちは悩むこと暫し。

 腕組みをしていた孤城こじょうの視線が、闇に沈む山稜を見上げた。


「……隠せない情報から逆算して当たるとするか。

 瘴気溜まりの報告は地方から上がるだろうから、こればかりは誤魔化せないはずだ」


「成る程。少なくとも、風穴に異常があれば央都上層も絶対に無視はできない、か」


 央洲おうしゅうける鉄道輸送は、近年で漸く軌道に乗ったばかりだ。

 脚光を浴びている鉄道事業が瘴気溜まりの隠蔽で暗礁に乗り上げでもしたら、それこそ旧家が存亡を問われる事態にもなる。


 彼ら自身の安寧が掛かっている以上、瘴気の事情を誤魔化す事は考えられなかった。


「考えるだけでは埒は明かんか」

 休息と警戒をしていた晶たちに向けて、厳次げんじは片手で合図を上げる。

 指示に従って下山の準備を始めた若手たちを横目に、太刀を納刀める孤城こじょうに向けて肩を竦めた。

「まぁ、宍戸たちに一言くらいは良いだろうさ。

 ……皮肉程度で身を改めるような連中でも無いだろうが」


 そうなってくれたらどれほど良いか。

 無駄と知りつつ皮肉に混じる願望に、孤城こじょうは気付いても言葉に返すことは無かった。


 ♢


 欠伸あくびを堪えながら寮の自室に帰った浅利あさり澄子きよこは、同室の少女が机に座っている姿に瞼を瞬かせた。


「あれ? 咲、不寝番じゃ無かったの?」


「もう。何時だと思っているの? お天道様は昇り切っているわよ」


 少女から返る呆れた口調に、窓の外へと視線を巡らせる。

 指摘された通り、快天の明るい陽射しが目に差し込む。


 見下ろす窓の向こう側も人の流れは既に多く、澄子きよこは照れ隠しに舌を出した。


「休日だから、のんびりし過ぎちゃったかなぁ」


「結婚してから治るってものでも無いんだから、今のうちに習慣をつけとかなくちゃ」


 はいはい、お母さん。少女の口調に滲む口喧しさに、澄子きよこはそう笑いながら机へと腰を掛けた。

 椅子ごと相手に身体を向けると、少女の手から覗く新聞の見出しに気付く。


「――陣楼院じんろういんの御継嗣、2年後の入学を控えて央都御遊行の事?」


陣楼院じんろういん家が比翼、弓削ゆげ孤城こじょうに併せて、天領てんりょう学院視察を御予定の由……、ね。

 凄いよね。これで、央都に四院直系が全員揃う訳だ」


 常らしからぬ他人事の口調に、澄子きよこは小首を傾げた。


 咲は八家という出身に加え、ここ最近では奇鳳院くほういんの覚えも目出度い。

 何かと呼び出されてしまいそうな気もするが。


「予定に併せてくれて、少し安心したかな」


「予定? 何か会合でもあるの?」


 澄子きよこが聞き咎めたその響きに、少女は笑顔を向けて話題を逸らした。

 詳細を訊ねたら厄介になる可能性に気をまわし、澄子きよこもそれ以上の追及を避ける。


 暫くの談笑に興じた後、少女は休日の装いをひるがえして立ち上がった。

 手に持つ新聞を小脇に抱え、寮の入り口へと向かう。


「不寝番でしょ。寝ないの?」


「少し目が冴えちゃった。

 外を散歩してくるわ」


 行ってらっしゃい。応じる澄子きよこの返事は聞こえたか、そのまま着物姿が扉の向こうへと消える。

 奇妙なまでの静寂に気を取り直し、澄子きよこは自習の続きを進めるべく机へ向かい直った。


 暫くの間、鉛筆が走る静かな音のみが静寂を渡る。

 ――秋風に制服の裾を棚引かせた咲が欠伸あくびと共に帰寮したのは、朝の何気ない会話を澄子きよこが忘れた頃のことであった。

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