9話 少女が来る、狼煙を上げて2
鬱蒼と広がる夜闇の向こうで轟く遠雷に、
頭上には、灯明に困らないほどの星明りが満ちている。
夜天に響いた時ならぬ雷声は、
「……迅の奴め、
苦手を行使するほどに追い詰められたか、……晶くんたちを気に入ったか」
同年代では頭一つ飛び抜けて実力を示していた迅は、歪みこそはしなかったものの友誼を結ぶ相手に難儀していることが気掛かりであった。
晶との間に自然な交友関係を期待はしたが、果たして振った賽の目は随分と良い出目を見せたようである。
少し離れた場所で、刹那の火焔が立ち昇った。
火行の精霊遣いらしからぬ、それでも冴えわたる剛の一太刀は見るものを惹きつけて止まない。
――気心に障らず背中を任せられる友情は、防人にとって貴重な存在だ。
迅が巡り合えた縁が長く続くよう祈りながら、
「私も負けていられないか。
――さて。瘴気の濃さから、蜘蛛の首魁はこの辺りのはずだが」
化生としても、
それでも
瘴気の奥から、女面の化生が迫る。
大きく裂けた口蓋から乱杭歯が向けられ、
「罠としても、拙いな」
対する
尖鋭い切っ先が面の額に大きく埋もれ、内部で爆ぜた風の渦が蜘蛛の肢体を四散。
――嵩が一匹。個の死よりも群れを優先する蟲の思考が、蜘蛛たちを恐れも終わりもなく
その度に斬閃が
「恐れも退却も知らぬ死兵。――確かに厄介ではあるが、所詮はそれ止まり。
慣れれば、嵩も知れるか」
散らばる残骸を踏み躙り、
――やがて大きく開けた一画で、
「やれやれ、随分と奥に潜んでくれたな」
―――
月の明かりに照らされた広場。
木々が粘糸で囲われたその中央で、一層、巨きな蜘蛛の躯が
軋むような音を立てて八肢が蠢き、鈍重そうなその巨躯が僅かだけ屈んだ。
周囲に転がる生き物であった残骸から澱む、隠しきれない死臭と瘴気が渦と捲く。
対する
だが、迸る精霊力が刀の軌跡に追従し、昇る竜巻が女面の顎を克ち上げた。
顎ごと跳ね上がる蜘蛛の巨躯に構わずもう一歩を重ね、
切っ先に沿って叩き落された無形の槌に、女面が蜘蛛の躯ごと地面へと埋まった。
抵抗の赦されないまま暴風に玩弄され、それでも
その様子にやや興味が掻き立てられ、
通常の
「……成程。瘴気でその巨躯を強化しているな。
偶然か? それとも――」
その考察の半ばで、猶予を待ってやらぬとばかりに蜘蛛の躯が跳ねた。
見た目に反して素早い跳躍、
巣の外殻を構成していた木々を薙ぎ倒し、轟音を蹴立てた
――その勢いのまま
至極あっさりと回避され、
「後ろに回り込むのは悪くない発想だが、……所詮は蟲の浅知恵か」
興味の失せた声が、蜘蛛の背後から響く。
醒めた響きに誘われて躯ごと向き直った赫い光芒に、
「御座が醒めた、終わらせてやろう」
―――
醒めたその呟きに触発されたか、
対する
微風は疎か精霊力も励起されない静寂の一太刀が、蜘蛛の勢いを徹り貫ける。
「
女面の喉笛が半ばまで断ち切られ、極小の暴風が女面を喰うように乱裂いた。
交差。しばらく歩いたその後に、力を失った蜘蛛の肢体が地響きを立てて崩れ落ちる。
周囲の脅威が完全に収まった気配を確認して、
♢
ごつり。遠慮のない音を立てて、
「~~~~っっつつつ」
意図を理解しているその一撃を敢えて受け、晶は視界に奔る火花に悶絶を漏らす。
その様子に、
「退路を確保していない時点で先行するのは愚の骨頂だと、どれだけ教えればお前の
「~~……押忍」
理解はしている。
――だが、あの瞬間に自分の衝動が抑えられなかったのも、また事実である。
このままではいけないと自問自答を繰り返してはきたが、結局、ずるずると今まで引き摺ってきてしまった。
さらに最悪な事にこの問題は、程度の差こそあれ弾かれた結論の規模が段々と大きくなってきている。
前回までは笑いごとで済んだが、今回は隊列を乱すほどの問題が噴出しているのだ。
――このままいけば
何しろ、晶の無茶を支えてきた
この衝動をどうにかしなければいけない。
前に進めない焦れた感情だけを、晶はただ持て余していた。
かさり。落ち葉を踏む音に、周囲の警戒をしていた咲の視線が巡る。
闇の広がる木立の向こうに、衛士の羽織を
「お疲れ様です、
「ああ、
――
「そうですか」
大きな山場を越えた報せに、咲の安堵が大きく吐かれる。
「――それで、晶くんは?」
「……独断専行の件を怒られている真っ最中です。
明日は特別訓練ですね」
笑いを堪える仕草を見せる咲に対して、
何時、百鬼夜行が央都を襲うかも判らない状況である。
一通り、周囲を見渡すと、
「お疲れ様です、師匠」
「ああ。迅の方も問題なかったかな?」
「後輩が手抜かりをした以外は」
詳細を訊けば、呪符と
その奇妙な結果に、
確かに同時行使は特殊な技術だが、呪符の励起程度ならば初歩で憶えていなければならない技術でもある。
晶の知識と
そこまで考えて、小首を振る。
興味はあるが、詳細を突っ込むと藪蛇になりかねない。
「他には?」
「疑問に思っていたのは、守備隊の総隊長が口にしていた瘴気の薄さです。
確かに央都郊外は然程でもありませんでしたが、一つ山を越えただけで
個の化生とすれば雑多に過ぎないが、
数の暴力を使い捨てにする
「……
央都の郊外と云えば、五行結界の外周。そりゃあ、
五行結界とは、五洲の龍穴と直結させた央都外郭の五山を結び、央都そのものを神域にする大結界のことだ。
4千年突破された事の無い結界は央都の御自慢であるが、
――要は、信頼という名の怠惰を
肩を竦めた己の弟子に苦笑を向けて、
悄然とする晶を余所に、距離を取った
「――
「
気にすることは無いと頭を振って、
晶の問題はさておき、懸念は他にもあるからだ。
「
「判っている。
……腹立たしいが、奴等、
――やはりか。
苦々しく返る
確かに五行結界の周辺では
過去数年の記録を漁っても齟齬は見当たらなかったため、疑問には思いつつも言及はしなかったのだ。
不穏を孕んだまま数日が過ぎて行く中、耳にした山狩りの報。
参加の意思を示した時に
やや多勢に組まれた勢子班の頭数と、山の封鎖に到るまでの判断の
――恐らくは最初から、勢子班を捨てる
「……口減らし。随分と品の無い所業を隠していたな。
山一つ越えただけでこの有様ならば、更に外側はどれほどか」
「
……
西巴大陸の医療技術が台頭するにつれて爆発的に増えた人口は、あぶれた子供たちの受け入れ皿でもある守備隊の経済状況を圧迫していた。
発展
今頃は、権力争いと後釜競争に血眼であるだろう。
「私の口から、内密に訴状を上げようか?」
「旧家相手に八家が仲違いを起こすのは不味いだろうな。
特に今は、周囲の状況が本当の意味で把握できていない」
状況が起きてもいない今から余計な波風を立てる判断は、
獣声に似た唸りを
腕組みをしていた
「……隠せない情報から逆算して当たるとするか。
瘴気溜まりの報告は地方から上がるだろうから、こればかりは誤魔化せないはずだ」
「成る程。少なくとも、風穴に異常があれば央都上層も絶対に無視はできない、か」
脚光を浴びている鉄道事業が瘴気溜まりの隠蔽で暗礁に乗り上げでもしたら、それこそ旧家が存亡を問われる事態にもなる。
彼ら自身の安寧が掛かっている以上、瘴気の事情を誤魔化す事は考えられなかった。
「考えるだけでは埒は明かんか」
休息と警戒をしていた晶たちに向けて、
指示に従って下山の準備を始めた若手たちを横目に、太刀を納刀める
「まぁ、宍戸たちに一言くらいは良いだろうさ。
……皮肉程度で身を改めるような連中でも無いだろうが」
そうなってくれたらどれほど良いか。
無駄と知りつつ皮肉に混じる願望に、
♢
「あれ? 咲、不寝番じゃ無かったの?」
「もう。何時だと思っているの? お天道様は昇り切っているわよ」
少女から返る呆れた口調に、窓の外へと視線を巡らせる。
指摘された通り、快天の明るい陽射しが目に差し込む。
見下ろす窓の向こう側も人の流れは既に多く、
「休日だから、のんびりし過ぎちゃったかなぁ」
「結婚してから治るってものでも無いんだから、今のうちに習慣をつけとかなくちゃ」
はいはい、お母さん。少女の口調に滲む口喧しさに、
椅子ごと相手に身体を向けると、少女の手から覗く新聞の見出しに気付く。
「――
「
凄いよね。これで、央都に四院直系が全員揃う訳だ」
常らしからぬ他人事の口調に、
咲は八家という出身に加え、ここ最近では
何かと呼び出されてしまいそうな気もするが。
「予定に併せてくれて、少し安心したかな」
「予定? 何か会合でもあるの?」
詳細を訊ねたら厄介になる可能性に気をまわし、
暫くの談笑に興じた後、少女は休日の装いを
手に持つ新聞を小脇に抱え、寮の入り口へと向かう。
「不寝番でしょ。寝ないの?」
「少し目が冴えちゃった。
外を散歩してくるわ」
行ってらっしゃい。応じる
奇妙なまでの静寂に気を取り直し、
暫くの間、鉛筆が走る静かな音のみが静寂を渡る。
――秋風に制服の裾を棚引かせた咲が
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