3話 悪意が嗤い、曇天を呑む3
「そろそろ学院に戻れって、師匠も簡単に云ってくれるよな」
気分転換がてらに
――
授業の進度はそれなりに早く、
現在、中等部3年に在籍する
それでも、迅の気分はどうしても上に向かなかった。
実のところ、
圧倒的な強さというものは、
それでも学院への
圧倒的な速度と攻撃圏を誇る
攻撃圏の広範さは、そのまま戦術的な威力に代わる。つまり距離を維持するという事は、圧倒的な優位性を独占していると同義なのだ。
事実、天覧試合の上位3名に
『北辺の至宝』が天覧試合の
とは云え、迅に赦された
雑多に行き交う人混みの中を、つらつら思考に耽りながら目的も無く歩を進める。
気分も浮ついたままに軒を連ねる店の正面を冷やかすが、呼び込む丁稚も買う気の無い迅に色気を向ける気配は無い。
嘆息を一つ残して、周囲に視線を巡らせた。
――そして、その狭間を摺り抜けて駆け去る晶の姿。
「お、後輩じゃないか。どうし……」
先だって友誼と結んだ相手に片手を上げるが、余程、急いでいるのか一瞥もくれないままに人混みの中へと消えた。
――と、
「あっちだ!」「御前からの厳命だ、確実に捕らえろっ!!」
唖然と見送るその視線を追うように、数名の男たちが駆け抜ける。
「……何だ、
目の前で繰り広げられた知人の遁走劇に、迅は眉間を抑えた。
知人の姿も
駆け抜けていった知人に、どうしたものかと悩む事、暫し。
逡巡も僅かに、迅の爪先は去っていった厄介事の方へと迷いを振り切った。
♢
逃げる先も思いつかないまま追われ続けて暫く。何時の間にか、工場が軒を連ねる一角に足を踏み入れていることを、晶は気付いた。
――おかしい。
駆ける
夕刻に差し掛かりかけてはいるが、仕事の上りにはまだ早い時刻のはずだ。
それなのに、周辺を囲む工場や倉庫からは、うそ寒いほどに人の気配が感じられない。
――人除けの結界。それもこんな広範囲に、
誘い込まれた現実を悟り、晶は内心で歯噛みをした。
そこにいた人間の意識を誤認させて、一定の区画から人払いを促す結界術。
陰陽術の中でも特に名の知れた術の一つであるが、ここまで広範囲のものとなると片手間に張れるものでは無い。
晶一人を捕らえるために、これだけの手間を掛けている。追われる理由に事欠かないことを頭で理解していても、いざ、現実として直面した場合、混乱だけが晶の思考を占めていた。
「くそっ」
「餓鬼がっ!!」
苦し紛れに金撃符を放とうと振り被り、
――男たちから放たれた火焔がその脇を奔り抜け、衝撃が撃符を弾き飛ばした。
「――街中なんてお構いなしかよ、こいつらっ!」
悪罵を
身体の
精霊器は主として外功系に寄与するため、無手であっても内功系の
――それに、何よりも内功系は周囲に被害を広げる心配が少ない!
二足で相手の懐に潜り込み、火撃符二枚を彼我の至近で弾き飛ばす。
迫る晶に怯んだか、仰け反った男の視界に撃符が舞った。
「
「させるかァっ!」
窮鼠に噛まれた猫が一匹。だが晶にとって不運なことは、猫が一匹では無かった事か。
もう片方に撃符を励起しようとした腕を掴まれ、晶は背負うように投げ飛ばされた。
晶を覆い隠していた
「やはり、爺ィじゃないぞ?」
「くそ。組合から出てきたところは確認していたはずだ。
何処で入れ替わった!?」
晶と玄生を別人として認識している。
――つまり男たちは、晶ではなく玄生という老人を追っていたという事か。
そうだと仮定すれば、この騒動にも逃げる光明が見出せるというもの。
「迷うな! どの道、こいつが玄生と無関係な訳がないだろう。
捕らえて痛めつければ、小僧一匹、簡単に口を割る」
「――確かにな」
……その辺りは、もう少し悩んで欲しかった。
同意を交わす男たちの
明らかに短絡的すぎる迷いの無さに、付け込む隙も見えるのが救いか。
一縷の望みを賭けて、晶は反論に口を開いた。
「……おいおい、たかが小僧が無関係なのは判ったろ。さっさと本命を探しに行かないと、逃げられちまうぞ?」
「ほざけ。撃符を何枚も持っている
それだけの撃符、どうせ玄生から護身用に渡されたものだろう!」
確かに平民であるならば、正規兵であっても任務や有事以外で撃符を持ち歩くのは犯罪に相当する行いとなる。
しかし晶は防人だ。有事に備えるという名目で、撃符の携帯については公的に許可が下りていた。
完全に筋の違う結論だが、明後日の方向から意外と正解を突いているのが腹立たしい。
しかも、この件に対して詳細に突っ込まれたら、分が悪いのも晶である。
何しろ後ろ盾になってくれている
正直、
現状、晶が行使できる
しかも
――否、本当にそれだけか?
記憶が疑問を口挟む。幼い頃、教導であった
――陰陽術とは、剣指に始まり剣指に終わるものです。
何故ならば、極言、陰陽術とは
術式を
剣指を武器として替えたものこそが、精霊器と云ってもいい。
……ならば、
決意を吐いて、晶は呪符を持たないまま剣指を斬った。
「燕……牙ぁっ!」
少なくない火焔が制御を外れて迸り、少なくない激痛が晶の指を襲う。
それでも、辛うじて
「くそっ。この
「……待て、様子がおかしい」
男たちは晶から距離を取ろうとして、動かない晶へと視線を向けた。
莫大な熱量が晶の指を焼き、暴走しかけた反動が指先から感覚を奪っている。
――それも当然か。最も攻撃性に突出した火行の方向性を得た精霊力を、強引に指先へと通したのだ。
「ははっ、焦らせやがって。
もう抵抗する手段も無いだろう、大人しく捕まれ」
「……抵抗する手段が無い?」
脂汗を垂らしながらも、晶は顔を上げた。そこに浮かぶのは覚悟と、
戦意に溢れた凶悪な笑み。
剣指が精霊器の代わりを果たすことは確信できた。
ならば残る問題は、方向性を得た精霊力の反動を何処に逃がすか。
――朱金の輝きが晶を癒す中、強引に剣指を組んで呪符を引き抜き、
対応の遅れる男たちの間へと、剣指ごと火撃符を上段から振り下ろした。
「――
呪符が燃え尽きると同時に解放された精霊力が、剣指の周囲を捲いて炎と変わる。
刹那、膨れ上がる紅蓮に吹き飛ばされ、片方の男が建物の壁に叩きつけられた。
「がっ!」
呪符は精霊力を内包し、術に因る反動を肩代わりする技術である。
つまり、反動を呪符に肩代わりさせれば、呪符の枚数分だけ晶は
――残る撃符は二枚。
「貴っ、 、様ぁっっ!!」
飛び
確認できるその全てが水撃符。晶が火行と判断しての選択か、流石にこの辺りの対応は速い。
水克火。行使するのが火行であるならば、最善の選択だろうが……。
痛みの引いた晶の指先が踊り、引き抜かれた撃符が剣指の先で燃え尽きた。
消える刹那、露わとなった撃符の種類は木撃符。
水生木。木気はその場にある水気を全て喰らい尽くし、撃符に宿る以上の精霊力を晶に与えた。
――既に、その
身体に染み付いた
「
塞と成った晶が、残る男との間合いを詰める。
苦し紛れに相手から放たれた呪符も、薄く明滅する
「ぐ、く、このぉっ!!」
「終わりだ!」
相手の抵抗も無為として、晶は男の眼前に立つ。
逃げる事も赦さない。
最後の一枚を引き抜いて、金撃符を相手に押し付けた。
剛風が吹き荒れ、急激な気圧の増加が生む轟音が両者を打ち据える。
直後に解放された風圧が、男の意識を体躯諸共に弾き飛ばした。
「……はあぁぁぁっ」
戦闘が終わり、最後に立つことが赦された晶は独り、大きく息を吐いた。
得たものは少なく、唯一の収穫は男たちの目的が玄生であって晶ではない事実のみか。
――玄生として金子を得るのも、暫くはお預けかなぁ。
防人としての収入も充分に回り始めている。実のところ、玄生の収入に頼りすぎるのも難しいと考え始めた矢先の出来事だ。
丁度いい切っ掛けかもしれないと踵を返し、晶の爪先が凍った。
その先の曲がり角に男の影が一人分。敵の同輩であることは
思わず身構えるも、晶の手元に呪符は残っていない。
これまでかと、
――その前に、白目を剥いて男は無言のままに崩れ落ちた。
「……………………はい?」
「――やれやれ、結界を探すのに手間が掛かっちまった。
だがまぁ、ここ大一番には間に合ったようだな」
呆気に取られる晶の視界に、ぼやきながら
敵ではない。害意の見えないその佇まいに、晶は地面にへたり込んだ。
「気を抜きすぎだろ、後輩。
俺が敵だったら、如何する
「敵対するにも助けるにも、姿を見せるには遅すぎだろ。
……だけど助かった。感謝するよ、先輩」
「応、存分にな。
……で、
迅から差し伸べられた手を取って立ち上がった晶は、そう問われて首を傾げた。
「さあ?」
「さあ? ってお前……」
「知らねぇもんは、仕方ないだろ。
どうやら人違いみたいだけど、詳しいことを訊く前に
「ははっ、つまり何だ? 此奴等、人違いでお前を襲って、総出で返り討ちに会ったってか」
「……そうなるな。
そういえば、
手練れ3人に人除けの結界。ここまでの費用をかけて人違いの一言で終了するとなれば、確かに間抜けな話である。
真実は別にして、憮然と晶は肯った。
「
……ってか、如何する? この状況」
晶が見渡すだけでも、周囲一面は
加えて轟音に、倒れ伏した男たち。
結界があろうが人の戻りは避けられないし、余人の目に晒されて厄介になるのは晶も同じである。
――然程に悩むことなく、晶は答えを出した。
「放置する。どうせ俺には関係のない話だし、悶着を起こして
相手の正体は気になるところであるが、探るだけの余裕も晶にはない。
さっさとこの場所から離れようと口を開きかけ、厳しい視線を晶の後方に向ける迅に気が付いた。
振り向く晶の視界に、壁に叩き付けられて気絶していた男が立ち上がる姿。
「
「……
これは、御前に報せねばな」
「待て。
何か、妙な勘違いをしてないか?」
誤解を訂正しようと口を開いた迅を無視して、男は撃符を地面に叩きつけた。
励起された衝撃が膨れ上がり、轟音と土煙を蹴立てて周囲を覆い尽くす。
眼を眇めて巻き上がる砂を2人は遣り過ごし、風が浚ったそこに男の姿は無かった。
「逃げやがった」
「……どうすんだよ。彼奴、絶対に妙な勘違いをしているぞ」
「だよな、済まん。巻き込んじまった」
「まぁ、根も葉もないから良いがよ。
……いや、これも好機か?」
「何が?」
この問題を解決するために動けば、
そのせこい本音を裏に隠して、迅は晶の肩を抱いて囁いた。
「つまり、だ。奴らの正体はどうあれ、誰かと
「まぁ、そうだよな。
……おい、真逆」
「その真逆に決まっているだろ。 相手の人数からしても、公的な組織とは関係ない影働き連中だ。
――間違いなく俺に直接、接触してくるだろうさ。誰が主導か、正体を掴む良い機会だろ」
「そんなに上手くいくものかよ」
「行かなくてもいいさ。どうせ、俺たちには関係は無い。
痛くない肚を探られる程度、どうってこと無いだろ」
「……まぁ、そりゃそうだが」
決まりだ。そう笑いながら、迅は拳を突き出した。
その拳の先に悩みはしたが、晶とて現状がこのままと云うのも宜しくはない。
……玄生としての活動も、もう暫くは続けておきたいのも本音である。
――結局、晶は拳を合わせて、その場を折れて見せた。
♢
くふ。幼く細い
秋風が不穏に騒めく中、虚空に揺蕩う童女の口元が会心の笑みを浮かべた。
「妾のものに手を出してくれたな? 不届き
晶に傷をつけて、逃げ
秋の残照が迫る夜闇の足音を早める中、白魚の如き嫋やかな指先が宙を躍る。
その先に掴めるものは何もない。否。蒼炎が宿るその瞳には、朱金に彩られた絹糸が映っていた。
本来、これへの干渉は
慎重に絹糸へと指を伸ばす。届くだけの未来に、垣間見えた不届き
……応えは直ぐに訪れた。
「視たぞ、観えたぞ。
――ほほぅ、随分と懐かしい
そこに
僅かに手を出されただけでは、
だが、意図せずとも直接、晶に食指を伸ばしてくれたのだ。
「間抜けな肚を曝してくれたな、
とは云え、このまま妾が手を下すだけでは少々、勿体無い」
未だ己の失態に気付いていない相手をこれ幸いに、
これでどう足掻いても、遠くない未来に縁は繋がる。
――この好機。存分に活かしてやらねば、
それは晶の活躍を願う、傲慢なまでの神柱の善意。
横目に広がる
「踊りゃ、
心行くまで、晶の糧と供されるが善い」
婀娜な艶を含んだ
――何処までも神柱らしく、少女は最早、姿も追えぬ相手を嘲笑った。
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