3話 悪意が嗤い、曇天を呑む1
ここは
幾ら慎重に行動しても足りるという事は無い。
かつり。踏み締めた足元で小石が蹴り飛ばされ、弾かれたそれは頼りない音を立てて露出した岩肌を転がり落ちていった。
「ぅわっ……」
小石の先を視線で追った晶は、視界一杯に広がった切り立つ崖に思わず息を呑んだ。
足場を崩して転げ落ちれば、
無意識に縮こまろうとする身体を必死に抑え、足元よりもさらに遠くへと視線を遣る。
そこに広がるのは、
そこかしこから蒸気と排煙が立ち昇り、人々が生を闊歩する
その壮大さに、晶は恐怖よりも感動に我を忘れて魅入ってしまう。
「何だよ、怖いのか」
「……当然だろ。妙覚山なら慣れているけど、南葉根のこんな深くまで浸透するのは初めてなんだ」
背中を追い打つ迅の嘲りに、
応酬のし甲斐が失せた迅は、つまらなそうに後方に視線を向ける。
そこには、何事かを話し合う
「俺と師匠は、使者として訪れているだけだぜ。
何で、こんな龍脈の上を歩く羽目になってんだよ」
「喧嘩の罰だろ?
他に何があるってんだ」
独り言の
「裏があるって云ってるんだ。
そっちの隊長に予定を訊いた途端、詳細も聞かずに探索を決意するなんてどう考えても普通じゃない」
「
数日前に、
「だからって、こんな所まで登るか普通?」
ちらりと視線を周囲に巡らせる。
一面に見えるのは岩肌と低木のみの、無味乾燥とした光景が広がっていた。
「後、暫く行ったところで、折り返して下山って聞いているから頑張ろうぜ。
野営の準備なんてしていないからな、行動には余裕を持っておきたい」
「当然。瘴気溜まりのど真ん中で一晩過ごすなんて、正気の沙汰じゃ無い」
返る同意に、晶は迅と連れ立って
斜面を蹴立てて滑り降りる2人に思考は及んでいただろうが、
「……水気の脈が無いのに
「それはそうだが、奴に追い立てられて鹿が山から下りてきていた。
あれは、南葉根でも高地に住んでいることが多い。群単位で姿を見せていたから、少なくともこの近辺には姿を見せていたはずだが……」
「やはりあり得るのは、誰かの意図だが……」
会話を聞く限り、どうにも推測が上滑りしているようである。
晶と迅は互いに視線を交わし合って、軽く肩を竦めた。
「
――もう昼過ぎですし、下山を考えたいんですが」
「ああ、判っている。繰り返すが、隠形は解くなよ。
無駄な戦闘は、麓に余計な混乱を与えかねん」
このままでは埒が明かないと、会話の脇から口を挟んだ晶に
しかし眉間に皺を寄せた
「……いや
化生に勘づかれた」
斥候に出ていた晶たちが帰
晶たちの明確な失態だが、
―――ィ、、津、マ、、、、。
「既に化生は此方を捕捉していたよ。襲ってきたのは、隠形で小者と誤認したからだ。
――慎重な奴だな、随分と頭が良い」
「南葉根に根を張っている慎重な化生ときたら、一種類しかいない。
――総員、構えろ。空から
―――ィィイ津、、真デッ。
重苦しい羽音と嘆きに似た
ばさりばさり。空を叩く羽撃きが、巨きな影と共に飛来した。
鼻が
―――
病を運ぶ呪詛の鷹たる
「「! ……、 、――――!!」」
腐れた嘆きが晶たちを襲う。
咄嗟に耳を塞いだ4人は、そのまま後方へと地を蹴った。
――直後、
晶たちの居た空間を、瘴気の纏った羽撃きが薙ぎ払う。
「
羽撃きの影に交差して紅蓮の斬撃が
「巨きいからと油断するな、奴は素早いぞ!
――
「
全員、鼓膜を破りたくなかったら耳を塞ぎなさい」
堪らず地面に伏せて、晶は
唸る大気が一際強く。刹那の後、静寂に落ちる。
「
瞬間。突風が渦を成し、
対する
他の門閥流派の攻撃圏外からも
その流派は、
――
地面に圧しつけられ藻掻く巨躯と、騒ぎに誘われたか鹿の
いまだ制御に難を残す晶が群れを散らすよりはと、
「鹿どもは俺が狩る。
――晶、迅。仕留めろ」
「「押忍!!」」
厳次の号声に、二人肩を並べて地面を駆ける。
足場の悪い斜面であっても、地を蹴るだけの感覚は晶に久方振りの高揚感を与えてくれた。
目立つ神器の代わりに、
柄尻に結ばれた胡桃の透かし彫りが宙を躍り、白刃が陽光を反射して煌めいた。
「……随分な業物だな。
「そりゃどうも。
晶の持つ
余り突かれたくない内容に口調を濁し、晶は話題を変えた。
「
――止めは譲ってやるよ、後輩」
「感謝はしないぞ、先輩」
素っ気ない晶の返しに唇を曲げて、迅は深く腰を落として居合に構えた。
親指で
「
煌めく白刃が不可視の斬閃を重ねる。同時に、地面で暴れる
―――ヒィィィイ以ッッ!!
巨大な鳥の化生が立てる魂消る悲鳴も意に介さずに、晶は
炎が渦巻く斬撃を袈裟斬りに落とし、垂直に斬り上げる。
「帰り
振り上がる脇を締めつつ、更に前へ。
「乱れ
三つ立て続けに膨れ上がる衝撃が、
―――以ッッ、、津ツ!!
完全に死に体になりながらも、巨鳥の眼は死んではいない。
その
――呪詛を存分に練り込んだ瘴気を吐きつけようとしたその寸前、迅の放った斬閃が
「――感謝は要らんぞ、後輩」
「……必要無いからな」
軽く交わされる応酬の
「
――交差して十字を刻む火線が下から上へ、
晶たちが地に伏した巨鳥を浄化するその傍らで、
脅威は去ったというのに、
「
防人に手出しすることも無い此奴が中腹まで下りてくること自体、異常としか思えん」
「確かに
――訊かせてもらっても?」
「……
随分な年齢だから見間違いだと一笑に附してやりたいが、俺の故郷で聞いた噂を思い出してなぁ。
――あの時は確か、嗤う
「それは……」
「その噂が立った直後に、俺の故郷は北から下りてきた百鬼夜行に踏み潰された。
今じゃ、瘴気溜まりの奥底で誰も住めん土地だ。
……それがどうにも気にかかる」
だが、不確かな情報だけで右往左往するというのも、一部隊を預かるものとしては不適切な判断だ。
結局、
眼下に広がる
♢
ちり、 、 、りりぃん。吹き渡る秋の風に、随分と季節外れの様相を見せ始めた風鈴が寂しげに
苦みの薄い茶葉を厳選した抹茶を点てながら、当代当主たる
その視線の先に座る童女は、つまらなそうに伽藍の吹き抜けから
「……ふん。どうやら痴れものが、妾の支配地に潜り込んだようじゃな」
「人でしょうか?」
「
妾の体内で蠢いているのは
妾の領分に手出ししてくれたのであるならば、明るみに引き摺りだしてやろうものを」
永い年月に在って神託が機能不全に陥ることなど、嘗てなかった経験である。
「
「同意はするが、目論見通りには行ってくれぬであろうな。
……
「何らかの干渉が?」
「水気の龍脈を通して、神気を必死に伸ばして来よる。
――無茶な真似を、今更に知ったとて何になる訳でもあるまい」
勧められた抹茶を舐めるように一口。豊かな香りと共に広がる複雑な苦みに、
「数日の後には、
正式に、晶さんを婿に迎えるための準備を進めるとしましょう」
「うむ! 良しなに頼むぞ。
「準備は過怠なく。
……ですが、晶さんの所在が問題になりますね」
「うん?」
「晶さんと咲さんが繋ぐ血統は、間違いなく八家でも上位に君臨する筈です。
加えて雨月は、どの道にしても途絶えます」
本来、晶は雨月の嫡男であり、雨月本流を継ぐことが決定づけられていた。
これは、雨月の一存でどうなるというものでもない。
神代契約に
八家が他家と区別されるのは、その絶対的な価値を保持しているが故だ。
本来であるならば晶は
「そんなもの、……ああ、そうよな。
「はい。
陰陽五行の均衡を保つためにも、晶さんの血統を
「うぅ~~!! 咲の血程度なら幾らでもくれてやるのじゃが、晶の居場所も
「咲さんの意向次第かもしれません。取り敢えずは、晶さんの家名を此方で決定しましょう。
そうすれば、
現在の晶には、華族としての家名が存在しない。
雨月を名乗れるのであるならば話は早いのだが、それは晶が納得しないだろう。
そうであるならば、新しく華族を興す必要が生まれてしまう。
八家の知識を補完する程度で間に合うならば未だしも、現実に生まれてしまう矛盾まではどうしようもない。
例えば、晶が行使した
本来、奥許しを受けた者だけが行使を許可されるはずの奧伝を、初伝にも到達していない晶が行使した。
公の記録にも残ってしまったこの事実は、当然にして門閥流派を率いる師範たちの間で大問題となった。
古来ならば降格に加えて防人の任を解くという、破門すれすれの重罰が科されるはずである。
しかし本流本家たる
――師範たちの矜持を大いに傷つけた
「歯痒いのう。晶の覚悟も定まったと云うに、
「――そろそろ頃合いかとも思いますので、
確か
晶に続きかねない懸念の代表格として立っていた
沈む身体を浮き上がらせようと足掻く老害一匹、放置して集められるだけの
……充分に良い
「くふ。随分と大掛かりな掃除になりそうじゃ、の?」
「はい。
晶さんと接触したことは懸念材料ですが、晶さんの意向も確認した現在、下手に突くのは藪蛇でしょう」
「――侮るで無いぞ。
何らの策を与えていても、不思議ではない」
「奇貨居くべし、ですか。
……釘刺し程度に
如何に
杞憂とも思うが、
駄目押しの意味も含めて、紫苑は
「ふん。どうせこの類の手法は、
のう、紫苑。どうせなら、晶を伽藍に留まらせるのはどうじゃ?」
「……
常道外しの目的は相手の動揺を誘う為。であれば私たちは、正道を以って相対するが勝機かと」
「ふふ。云うてみただけじゃ。
――
「
紫苑の判断に、
苦味の残る舌を甘味で誤魔化して、残る抹茶をぐいと干す。
幼子の舌は複雑な苦みの奥に眠る旨味を拾ってくれることなく、苦味は座興と云わんばかりに
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