閑話 天泣に頬は濡れて、戸惑うも遠く2
――
洲都、
瘴気溜まりに帰還の足を奪われながらも、連翹山に建つ雨月の屋敷に
未だ日天も高いというのに、幾人かの陪臣が足音を立てて直利の前を過ぎていく。
外玄関に消えてゆくどの者の顔にも一様に、焦りの
そこには出立前の和気藹々とした雰囲気は欠片も残らず、まるで戦支度と云わんばかりの物々しさが屋敷の内部を占めていた。
「――
「これは、
漸くの御帰還、ご無事で!?」
過ぎる一団の中に仲の良い陪臣の一人を見止め、挨拶と交わす。
温厚な人柄で知られる九戸は、浮かない顔色に安堵の感情を見せて一礼を返した。
「何とかですが。瘴気溜まりに足を取られて、思った以上に遅れました。
――この騒ぎは一体?」
「ここ最近は、瘴気溜まりの浄化に陪臣全員で出払っておる。
陰陽師の
「それほどに……」
「然り。既に日夜の関係なく、
今年の刈り入れは、覚悟せねばならんのう。
――
「
「うむ」
九戸の首肯に、直利はその足を屋敷の東へと向けた。
屋敷の
「御当主さま。
「――入れ」
矢張りと云うか許可に返る声色にも、何処か精彩が欠けている。
努めてそのことに意識を登らせないように障子を開ける。書斎の中央で天山と
想像通り、その表情も陪臣たち以上に沈んで見える。
「遅くなり申し訳ございません。
――
「
「こちらに比べれば何ほどでもなく。
――私も浄化に立ち会いたいのですが生憎と精霊器を日垂ル神に掴まれまして、打ち直しを求めねばなりません」
「
其方としても腰が落ち着かんだろう、代わりの精霊器を預けておこう。
――其方が戻ってきてくれて、丁度良かった」
貴重な精霊器を預けることに躊躇をしていない事実から、抜き差しなっていない事態が如実に窺えた。
膝行で書斎に進み、車座の一端に加わる。
「丁度良かったとは?」
「……その話は後だ。
直利が巻き込まれたものと同様に、現在、瘴気溜まりが
しかも、
「そこまで……」
気休めすら口にできずに、直利は続けようとした二句を失った。
土地の記憶そのものでもある怪異は、十分な瘴気さえあれば再び現世に顕れる生きた災害だ。
当然にして、強大な存在。しかもそれが複数。
百鬼夜行が起きたとしても頷ける、雨月始まって以来の有事であった。
「ご安心召されよ。御当主さまと
あの類がこれ以上、生まれるとも考え難い。一先ずは安心できるだろう」
「なら良いのですが。怪異が複数とは、尋常ではありません。
……まるで、伝承に聴く荒神堕ちのような、」
「しっ! 滅多なことを口にするものではない」
雨月陪臣の第一席として永く座る
そんな老人からの取り成しに、直利は渋りつつも追及の手を下げる。
……雨月一党の内部に
直利は雨月に婿入りした身ではあるが、
雨月の末席に座っているが、直利が永く客将の立場に甘んじてきた理由である。
そのため直利の発言力は、雨月陪臣の中堅辺りと同じ程度に留まっていた。
「……父上。
5日後に予定しております、
「駄目だ。
其方の戦力を借りたいのは山々だが、他家に雨月の動揺を晒すわけにはいかん。
ただでさえ、
休暇明けを遅らせるなど、恥ずかしいだけの失態を御前に晒すわけにはいかん」
「……はい」
思い余った様子の
……
並の衛士では比肩すら烏滸がましいほどの才気は、この難事にあって確かに貴重な戦力ともいえた。
だが迷うことなく天山は、
「
「――うむ。
どうにも静美さまは、
あれの死を耳にするや、素気無く我らの登殿を中座される始末よ」
「何と。
――雨月の勝手を咎められたのですか?」
「廃嫡は醜聞であろうが、それなりに聴く出来事でもあろう。
何故にあれほど、あれ如きに拘るかは分らぬが」
「手続きに問題があったのでは」
「廃嫡自体は当家の勝手だ。
人別省の動きが妙に鈍かった以外は、それほど問題なく進んだしな」
「それは知っていますが……」
それが断られた事実を見るに、晶の死を知った
ちらり。視線を
当然だろう。才気煥発と持て囃されてきた
ふと、晶の呪符が行使できた事実を思い出す。
「先日に回生符を手元から喪う事態に陥りまして、
――御守り代わりと持っていた晶くんの回生符に手を付けました」
「行使えぬのでなかったか?
……あぁ、其方が精霊力を籠めたのか」
「いいえ。精霊力を籠める必要なく、呪符は燃えました。
――晶くんは、精霊力を行使できていたようです」
「精霊無しが精霊力を行使できる訳が無かろう。
何かの間違いではないのか?」
「行使は確かに。それに晶くんには、回生符を100枚続けて書かせていました。
であるならば、彼は少なくとも陰陽師20人分の精霊力を保有していることに……」
「――莫迦莫迦しい」
言い募ろうとした直利の言を、
「精霊力は
御守り代わりと云うなれば、肌身に離さず持っていたはず。
空の呪符をそうやって持っていれば、自然と漏れ出る精霊力を吸収するのは偶に聴く話だ」
「そうでしょうか……」
空の呪符が自然と行使できるようになって命拾いをした話は、直利とて確かに聴いたことはある。
だが、
まあ良い。場に
「……静美さまは、晶との再会に歓楽極まっていたのだろう。
あれの死に哀情を強く覚えられたようでな、一時の激情に流されたであろうが強いお方だ。直ぐにでも現実に目を向けて、
「そこは間違いないでしょう。
……でなくば、御当主さまを拘留もせずに、
腹立ちはあるが、雨月の言い分を理解はされているというところでしょうな。
――ですが
「仕方があるまいな。
――
「儂の不甲斐なさを押し付けるようで気が引けるが、学院で静美さまとの会談を取り持て。
何とか静美さまのお気持ちを、其方に向けていただくのだ」
「……はい。
「ふ。儂を何だと思っている?
其方の器に劣るであろうが、雨月当主としてまだまだ現役であるぞ」
「父上のお心遣い、有り難くあります。
静美さまとの会談は、必ずやお任せいただければ」
天山の応えに安堵した
消える
「失礼いたします。
西の街道から
「何!? あそこには
息子はどうしたか!」
「も、申し訳ありません!
伝令の傷も深く、詳報は……」
「ええい、埒が明かん。儂が直々に問い質す、案内せよ!
……御当主さま。申し訳ありませんが、火急の用にて中座をさせていただきます」
「良い。急げ、
「はっ!」
己の後継と可愛がっていた保久の安否だけに、
焦りの表情に胸中を察した天山の許しを得て、慌ただしく
一気に静けさを取り戻した書斎の中央で、直利は天山の正面に座り直す。
「大事が無ければよいのですが」
「
とはいえ、西の街道は洲鉄の線路に沿っている。
――直利よ。急ぎ代わりの精霊器を用意させる、
「畏まりました」
大量輸送を可能とする洲鉄は、山に囲まれた
生鮮食をはじめ燃料や木材の取引と、
洲鉄の線路を守ることは、
帰還したばかりとは云え洲鉄を護る要請に否やも無く、直利は叩頭で受け入れる。
「ああ、それと先刻の話だが。
昨日の遅くに、
「
「うむ。このような状況故に済まぬが、内容は検めさせてもらった」
差し出された書簡を受け取り、素早く文字に目を走らせた。
書かれた内容に、直利の表情も曇る。
「……この騒動。どうやら
「ああ。浄化に回せるだけの陰陽師が足りなくなったと。
此方の状況も逼迫していたからな、陰陽師の派遣を渋っていたことに痺れを切らしたのであろう」
それも有るだろうが、ここ最近の雨月は交渉事に強気一辺倒の姿勢で臨むことが多かった。
――事実、天山は読み取らなかったようだが、書簡の随所から雨月に対する不満と直利の置かれた状況を案じる隠語が重ねられている。
手紙に隠せるだけの表現でこれだ。
二重の気鬱に襲われて、直利は内心だけで慨嘆する。
「分かりました。
西の街道を掃除した後、陰陽師を幾人か引き連れて
「頼むぞ。
――あぁ、そうだ直利」
「はい」
天山の頼みを受けて、直利も退席すべく立ち上がった。
廊下に続く障子に手を掛けた時、思案に暮れていた天山の声が背中に投げかけられる。
「其方、
「……いえ、寡聞にして存じません。
「静美さまが中座される際に、儂に問うてきた。
正直、他愛もない問いかけと思うが、どうにも気になってな。
雨月の書物を紐解いても、それらしき言葉も見当たらんかったが……」
問われて、直利も記憶の底をひっくり返す。
しかし、思い至る単語は存在しなかった。
ややあって、直利は降参とばかりに頭を下げた。
「思い当たるものはありませんが……。
事が一段落したら、此方でも書物を探してみます」
「うむ。頼んだぞ」
ガラリ。玄関を開け外に一歩。
途端に晴れた空から大粒の雨が数滴、直利の頬を濡らした。
「天泣か」
「まぁまぁ。
傘を用意いたします、暫くお待ちくださいな」
「頼みます」
慌ただしく屋敷の奥に走り込んだ家人を余所目に、直利は今一度天を仰ぐ。
晴れた空から落ちる雨粒は、狐の嫁入りと称するには冷酷たく硬い。
まるでそれこそ天が泣いているような不穏さだなと、直利は独白に零した。
陽光に降り頻る中、受け取った和傘を広げ雨の中へと踏み出す。
正門へと向かう直利の眼前で、山風が一陣、雨足を大きく波立たせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます