9話 少年は泡沫に願い、少女は天廊を舞う3

 ――同刻、鴨津おうつにて。


「何だ?」


 不安気な周囲の騒めきに釣られた久我くが法理ほうりは西の空に広がる威容を見止めて、散発する戦闘の指揮を驚愕で喪った。

 騒動の隙を狙い冦掠こうりゃくを謀った賊は疎か、守備隊の正規兵すらも仰ぎ見る空の異変に言葉を無くす。


 彼らの視界に映るのは、天と地を結ぶ精霊力の輝き。


精霊技せいれいぎ、ですかな? ……しかし、あの規模は」


 法理ほうりの補佐を願い出てくれた御厨みくりや至心ししんが、仰いだ先の光景に眉根を寄せた。


 夜闇にあっても遠くの空を染め上げているのだ、発生元は鴨津おうつから少なくない距離を開けている。

 それだけの距離を物ともせず、これほど明瞭に朱金の色彩すらも映しているのだ。


 間違いなく、ただ・・人が個人で賄える規模を超えている。


 否。あの色彩いろは本当に朱金なのだろうか?


 朱はより透徹に黄金はより絢爛けんらんに。輝きは遥か高みを泳ぐ鳳のように。

 その色彩をただ・・人がたたえるならば、そう、


「――朱金あけこがね


「……今、何と?」


「いや、何でもない」


 無心の内に自身の口から転び出た言葉の意味に思考が及ぶにつれ、法理ほうりは漸く鴨津おうつに向けられた思惑の表層を理解することができた。


 朱金あけこがねの輝きを有しうるのはこの世に在って一柱のみ、珠門洲しゅもんしゅうの大神柱しか有り得ない。


 つまりあの輝きは、現世に朱華はねずが来臨したことを意味しているのだ。


 本来、神柱へと昇った存在は、現世にその姿を顕すことは無い。

 神柱が有する象は、現世の均衡を歪めるほどに重いからだ。


 しかし、これには例外が存在する。

 龍穴の代替。特異点となる正者の器に神柱を降臨すれおろせば、世界は破綻することなく神柱そのものの権能を充全に振る事を可能とするのだ。


 それは、現神降あらがみおろしの原点である神技・・


 ――顕神降あらがみおろし。


 珠門洲しゅもんしゅういてこの神技わざを行使できるのは、法理ほうりが知る限り奇鳳院くほういんの血を受け継ぐ奇鳳院くほういん紫苑と嗣穂つぐほの2名のみ。

 しかしその両名ともにいて、長谷部領はせべりょうへ足を踏み入れていないことは確認している。


 つまり、それ以外の誰か。それも、

 ――朱華はねずが直々に武功を期待する誰かが、あれ・・を行使しているのだ。


 天啓の如く、咲の隣で縮こまっていた少年が記憶に蘇った。

 記憶にも残らぬほどに凡庸な少年は、相貌すらもその記憶には朧にしか残していない。


 だが、その存在の意味するところを理解するにつれ、一つの単語が脳裏に浮かぶ。

 神無かんな御坐みくら。その名前が思考に及び、忌々しさに法理ほうりは頬に引き攣れを覚えた。


 神無かんな御坐みくらが生まれる可能性を持っているのは、何れかの八家のみに限られている。

 久我くがが除外されるのであれば、珠門洲しゅもんしゅうで可能性を残すのは輪堂りんどう家だ。


「……孝三郎こうざぶろうめ。この裏を知っていて三味線を弾いてくれたか」


「あの輝き、ご当主どのには心当たりが有りますようで。

 ――良ければこの至心、相談に乗りますが」


 ぼそりと皮肉気な呟きの内容はさて置き、口の動きは至心に届いたらしい。


「何でもない。

 ――有ったとしても、翁どのには及ばぬ事態ことだ」


 しかし、法理ほうりは一言の下に至心を撥ね退けた。

 神無かんな御坐みくらが関わる以上、たかが・・・央洲おうしゅうの旧家程度に恣意で情報を漏らすわけにはいかないからだ。


 思わず鼻白む至心を余所に、法理ほうりは精霊器を鞘に納めて本殿の外へと踵を返す。

 未だ銃弾の飛ぶ舞台の裏手に回り、隠れて銃撃を遣り過ごしていた守備隊隊長の峯松みねまつを呼んだ。


「相手の出方はどうか?」


「厄介ですな。

 ――正直、短銃ピストルがあれほどに難物であったことが驚きです」


 取り回しに容易く、当たり所が悪ければ一発で死ぬほどの威力。

 しかもそれらが、即席の訓練である程度は賄えてしまうのだ。


 対人戦に凶悪な威力。

 防人は兎も角、初期に交戦した正規兵には馬鹿ばかにならない被害が出ている。


「ふん。馬鹿にしていたが、中々、如何して。随分と粘ってくれる」


 鼻を一つ鳴らして、法理ほうりは賊が立て籠もる鳥居向こうに足を向けた。


「ご当主さま、危険です!」


「気にするな。これはただの・・・陽動だ。

 ここの連中と沖の艦船ふねを一掃すれば、源南寺げんなじに向かうぞ」


「は? 源南寺げんなじ、ですか?」


「どうやって情報を抜いたかは知らんが、あの方角からして奴らの目的はそこ・・だ。

 戦闘は終わっているだろうが、後始末程度は間に合わせんと恰好がつかん」


「ですが、奴らの持つ銃は無視できません。

 加護の上からでも、衛士を打破できる事実には変わりないんですよ」


「気にするなと云った。――此処ここまで除け者虚仮にされて無沙汰のままで捨て置けるほど、儂は耄碌もうろくした心算つもりもない」

 激しさを増す弾幕の中、そう云い置いて悠然と歩を進める。

 静かに膨れ上がる精霊力が、法理ほうりを緩やかに取り巻き棚引いた。


 八家の当主ともあろう己が鴨津おうつの緊急に対して蚊帳の外へと放られた事実に苛立ち、荒れた感情そのままに銘を叫ぶ。


「踊れや詠えや――奇床くしどこ尾羽張おはばり


 刹那の後に、法理ほうりの手には一振りの脇差。

 長さは一尺九寸余約60センチ。拵えは簡素に、ただ一際長い飾り紐が鳥の尾の如く、法理ほうりの後背を泳いでいる。


 飄々ひょうひょうと真正面を歩む法理ほうりの姿に、賊からの銃撃が一層に激しさを増した。

 とは云え、法理ほうりには焦りも浮かんでいない。

 短銃に対して如何に無知であろうとも、短時間にこれだけ戦闘を重ねれば有効射程程度は大まかにも予想はつくからだ。


 充分に距離を取った位置から落ち着いた所作で、法理ほうりは己の神器を地摺り八相に構えた。


 警戒していた本命の教会騎士が詰めているのは、源南寺げんなじで間違いないだろう。

 であるならば相手は陽動、それも後詰を警戒しなくてもいい捨て駒・・・だ。


 艦船までがそう・・かは知らないが、どの道、陥落せば何方どちらであっても同じこと。


「……ならば、遠慮してやる必要も無し。

 鏖殺である。伏して素っ首、差し出すがいい」


 呟きをその場に残し、法理ほうりの身体が掻き消えた。

 理解しえない事象への驚愕が、その場に立つ者たちの動きを止める。


 その隙が見逃されることは無い。夜闇を裂く焔の閃きが幾重にも舞い、その度に賊の身体が斬り飛ばされて宙を躍った。


 ひゅるり、しゅるり。雅楽の笙に似た響きが闇を彩る。

 共に舞いを重ねる火閃が悲鳴と逃げまどう賊をみなごろしにし尽くしたのは、それから幾許いくばくの時すら数えない後であった。


 ♢


朱金あけこがね…………」


 咲もまた茫然ぼうぜんと、その光景に魅入られていた。

 紺碧の神域に沈んだはずの領域が、晶の立つ一角からその輝きに塗り替えられていく。


 それは正に神話の再現、神代がせめぎ合う光景であった。


 咲たちがその光景に対して、何かできることは赦されてもいない。

 吹き荒れる神威に対して、片隅で耐えるくらいが精々である。


 だが、晶とベネデッタは違う。


 神気が見せる世界の奪い合いを前にして、その場に立つことが赦された2人は互いに対峙を果たしていた。


 ベネデッタの後背には、玉座に座るアリアドネ。

 対する晶の後背には、黄金に燃立つ長髪と蒼く揺らめく焔の眼差しを煌めかせた童女が立っている。


「久しいのう、アリアドネ。

 相も変わらず、手癖の悪さは一級品と見える」


「……貴様に云われたくも無いな、朱華媛はねずひめ

 2度も得られるはずの無い恩寵の御子を、随分と粗雑に扱っているみたいではないか」


「くふ。それはくろ・・めの手落ちぞ、妾の与り知らぬこと。

 ――善いであろう? やらんぞ」


「それは恩寵の御子が決める事。

 現世にいて真実に自由を赦されたその者だけが、神代を繋ぎ止める奇跡と成り得るのだから」


故に・・、決めてくれたであろう? つい、先刻さっき

 其方は振られたのじゃ、大人しく帰りゃ」


 見せつけるかの如く、童女の繊手が柔く晶を抱きすくめる。


「……仕方あるまい。余の神威を見せつけて、勝利の凱旋に御子を持ち帰るとしよう」

 朱華はねずの挑発に煽られたか、アリアドネの双眸に苛立ちが浮かんだ。

「忘れたか? 既に此の地は余の神域に陥落た。

 加えて、貴様は此の地への不可触を約定しているのであろう。

 如何に抗おうとも、余の勝利は揺るがんぞ」


「然り。能く・・憶えておるとも」


 神柱が交わす応酬の締めに、朱華はねずは会心の微笑みを浮かべた。

 晶から朱華はねずの腕が解けて、その後背でふわりと宙に泳ぐ。


 朱華はねずから伸びる長髪が微風に棚引き、一気呵成に夜闇を圧し退けた。


 炎が奔る。

 虚空を踊り地にわだかま朱華はねずの髪が聖堂に触れた瞬間に、焔と捲いて暁に差す日輪の輝きを世界に散らした。


 世界を支える五行の一角が、抵抗も赦さずに紺碧の輝きを熔かしてゆく。

 朱金の神気が舞い踊り、それほど間を置くことなく世界は元の姿を取り戻した。


「何故……。神柱は不可侵の約定を破れないはず、一体、如何なる御業を行使ったのですか?」


 茫然ぼうぜんと繰り言に漏らすベネデッタの疑問も、当然のものであった。


 神柱は、嘘偽りを口にすることができない。

 己が司る概念そのものでもある神柱が偽る事は、己の在りようを否定する事と同義であるからだ。


 言葉の重みは人のそれよりも重く、神の一言は誓約と斉しく在る。

 仮令たとえ、その約定が不本意なものであっても、己の方から恣意に破棄する事は叶わない。


 言葉が舌先だけの軽さしか俟たないのは、ただ・・人だけが持つ特権なのだ。


 ベネデッタたちが目論んだ策動は、何よりもこの地に朱華はねずが干渉しえないという前提の下に成り立っている。


 約定の上で源南寺げんなじの風穴は潘国バラトゥシュのものと定められていたとしても、実際は朱華はねずの支配地であるからだ。

 神域の塗り替えという荒業に及べば、必ず朱華はねずに勝利の軍配は上がる。


 約定による神柱への掣肘せいちゅうが無為のものへと帰した現在、ベネデッタたちの勝利は行方すら見えぬほどに遠ざかってしまうしかない。


「どのように聴かされていたかは知らぬが、妾は何も。

 妾が不可触を約したのは、此の地に神器パーリジャータが突き立てられている間である。

 それは其方たちが、自ら抜いてくれたであろう。

 何時の世も、ただ・・人のみが約定を好き勝手に弄るもの故なぁ」


「く…………!!」


 勝ち誇る朱華はねずを前にして、ベネデッタは身構えた。

 聖アリアドネの玉座を中心とした周囲のみが辛うじて朱金の侵攻を遮っているが、所詮、模倣にしか過ぎない神子の顕神降あらがみおろしでは恩寵の御子神無の御坐の出力には及ぶことが出来ない。

 それも此処ここまで誤魔化しを重ねて、波国ヴァンスイールと龍脈を直結させた上での競り合いだ。


 宙を舞う落陽らくよう柘榴ざくろであった頁を西方の祝福に戻したベネデッタは、せめて玉座のみは護ろうとアリアドネの前に立った。


 西方の祝福の神域特性は、封じた頁の数に応じて出力を底上げする。

 落陽らくよう柘榴ざくろによって総ての頁を封印に回せたのならば、得られる出力も相応以上のものになると期待しての覚悟の楯だ。


「……感謝する」

 その様を見て、晶が口を開いた。

「お陰で俺は、自分のことを少しは知れることができた」


「…………いえ。理解に至れたのは、貴方自身の力かと。

 微力なこの身が晶さまの助力足り得たのは、僅かなものです」


 真逆、感謝を口にされるとは思っていなかったのだろう。

 それが訣別の一呼吸替わりである事に気付き、僅かな瞠目の後、少し寂しそうにベネデッタは微笑んだ。


「……それに、勝利したと思いあがられても困ります。晶さまの神器は西方の祝福にて封じさせていただいている事、お忘れですか?

 晶さまが武勲を謳うには、我が身を破り聖アリアドネの神域を退けるだけの一撃が必要なのですよ」


「……………………」


 ベネデッタの指摘に、晶は反論が浮かばなかった。

 彼女の指摘した通り、落陽らくよう柘榴ざくろが封じられた時点で晶の手に決定力足りえる火力は存在しない。

 ――それでも勝利の確信に、朱華はねずは艶やか笑みを大輪に咲かせた。


落陽らくよう柘榴ざくろを封じたとて、妾の比翼を阻む瑕疵きず足り得ぬよ。

 そもそも、――」


 促す朱華はねずに応えを返し、晶は虚空に掌を翳す。

 自身の中に在った落陽らくよう柘榴ざくろの柄が喪われていることは自覚している、己の神器が封じられたことは事実だろう。


 ――だが何故か、

 晶は、抜刀けることを確信していた。


「斜陽に沈め――落陽らくよう柘榴ざくろ!!」


 晶の願いに応え、朱金の炎が昏く燃え立つ。

 刹那に輝きは内側うちから吹き散らされ、その掌には在るのは灼闇に削り出されたかのような臙脂えんじの刃。


「なっ……!!??」


 その異常な結果に、ベネデッタは己の神器に視線を落とした。

 落陽らくよう柘榴ざくろであった頁は既に西方の祝福へと綴じられて、彼女の両腕に抱えられている。


 何よりも己が行使した神域特性は確かに、総ての頁を費やして彼の神器を封じた手応えはあった。


「然り、アリアドネの神子よ。

 其方は間違いなく、落陽らくよう柘榴ざくろを封じて見せた。

 ――残念であったの。妾の持つ残り3つの神器であるならば、こうも行かなかったであろうさ」


 朱華はねずの言葉にベネデッタは漸く気付く。

 ――朱金の輝きに照らし出された彼女の影に、西方の祝福の影が生まれていない!


落陽らくよう柘榴ざくろは、日輪に落ちた妾の影を象と与えたものぞ。

 如何に本質・・を封じたとて、落ちる影までも封じれはしまい」


 落陽らくよう柘榴ざくろの権能は、一切の護りを無視する斬撃などではない。

 本来ならば日輪に生まれないはずの影を生む。その矛盾が綴るのは、一切の護りを無視して生じた影に干渉する権能だ。


 流石に落陽らくよう柘榴ざくろそのものではないため権能の行使までは及ばないが、一撃の出力だけならば問題は無い。


「……互いに充分、手札は切ったよな。

 次で詰めだ」


「――ええ、そうですね」


 晶の言葉に、ベネデッタは肯いを返した。

 その唇が震えて、紺碧の輝きを守護する障壁と杭の法術が晶の前に立ち塞がる。


 後に言葉は要らない。

 ただの一振り。灼闇の焔を携えて、晶は前傾前のめりに地を蹴った。


 神気が猛り、晶の掌から流星が一筋、流れて尾を引く。

 迎え撃つ杭は無尽に生み出され、その都度にひるがえる灼闇の刃の前に輝きと散った。


 灼闇と光輝の競り合いは終わりも見えず、晶の足には後退の影もちらつかない。

 斬って、避けて、砕いて、進む。一歩の度に攻勢は激しさを増し、裏腹に晶の駆ける速度あしは速さを増す。


 そして、


「勢ィィィイイッッ――――!!」


 閃く刀と杭の終焉は唐突に。砕け散る杭の群舞を抜けた晶は、障壁に向けて最後の一撃を放った。


 ――激突。


 大上段火行の構えから叩き落される一撃それは、精霊技せいれいぎと呼ぶに稚拙で粗い。

 しかし、阿僧祇あそうぎ厳次げんじの教えが充分に染みわたった剛の一撃であった。


 振り絞る晶の気迫に圧されたか、障壁に喰い込んだ臙脂の刃神器の影はその半ばまでを斬り落とし、――


 己を構成していた灼闇の焔へと身を変えて、障壁諸共にその身を散らした。




 ――勝った。


 僅かに垣間見えた勝機を、ベネデッタは確かに掴んだ手応えを覚えた。


 神器の影を作り出す権能。ある意味にいて封印を無効化するそれは、ベネデッタにとって最悪の相性だ。

 しかし、所詮は影。神器自体は不壊であろうが、神器の影にまで不壊の特性が及ぶわけはない。


 杭で強度を削り、障壁で圧し潰して自壊に導く。

 ここまでの近接を赦せば、晶に神器を再度創り出す余裕すら残らないはず。


 狙いは的中し、思惑は充全に果たされた。

 互いに徒手の手段しか残らないのであるならば、徒手格闘に通じたこの身に軍配が上がる!


 ベネデッタは手から西方の祝福を離して、一歩。

 彼女が拳を握り締めた先で、虚空に躍る晶の掌に日輪の輝きが宿っている様に瞠目をした。


 ――彼女の誤算はただの一つ、晶の神器が落陽らくよう柘榴ざくろのみと思い込んだこと。


 絢爛けんらんたれ――

 響く声は短く小さく、しかし確かにベネデッタの掴んだ勝機を霧中へと消した。


寂炎雅燿じゃくえんがよう!」


 ――致し方無し。


 敗北を突き付けられ、ベネデッタとは裏腹にアリアドネが瞑目し神域が散り消える。


「――ベネデッタベティ!!」


 その視界が絢爛けんらんに呑まれる直前、2つの影がベネデッタの前を塞いだ。

 その直後、

 放たれた灼獄の奔流が、夜闇を裂いて源南寺げんなじの本堂であったものを貫いて圧し流す。


 ――それが、戦闘の終結を告げる最後の輝きとなった。




「……サルヴァトーレトト、トロヴァート卿、無事ですか?」


「何とかな。とは云え権能を行使い過ぎた、流石に精霊力は限界だが」


「うむ。

 後は、聖女どのを担いで逃げるのが精々かね」


 寂炎雅燿じゃくえんがようの一撃が通り過ぎた後、其処には辛うじて木材の残骸が残るだけの灼けた平地が、

 ――そして、直前に介入したサルヴァトーレとアレッサンドロに護られたベネデッタが座り込んでいた。


「俺たちの、勝利かちだ――!」


「はい。

 ――そして、私たちの敗北まけです」


 総てを出し尽くした。

 肩で息をする晶を否定することなく、ベネデッタは肯いを返す。


「だったらもう、ここに用は無いだろ。

 ――さっさと帰れ」


「……追撃はしないのかね?

 正直、今は抵抗のしようがないが?」


 ちらり。咲と諒太に視線を向ける。

 神気の煽りを諸に受けたか、2人とも直ぐに判断に動ける状況ではない。


 晶の後背に抱きつく朱華はねずは、このやり取りに対して然して興味も無さげに晶を見下ろすのみ。


 後で怒られることを覚悟の上で、晶は独断で3人を見逃す事に決めた。


「どうせあんた等も、俺たちを殺す気は無かったろ。

 経験不十分な子供俺たちが、歴戦の精鋭相手にいくら何でも善戦のし過ぎだ。

 ……特にベネデッタの戦闘が一本調子だしな、朱華はねずを陥落す気が無いのは直ぐに・・・判った」


「危なかったのは確かですよ。

 ですが勝利はしないと云う、こちらの意図を汲んでくれて嬉しいです」


「…………どう云う事だ、ベネデッタ・カザリーニ」

 肯定を返すベネデッタの後背で、息も絶え絶えのアンブロージオが瓦礫を掻き分けて立ち上がった。

波国ヴァンスイールを敗北に沈めるために、猿どもの僻地に来ただと?

 それでもアリアドネ聖教我らを守護する聖女の末裔か! 応えろ、ベネデッタ・カザリーニ!!」


 片腕が無く、止血も侭なっていない。

 吐く呼吸いきの弱さから、何れ長く持たないことは直ぐにも想像ができた。


「……護るためですよ、アンブロージオ卿」


「貴様が敗けると云う事は、アリアドネ聖教が崩れると云う事だぞ。

 売国の汚名を晒して故郷に帰る心算つもりか!」


「崩れませんよ、アンブロージオ卿。

 崩れ去るのは、この聖伐を企図したソルレンティノ卿が率いる主戦派です。

 彼らが沈むだけで、聖教の教義には揺らぎも生じないでしょう」


「なん、、だ、と」


 目の前の少女が何を口にしているのか、霞がかかり始めたアンブロージオの思考には今一つ染みわたらない。


「――貴方が真なる教義と信じているものは、500年ほど前に制定された比較的・・・新しい分派です。

 分かり易く、聖伐に繰り出しやすく、都合が良い・・・・・

 西巴大陸を平らげるために作られた教義です」


「そ、…………」


 言葉思考も続かない。

 辛うじて残った木材に寄りかかり、アンブロージオは視線を彷徨わせた。


「分派を作り、決定的な敗北を避ける。

 ……この構造は非常に上手くいきましたが、アンブロージオ卿も知る通り、分派の総数が飽和しています。

 このままでは、主戦派の教義が原典を汚染しかねない。

 故に分派の整理が、私の率いる・・・・・穏健派の急務でした」


 それが今、成ったと、淡々とベネデッタは語った。


「教皇が不在になりソルレンティノ卿が筆頭となって、次代の権力構造が確立する教皇選挙コンクラーベ以前に敗北する。この時期に被らせないため、ソルレンティノ卿は私を波国から遠ざけた心算つもりだったのでしょう。

 ――時機の整合が難しかったのですが、無線、でしたか? 貴方たち主戦派が秘匿していた技術が役に立ってくれました。

 もう直ぐにでも、ソルレンティノ卿と追従した分派の失墜は避けられないものになります」


「…………………………、」


 言葉は最早、続くことは無い。

 ずるりと背を預けていた木材から冷えかけた地面へと、アンブロージオは静かに崩れ落ちた。


 その姿に一瞥のみを遺して、ベネデッタは晶に視線を戻す。


「…………残る目的は知っての通りです。

 そもそも、源流たる龍穴を支配する神柱相手に神格封印が及ばないことは、最初から分かっていました。

 ですが、涅槃教の神器を引き抜くことが出来れば、この風穴の支配権は一時的に空白になります。

 涅槃教から奪った風穴の支配権を取引条件とすれば、晶さまの波国ヴァンスイール招聘しょうへい晶さまに・・・・認めさせることが出来る。

 私がこの地へ来訪した、それが目標の総てです」


 こちらは叶いませんでしたけどね。自嘲気味にそう零して、アリアドネ聖教の聖女は踵を返す。

 引き連れる2人の騎士の背の向こう側で、ベネデッタは晶に微笑みだけをわたしてきた。


「これ以上の騒動が起こる前に、私たちは故郷へと退散すると致しましょう。

 ――晶さまに又、お逢いできることを願って。この身を憶えておいていただけるならば、このベネデッタ、幸せに御座ございます」


――――――――――――――――


「――善く頑張ったのう晶、それでこそ妾の見込んだ比翼ぞ。

 ――む?」


 ベネデッタたちの姿が木立の向こう側へと消えた後、朱華はねずがふわりと艶やかに笑顔を浮かべた。

 するりと宙を滑り晶の両腕に幼い肢体を収めると、朱金の輝きが散りゆく瞬きに唇を尖らせる。


「……なんじゃ、もう刻限かや?

 久方振りの現世ぞ。もう少し留めておいても好かろうに、の?」


「……力不足、申し訳ありません」


 顕神降あらがみおろしの効力が終わりに近づいているのだ。

 己の中から朱華はねずの存在が薄れかけている事実に気付き、済まなさから晶は首を垂れた。


「善い、機会は幾らでもある。伽藍で待っておるぞ、直ぐに帰ってきてたもれ

 ――そうそう、咲と云ったな?」


 晶の腕の中で肢体を捩り、朱華はねずは後背に伏せる咲に視線を遣った。


「……………………はい」


「今は妾と晶の時間じゃ、

 ……やらんぞ?」


「……………………は」


「善い。現世に傍で在り続けることは赦してやる。

 ……晶や、帰りはもう少しであろ?」


「はい、直ぐに。鴨津おうつ帰還きかんしたら、伽藍に赴きます」


「くふ。晶の武勇、たのしみに待っておるぞ――」


 その言葉を最後に、呆気なく朱金あけこがねの輝きは夜闇の向こうに散り消える。

 完全にその輝きが晶の内奥から失せてから、晶は大きく息を吐いて残った石段へと腰を下ろした。


「……っはあぁぁぁぁぁ、、、」


「――お疲れ様、晶くん」


「はい。

 咲さまも、ご無事なようで安心しました」


 神威が消えたことで、漸く身体の自由を取り戻すことが出来たのだろう。

 その隣に、有無を云わさず咲が腰を下ろす。


「まあ取り敢えず、これで終わりかしら?」


「いえ。『導きの聖教』の一件が残っています」


神父ぱどれの事?」


「それも有りますが、もっと根が深いです。

 ――ベネデッタの祝詞を覚えていますか?」


「祝詞?」


「穏やかな風。『アリアドネ聖教』の神話にいて、アリアドネは吹きわたる風に己の身を変えたと」


「……そうだった、わね?」


 正直、憶えていない。その表情のままに曖昧に肯いを返す。


「はい。

 ですが、『導きの聖教』の祝詞には、風の記述が一切入っていない。

 神柱を顕す事物ですよ? 絶対に変更できない点なのに、です」


 ――確かに。

 村で聴いた祝詞には、外海とつうみの一文字が有ったきりだ。


 肯定を返す咲を、晶は真剣に見返した。


「風の要素を完全に無視して、それでも『導きの聖教』の信徒たちは疑問にも思っていなかった。

 つまり『氏子籤祇』、ベネデッタが云う『洗礼バッテジモ』は履行されているという事です」


 晶の推測に、ぞくりと咲の背筋が粟立った。

 それでも、晶の言葉は終わらない。


「以前の謀叛でも今回の神託でも、一致した事物は『外海とつうみの客人』でしたね。

 ……これがアリアドネ聖教の事を指していないのであるならば、」


 ――彼らは一体、客人を信奉していたのでしょう。

 晶の問いかけ疑問に、咲は応えるものを持っていなかった。


 その沈黙だけが、2人の間に横たわる。

 暫くの後、和やかに腰を下ろす石段の前に、諒太と回生符に癒されて意識を取り戻した埜乃香ののかが立った。


「…………おい」


「は……、ぐっ」


 ばきっ。

 眉間に皺を寄せた諒太が思い切り振り被って、顔を上げた晶の頬を殴り飛ばす。


「ちょ、っ――」


 突然の暴行に咲がいきり立つが、苦笑交じりに会釈を返す埜乃香ののかを前に言葉を喉元で留める。


 確かに波国ヴァンスイールの戦力を見逃したのは、晶の失態に間違いない。

 それ以外に選択肢がなかったとしても、この場を預かっている者として一言は在っても文句は云えないだろう。


 ――だが、


「いいか、。俺は、お前を認めた訳じゃ無ぇ。

 手前ぇの能力に、少しだけ・・・・見所が有ると思っただけだ」


「……は、」


 投げ掛けられた言葉の斜め上さに、見逃した責を問われると覚悟していた晶と咲は呆気に取られた。


 2人並んで仲良く呆気に取られるその姿に、諒太が更に言い募りかける。

 しかし気勢が削がれたのか、言葉の持って行く先を失い、舌打ち一つ顔を背けた。


「俺たち・・は先に麓に下りる。

 休んだら晶たち・・も下りてこい、直ぐに練兵どもを拾って鴨津おうつに戻るぞ!」


 そのまま晶たちの返事を待たずに、諒太と埜乃香ののかは山門を潜ってその向こうへと去る。

 最後に一つ、埜乃香ののかが返した謝罪の会釈だけが印象に残った。


「……何だったんでしょうか?」


「さあ…………」


 諒太の真意も図れぬままに、2人揃って首を傾げる。


 殴り飛ばされた衝撃からか、『導きの聖教』を取り巻く謎からの不安は薄れてくれた。

 如何にかなる。努めて楽観しながら、咲は話題を変えた。


あの女性ベネデッタ、また来るのかしら」


「え?」


、って云ってたじゃない。

 結構、気に入られたんじゃない?」


「さあ…………」

 揶揄からかいに笑む咲へとどう返したものか。微かに胸の内に浮かんだ感情についた名前を知らない晶は、さりとて悩む素振りも見せずに首を傾げた。

「来ても、迷惑なだけだとは思いますが。案外、直ぐにでも再会するかもしれませんね」


 ――まぁ、そうかもしれない。

 晶の返答に、咲は無言で首肯を返す。


 残った謎は意図も見えないままに、神父ぱどれと名乗る男諸共に消えて失せた。

 逃げた神父ぱどれを捕まえるのは、最早、不可能であろう。


 そして謀られたのは、波国ヴァンスイールとて同様だ。

 何れ事態の収束に、波国ヴァンスイールが動く可能性は否定できない。


 ――それでも、気付いたことがある。


「ねえ、晶くん」


「はい」


「先刻、私の事、『咲』って呼んだでしょ」


「え……え?」


「ねぇ。もう一回、呼んでみて」


「や、あの、それは……戦闘の最中でしたので」


「別に戦闘の最中じゃなくても良いでしょ、ほら」


「――申し訳ありませんっ!」


「怒ってないわよ。謝るくらいなら、ほ~ら~」


「勘弁してください、お嬢さま!」


 腰を下ろした石段の領地を、2人並んで奪い合い譲り合い。

 微笑みしか残さないその戦争の結末を知るのは、


 ――静かに見下ろす、月の明りのみであった。


 ♢


TIPS:ベネデッタの目的。

 神託を受けた時点で、敗北することは確信していた。

 そもそも勝利しても統治のための資本も用意できない以上、波国ヴァンスイールには高天原たかまがはらを維持できない。

 であるならば敗北することで、これ幸いにのさばっている主戦派に属する分派を切り捨てて整理することを決める。


 だが同じ神託で、恩寵の御子神無の御坐と邂逅することも理解していた。

 つまり敗北することと恩寵の御子の奪取が、彼女の目的となる。

 そのためには鴨津おうつの風穴を支配して、取引材料として晶自身の意思で晶の波国ヴァンスイール招聘しょうへいを願うしかない。


 この矛盾に対する救いは、風穴の支配がベネデッタの勝利と等しくはないこと。


 アンブロ―ジオに鴨津おうつの風穴を支配させて、アンブロ―ジオを敗北させる。

 その後に晶に勝利することで、風穴の支配をかすめ取りつつ敗北しているという矛盾が成立する。


 どれだけ敗北しても責任は主戦派に行くため、穏健派であるベネデッタは自由に動けた。


余話

 ――法理ほうりから疑いを掛けられてとばっちりの輪堂りんどう孝三郎こうざぶろうは、同じ頃にくしゃみをしたとか。

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