2話 鴨津にて、向かい風に歩む1
――統紀3999年、
「晶、晶や。
ふ、ふ。よう来た、よう来た」
「晶さん。ようこそ、お出で下さいました。
どうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
華やかな灯りに満たされた
朱華の向こうでは、
「一週間ぶりです。
最初と2度目はあの世が
対する晶も、二人に倣って穏やかに応じて見せた。
「のう、晶。
もそ、と近うに。一緒に座ってたも」
晶が座る足の間に、
立ち昇る
「のう、のう。
「ええ。良い牛の乳が
「ありがとうございます。
……いただきます」
それは、何時か晶が望んだ風景。
何処までも心穏やかな、還りたいと願った団欒の笑顔であった。
「『導きの聖教』、ですか?」
乳脂だけが持つ淡い甘味が、さらさらと舌の上で融けていく。
「高天原では、その名前で知られていますね。
――正式な名称は『アリアドネ聖教』、こちらなら聞いたことがあるんじゃないですか?」
「あ、
中学校の世界情勢の授業だったっけ」
答えながら、記憶の片隅をひっくり返す。
「西巴大陸最大の宗教? でしたっけ。
確か、
「はい。その認識だけで充分です。
「くふ。其方も会えば判るがの、まあ、
「支配、ですか。
ですが、どうやってそんな事を可能にしているのですか?」
一つの龍穴を支配できるのは、一つの大神柱のみ。
これは晶とて知っている常識だ。
一つの神柱が複数の龍穴を支配することはできないし、その逆もまた、不可能だ。
すなわち、龍穴がもたらす霊気以上の恩寵はどうやっても引き出せないし、一つの国が大陸を霊的に支配することは理屈上、不可能なはずである。
「どのような事柄にも、抜け道は存在するものですよ。
……彼らは自身の教義において、聖アリアドネこそ真にして唯一の神柱であり、それ以外の神柱は
他の神柱はアリアドネの下にこそいるべき存在であり、それらを支配し管理
「……………………」
あまりにも傲慢なその思想に、晶はしばし絶句した。
「眷属神と位置付けられた神柱と龍穴は、常に自身が有する恩寵をアリアドネに搾取され、
――この思想の元、
「随分と厄介な連中みたいですね」
月並みだが、改めて聞かされるとそういう感想しか浮かんでこない。
「別に珍しい思想でもありませんよ。晶さんでも身近なものでは、
「
「はい。
死後の世界、つまり、
元々
「……高天原は、
そこまで数は無いとはいえ、
特に、葬儀に関しては、
だが、
「
抜け道は所詮、抜け道。正道にはない危うさがあります」
「唯一神と定義された神柱は、本質的に他の神柱を容認できない性質を持つようになります。
つまり、眷属神以外の神柱を眷属にし続けなければならなくなるのです」
「端的に云うなれば、唯一神は敗けを赦されません。
敗北すると云う事は、他の神柱を認めると云う事。
唯一神が唯一神でなくなる。信仰上の矛盾が回避できなくなり、最悪、内部から崩壊してしまいます。
アリアドネ聖教は、西巴大陸の神柱を食い尽くしている分、反動もそれなりにあるでしょうね」
「……アリアドネ聖教は敗けの赦されない戦いを勝ち抜いて、西巴大陸を支配したってことですね。
そんなに強い神さまなんですか?」
「強ぅはないのう。じゃが、殊更に厄介ではある。
……
背と頭を晶に預けながら、朱華は機嫌良さそうに応えた。
例えば、高天原に座す神々は、世界の仕組みたる五行を各々が
アリアドネの象は
それは、つまり……。
「彼の神柱の信徒は、人間が存在する空間であるなら別の神柱が支配する領域であっても、一定以上の干渉が可能なのです。
アリアドネの特性は、宗教
信仰と侵攻。
なるほど、世界には様々な神様がいるんだな。
薄ぼんやりと、そう
「…………それで、その『導きの聖教』がどうしましたか?」
知識のない晶のために、随分と本題に入るのが遅れてしまった。
申し訳なさから、
「華蓮の南方に、
その領都、
事の裏に
――
「判りました。俺にどこまでお手伝いできるか分かりませんが、咲さまの邪魔にならないよう、精一杯、務めさせていただきます」
大恩ある
「ええ、よろしくお願いしますね。
ですが、気を張らなくとも結構ですよ。
実際のところ、調査は
「おまけ、ですか?」
「はい。
本来、この
今回の場合、長谷部領の領主が、ですね。
ただ、当の領主がゴリ押しで解決を願ってきたので、
派遣する人材は咲さんを名指ししていたので、調査は口実で意図は丸見えですね」
「咲さまを名指し、八家のお嬢さまをですか!?」
くすくすと笑いながら告げられた内容に、晶は瞠目をした。
咲の家格は、
晶自身も元は八家の出であるが、こちらは特殊な環境のため除外するとしても、八家の直系縁者を名指しで呼びつけるのは失礼を通り越して暴挙に近い。
だが、
「多分に失礼ではありますが、問題はありません。
長谷部領の領主は、
晶さんも面識はあると思いますが、
「……ああ」
久我。その名に思わず納得の息が漏れた。
確か、久我家の序列は八家第二位、五位の輪堂家を目下と見ていてもおかしくはない。
だとするならば、何くれと理由をつけて呼びつけるくらいはしかねない。
「『導きの聖教』に関しては、
それよりも、
……現在、咲さんは晶さんの教導に入られていますが、その直前まで当主
「俺のせい、なんですか?」
「……いいえ。晶さんに関わらず、遠からずこの問題は起きていました。
結果的に輪堂の決定に不満を持った久我が横やりを差し挟んだ、それがこの
「問題の解決を含めるならば、しばらく晶とは
寂しいが、仕方もあるまい」
そうか、別の領地に赴くとなったら、少なくとも数日は華蓮を留守にしなければならないだろう。
週の終わりに
「――申し訳ありません」
「善い。其方は、其方の成すべきを成せ」
やや不満さは残っているものの、意外と聞き分けよく
しゅるり。衣擦れの音を立てるままに身体をよじり、晶の首筋に繊手を絡める。
「
驚く晶の耳元で、
「忘れりゃな、晶。
「――は、ありがとうございます。
幽玄に立ち昇る
「――晶さんが防人になられて
「……いえ。俸給こそ未だですが、待遇は充分によくしていただいております。
「何か気になることでも?」
朱華の強請るままに共に貝合わせに興じていた晶は、
「鍛錬に関して、です」
「……咲さんからの報告は受け取っています。
現時点で初伝を4つ、
充分に、私の要求には応えて頂いておりますよ?」
「ありがとうございます。
――ですが、阿僧祇隊長に聞いたところ、身体の鍛錬が足りていない、と。
事実、咲さまと腕相撲をしたら、『
その際に阿僧祇厳次から告げられた回答が、咲と晶では純粋な鍛錬に差があると云う事だった。
そうであるなら、阿僧祇厳次の指摘の通り、身体の鍛錬が絶対の急務であることは理解している。
そして、一ヶ月程度の鍛錬で急激に身体能力が上がる訳が無いことも、晶は充分に理解はしていた。
――だが、もどかしい。
早く、もっと早く、強くなりたい。
その欲求と裏腹の遅々として進まない鍛錬の成果に、晶は焦れていた。
「……それは、阿僧祇や咲とやらの認識が間違っておるのう」
「え?」
誰に答えを期待したわけでもない悩みの吐露に、
まさか、返ってくるとは思ってもみなかった言葉に、晶の反応が少しばかり遅れる。
「そうさの、認識が間違っておると云うか……、認識を出発するところが間違っておる」
「そうですね、
晶さんはその手にした
晶は手持ち無沙汰に、掌で遊ばせていた盃を見下ろした。
「はい」
「当然、筋肉量が多ければ多いほど、腕力を始めとした身体能力は高くなります」
「では、よく思い出してみてください。
――咲さんの腕は、
「――いいえ。
ですが、
思い出すまでも無かった。
健康的ではあるが、女らしさしか感じない華奢な腕。
晶よりも細いことは、考えずとも断言できた。
だが、『
「ええ。咲さんが、『
……ですから、
「
更に説明を云い加えようとした
「其方に教えてやりたいのも山々じゃがの、この手の知識は頭で理解すると
会得には、骨身の髄で理解せなばならん。
なに、気負う必要は無い。
――
複雑な色彩に揺れる蒼の双眸が、得意気に晶の視線を射抜いた。
その
「
疑問とは、
――それこそが理解の
しゃら、しゃら。夏の微風が風鈴の音を掻きたてる中、
上座に座った紅蓮の炎を想起させる幼子は、嬉しそうに捉えどころのない予言を告げた。
「恐れりゃな、晶。
其方が其方自身を信じる事を。
忘れりゃな、晶。
己を理解した時、
其方はただ、その時を待つが良い。妾もその時を楽しみに待つとしよう」
♢
TIPS:
牛乳をコトコト煮込んで作る、和製チーズの走り。
手間もそうだが、牛乳を大量に使用するため非常に贅沢な食べ物。
基本、
味は癖が少ないチーズ。
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