二章 聖教侵仰篇

序 遠方よりの潮風は、波間に揺れて

――これは夢か。


 ベネデッタ・カザリーニは、訳も無くそう確信した。


 嗚呼、懐かしき故郷ヴァンスイールの、至尊たる王宮パレスよ。


 記憶の中で、王宮の最奥にある青月の間が鮮やかに蘇った。


 高窓の玻璃硝子ステンドグラスから、碧に染まった陽の光が零れ落ちる。

 深い紺碧の輝きは、磨き抜かれた白い大理石の床に落ちて、深い海底うみそこの色に青月の間を染め上げた。


 青月の間の玉座に座る主が、ベネデッタを見下ろす。


 褐色の肌に銀の髪、そして、どこまでも碧いなかつ海の輝きを湛えた瞳。

 年齢よわい10ほどの少女の姿をしているが、この約束の地ヴァンスイールに在って数千年を数える永遠無垢。


 感情の見えない、それでも無限の愛を人類に与え続ける唯一神。


 深い紺碧の輝きに包まれ、ベネデッタは無上の愛と忠誠を捧げると誓った神柱との会話を思い出す。


――……極東に向かう、と?


――御意。ここしばらく、御前の元を不明とすることをお詫びいたします。


――よい。……そうか、……それもまた、運命さだめか。

 珍しく、寂しそうな嬉しそうな感情を視線に滲ませ、玉座に座る神柱が頷いた。

――往くが良い。旅路の果てに、其方は運命さだめを知るであろう。


――はい。

 運命さだめとは何か。訊こうともしたが神柱が応える事も無いと思い、首肯するだけに留める。

 それは、神柱だけが知る未来からの囁きだ。

 所詮、ただ・・人たるベネデッタは、その時になるまで言葉の意味が判ることは無いのだろう。

――ご安心ください、多少、遠いだけで普段の聖伐と変わりなければ。

――数年後には、眷属神・・・を5体ほどとあの地に在る龍脈レイラインを、御身に捧げて御覧に入れましょう。


――……そうか。


――聖下?


 僅かに云い淀む少女の姿に、云い知れぬ不安に似た何かを覚えて、ベネデッタは問いかける。

 常には見せない長い逡巡の後、意を決したように神柱はベネデッタの瞳を、ひた、と見据えた。


――やはり、其方には告げるべきであるな。


――は…………。


 神託の続きであろうか。

 ベネデッタはこうべを垂れて言葉を待った。


――託宣である。……――、――――、…………。




「……っ! …………!!」


「……セ…………!! 信ご………っ!!」


 常にない喧騒が、半年以上前の懐かしい記憶の微睡みから現実へとベネデッタを引き上げた。

 珍しい秩序の見えない騒ぎ方に、頭を振って寝惚ねぼまなこを無理矢理、覚ます。


 一等船室・・・・に備え付けられた中樽から水を一掬ひとすくい、木彫りのコップすくい、眠気覚ましとばかりに一気に飲み干した。


 水が喉を通る感触に漸く人心地がつき、普段着である白の修道服へと着替えて表に出る。


 塩気の強い潮風にさらわれて、ベネデッタ自慢の金髪が宙を舞った。


 髪が舞う感触に思わず目を眇めたベネデッタの前を、威勢よく水兵たちが船首の甲板に向かって駆けてゆく。

 その勢いに邪魔にならないよう、壁際に身体を寄せるようにしてベネデッタも甲板へを足を向けた。




「おはようございます、皆さん」


 水兵たちが甲板を行き交う中、より船首に近いところで顔を突き合わせている二人の仲間を見つけ、ベネデッタは迷わずそちらの方へと歩み寄った。


「おはよう、カザリーニ嬢。

――顔色が随分と戻ったね、船上の生活にも慣れたかい?」


 つい先日まで、船酔いからくる頭痛や吐き気と闘っていたベネデッタは、仲間からの温かい・・・言葉に苦笑を浮かべながら頷いて見せた。


 本来ならば聖職者として拝礼をしなければならないのだろうが、大勢の水兵が行き交う甲板の上では気が引けて、互いに軽く聖印を切るだけの略式の礼をするだけに留める。


「おかげさまで、何とか持ち直しました。

……騒がしいですね。何かあったのですか?」


「あぁ、済まない。起こしてしまったかな?

――あれ・・だよ」


 ベネデッタの部下としてこの旅に同行してきた教会騎士のアレッサンドロが、朗らかに笑いながら船首が指すその向こう側に向けて、顎をしゃくって見せた。


 そちらの方に視線を向けると、やや高い波の合間に海とは違う灰色がかった稜線が遠く微かに見えた。

 陸地だ。

 先に、補給に立ち寄った港が最後の中継港と聞いていたから、あれが目的の島国なのだろう。


 極東の島国、高天原。


「……ようやく着いたのですか」


 久し振りに、揺れていない地面に足をつけることができる。

 ベネデッタの口元が、知らず、笑みの形に綻んだ。


「まだ外洋だがね。

 これから、蒸気機関を回して大潮を越える必要がある。

 内洋に入っても、外洋船ふねの混雑ぶり次第でかなり待たされるはずだ。

 順調に行ったとしても、この快速帆船クリッパーを係留港に泊めて補給を行えるようになるまでに2日はかかるだろうね」


「………………………………」


「済まない、言葉が足りなかったな。

 我々は乗客の扱いだから、連絡船に乗って一足先に上陸は出来る。

 明日には、陸地でゆっくりと休めるよ」


 揺れていない寝台ベッドで眠れると期待していたのに肩透かしで終わったと、ベネデッタは思わず悄気しょげた。

 陸地を目にした時の昂揚と直後の落胆が表情に出ていたのか、アレッサンドロがそう慰めてきた。


 もうあと少しの辛抱と聞いて、ベネデッタの気持ちも上向きに変わる。


「……それを聞いて、安心しました。

 それにしても、青道チンタオ港を出て半月とは、随分と到着に時間が掛かりました。

 地図上では、それほど離れていなかったはずなんですが」


「――それが、あの島国の厭らしい処ですよ」

 ほぼ、独白のように零れたベネデッタの呟きに、背後から答える声が掛けられる。

 振り向いた先に、壮年に差し掛かった男性が立っていた。

 身体は鍛えられている様子は見えない。

 見るからに文官然としたその身体つきを包むのは、司教ビショップの地位にある事を指す漆黒の僧衣である。

「御覧なさい。

 小さな島国を護るように大潮が隙間なく包み、帆の力だけでは辿り着けないよう貿易風の風路からは僅かに離れている。加えて、あの島に上陸するためには、島を大きく回り込み交易が唯一、許されている港町へと行かなければいけない。

 それらは全て、我らが神柱の御許にあるべき至宝を隠すための背信の行い。

 とはいえ、何ともいじましい・・・・・努力だと思いませんか?

 あのちっぽけな島は、世界最大の龍穴を有しているのです」


「……アンブロージオ卿」

 ベネデッタは苦手に思う感情を抑えながら、自身の上位に当たるその男の方へと向き直る。

 ベネデッタは、余りこの男に好意的にはなれなかった。

 見た目には穏やかな微笑を絶やさない男だが、口元だけの微笑はどうにも蛇を連想して止まないからだ。

「出立前にも聞いた情報はなしですが、それは本当なのですか?」


「おや。聖女・・殿は、長年、星導観測局が追っていた惑星配列計算の結論に疑いを持つと?」


「そう云う訳ではありませんが……」


 皮肉気に問いを問いで返されて、ベネデッタは口籠くちごもった。


 世界を流れる霊力の奔流。龍脈レイラインと呼ばれるそれ・・は、通常は大地深くで脈々と流れているが、世界各地に点在する龍穴から大気へと霊力を放出している事が知られていた。


 無尽蔵の霊力の泉ともいえる龍穴だが、ただ・・人がそれを支配することは敵わない。

 しかし、間接的に支配する技術は存在している。


――神柱かみである。

 神柱が龍穴を支配することで、龍穴のある土地は神柱の恩寵を十全に受け、繁栄することができるのだ。


 ベネデッタが奉じるアリアドネ聖教も、西巴大陸で最大の龍穴を聖地としてようし、大陸のその他の龍穴とそこに住まう神柱を眷属神として支配することで、大陸最大の宗教として君臨していた。


 ベネデッタが高天原に赴く事になった事の発端は、数年前に龍脈レイラインを観測して地図を作成する星導観測局が、一つの論文を提出したところから始まった。


――曰く、東の果ての島国、高天原に、龍脈レイラインの始まりとなる地を発見した、と。


 龍脈レイラインの終着点は幾つか確認されていたが、その逆、龍脈レイラインの始まりはこれまで確認されたことが無かった。


 諸説はあったが、確認しようにも龍脈レイラインの上流に当たる東方は他の神柱の支配圏であるため、これまで確認のしようが無かったからだ。


 状況が変わったのは、蒸気機関の普及により貿易航路が拡大したからだ。


 それまで、宣教会の派遣する宣教師だよりの細々とした諜報活動しか仕掛けられなかったが、これにより、確度の高い情報が次々と本国ヴァンスイールへと流れてくるようになったのだ。


 ともあれ、龍脈レイラインの始まりとなる地の発見に、上層部である枢機委員会は色めき立つ。


 しかし、その地を手に入れるためには世界を半周するほどの隔絶した距離と云う、現実的な地理の問題が立ちはだかり、侵攻計画は頓挫の憂き目を見かけていた。

 状況が変わったのは目の前にいる司教、ヴィンチェンツォ・アンブロージオが実行可能な聖地回復作戦を上奏したからである。


 この作戦に乗り気になった枢機委員会は、満場一致で聖女ベネデッタと護衛の教会騎士2名の派遣を決定したのだった。


「聖典『ヤソクの民の旅路』第3章に於いて言及されていた東の涯カナンとは、正にあの島の事であると、枢機委員会ではもっぱらの噂です」


「お待ちください。それはヴァンスイールにある契約の丘の事だと、100年も前に結論が出たではありませんか」


 これまで沈黙を守っていたもう一人の教会騎士、サルヴァトーレ・トルリアーニが慌てて口を挟んできた。

 愛国心の強いこの友人は、自身が強く信仰する本国の聖地を蔑ろにする噂の存在が赦せなかったのだろう。


トルリアーニ卿サルヴァトーレ、落ち着いてください」


「落ち着く!? 我らが聖地、いては我らが神柱めがみおとしめられたのですよ? 何を落ち着けと!!」


「卿。噂ですよ、ただの噂です」


 興奮のあまりか、上司であるアンブロージオに食って掛かるサルヴァトーレを、アレッサンドロとベネデッタで抑え込んだ。


「……どちらにしても、あの地が豊潤ほうじゅんな恵みである事実は変わりません。

――にも拘らず、我らが唯一神を差し置いて神柱を僭称すかたる蛮神共が、あの島に5体も巣食っている」


 興奮冷めやらぬサルヴァトーレを意に介さずに、船首の根元までアンブロージオは歩を進めた。


「その事実は理解しています。

 故に、枢機委員会は我らの派遣を決定したのですから」


 お願いだから、サルヴァトーレを刺激する発言を慎んで欲しい。

 言外にそう懇願するベネデッタを余所に、アンブロージオの独白めいた演説は続く。


「聞けば、宣教会は500年もの間、遅々として進まない教化をあの地で続けて満足しているだけとか」

 アンブロージオは、懐から手布ハンカチを取り出して口元を覆ってみせた。

ぬるい。

――何とも、生温い。

 我らは、唯一神たるアリアドネの尖兵としてあの島を支配する蛮族を導き、栄光の礎たる龍穴を我らアリアドネ聖教の導きにより、適切に管理してやる・・・・義務と権利があるのです」


「……理解していますとも、アンブロージオ卿。

 我らは女神アリアドネの威光を背に、聖地回復運動レコンキスタに殉ずる覚悟をもってこの地に来たのですから」


 ベネデッタは、アンブロージオが時折見せる狂信的な興奮をできるだけ刺激しないよう言葉を選びながら、同意の意思だけを示した。


 高天原から龍穴を簒奪さんだつするよう上層部から命令されたのは事実であるから、その点に関してはベネデッタも異論はない。

 それでも、実際に戦力として数えられるのはベネデッタとその護衛2名のみ。

 アンブロージオは、見るからに荒事には無縁そうであるため除外せねばならないだろう。


 つまり、たった3名で極東の島国とはいえ一国家を相手取れと云われているのだ。

 幾ら何でも無茶振りが過ぎているのは、ベネデッタも充分に理解していた。

――だが、それでも、


「結構。

――それではみなさん、あの島の蛮族に教えてやるとしましょう。

 真実の神柱を、至上の教義というものを」


 止まらない。止まれる訳がない。

 ここまで来てしまったのだ。


 ベネデッタが此処まで来るという事は、国家の威信が相応に掛かっているという事だ。


 この作戦が成功のうちに終え、高天原に巣食うと云う5体の蛮神を下し、唯一神・・・を掲げるアリアドネ聖教を至上の信仰として打ち立てる。

 そうしないと、西巴大陸最大の宗教アリアドネ聖教は回避しようのない信仰の矛盾を抱えて、内部から崩壊する可能性を抱えてしまう。




 未だ、波の合間に垣間見えるだけの高天原を、もう一度だけ視界に納める。


――先ほどまでと、何が変わったという訳ではない。


 だが、初めて目にした時の昂揚はすでに薄く、二度目に目にするその島の姿に、ベネデッタは晴天の中にもどこか澱んだもので覆われているような印象を覚えた。


 ♢


 同刻、南部なんぶ珠門洲しゅもんしゅう長谷部領はせべりょう鴨津おうつにて。


 ざん、ざざん。人工の岸壁に、絶え間なく波が打ちつけられる。

 寄せては消えて、寄せては消えて、無数の飛沫へと白く砕けて消えていく。


 その波の繰り返しは、最初こそは面白かったもののすぐに飽きて、あきらは遠く水平線の彼方へと視線を移した。


 視界に納めきれない水の蒼と空の蒼が引くその線上に、三々五々、明らかに諸外国のものと思える船舶が浮いているのが目につき、そちらの方へと興味が惹かれた。


「晶くん・・

 遠慮がちに掛けられた声に後ろを振り向くと、ここ暫くで見慣れた少女、輪堂りんどうさきが遠慮がちに微笑んでいた。

「海は初めて?」


「遠間でなら一度だけ、洲鉄の車窓越しに見た事はあります。

 こんなに近くでは初めてですね、

――正直、想像以上です」


 晶が故郷五月雨領放逐われた時、逃げるように乗り込んだ洲鉄から遠くに広がる海の蒼さを目にしたことはある。

 だが、あの時は気力体力ともに限界であったため、外の光景に気を回すような余裕は無く、記憶も曖昧なものであった。


「――そう。

 私の領地も海に面しているから見慣れたものだけど、初めてのひとはやっぱり感慨深いものがあるの?」


「流石に人それぞれだとは思いますが、この雄大さは一見の価値ありかと」

 じゃり。小石混じりの足元の砂地を鳴らして、咲の方へと向き直る。

「お待たせしました。行きましょうか」


「そうね。

 海を観る機会はこれからいくらでもあるわ、今は用事を済ませることに専念しましょうか」


 同意の意思を籠めて首肯した晶を見て、咲は、晶を先導するように先に立って歩き始める。

 その背について岸壁から一歩を踏み出した晶は、もう一度だけ海の方へと視線を巡らせた。


 何処までも心地良い蒼と潮の風が、晶の瞳を眇めさせる。


 晶が手にしている臙脂えんじの太刀袋に留められた胡桃くるみ透彫すかしぼりが、晶を急かすように風に揺れたのを受けて、晶は咲を追って小走りに走り始めた。




――統紀3999年、葉月8月3日。


 沓名ヶ原くつながはらの怪異が引き起こした百鬼夜行より漸く一月が過ぎた頃、晶は教導役となった咲に伴われて珠門洲最南端の長谷部領はせべりょう鴨津おうつの街へと、出向の名目で赴いていた。

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