6話 鳳翼は夜空に舞い、月を衝くは一握の炎2
――ぱた、ぱたた、ぱた…………
ひどく穏やかな風の中に、ボロボロになった晶の着物が泳ぐ。
袖口が風に揉まれて
しばらく自失していたのか、前後の記憶が曖昧だ。
「…………は?」
朱金の輝きに目舞う思考がようやく立ち直り、視界の先に広がる光景に思わず晶は続く言葉を失った。
――そこに在るのは、満天の星。
晶のいた河川敷でも、市街でもない。
あらゆる意味で現実離れしたその光景に、今度こそ晶の思考は停止した。
ごぉう。
耐えられないほどの風ではない。
風に抗おうと身体を固くして、
――抵抗の感触を一切、得られないまま、晶の身体は一回転をした。
ぐるり。内臓が浮き立つような奇妙な感覚と共に、視界が右から左へと流れていく。
星の瞬きが尾を引いて、回天の様子を見せる。
次いで、星明りに似た人工の灯火が、星空に負けず劣らずの鮮烈さで晶の視界を巡っていった。
人工の。人間の息づく営みの光。
――
ようやく、晶は己の今いる場所が何処なのかを自覚した。
「――…………こ、ここ、
颶風から与えられた慣性のままに、
その度に、視界は乱雑に巡って元の位置に戻った。
あまりの異常に晶は思わず手足をばたつかせるが、支えるものも無い空の高みに在って、当然、動きは止まることは無く、晶の身体は宙の最中を更に踊る。
と、晶は足元に視線を向けた。
大地はおろか、何も無い足の先と、華蓮の市街が一緒に視界に収まる。
戸惑いしかなかった晶の思考に、上空を
「あ、あぁあぁぁっっ!! お、落ち、落ちるぅぅっっ!!??」
そんな異常を身体も現実もようやく思い出してくれたのか、晶の叫びを契機にがくりと身体に重力が掛かる。
落下の速度は止まることは無く、一気に晶の身体を地表へと戻していく。
「あ。
――あ、あぁぁぁああぁあぁぁぁっっ!!!」
幸いであったのは、垂直に落ちるのではなく滑空するように斜めに落ちたのと、
――あまりの恐怖に混乱していたが、漏らさなかった事くらいであろうか。
――――――――――――――――
「――………………くふっ」
桜色の唇から、苦し気な嬉し気な、そんな
ついぞ聴いたことのない目の前の
「
珍しく、
「んむ。
――
何てことはないと云った風情で、つぃ、と繊手を持ち上げて街の方へ向ける。
朱華の指先を追って
何かあったとしても、
しかし、
「……翔んでいますね」
「うむ。
翔んでおるのう」
晶が、やや不格好な弧を描きながら、華蓮の上空を翔んでいる。
あらゆる意味で現実を無視したその現象を、それでも少女二人は当然のように受け入れていた。
晶は気付いていなかったが、晶が宙を舞う度に朱金の輝きが波紋に似た輪を描く。
「
「云っておらぬからのう。と云うか、伝えたところで意味もあるまい」
そう云う訳にもいかないだろう。
「云っておくが、歴代の
「……それは、」
何故か? そう訊こうとして、
霊力を以て現実を改変するためには、術者の意思が大前提として必要となる。
これは、陰陽術でも精霊技でも、
行使すると云う、意思あってこその奇跡なのだ。
歴代の
その現実を受け入れ、術として
ある種、晶は例外のようなものである。
生き延びる、逃げる。
おそらくは、そういった類の
そのままに
それが晶の飛翔に繋がったのだろうと、
――そして、それが正しいと云うのは、朱華の現状が証明していた。
「――くふっ」
再度、朱華が咽る。
あらゆる意味で強引で稚拙。成立するはずのない術とは云えない術の成立。
その反動と対価を、目の前の少女が一手に引き受けているのだ。
「
「……
そして思い出す。珠門洲の歴史で初めて確認されている、
「神気の扱いが下手でのう。
いつまでたっても遠慮なく、妾を
「……」
二句を継げられない
「其方も
――
「は、はぁ……」
どう返事を返したものかと迷う
その先では、現状を理解した晶が、ようやく地上に向けて滑空を始めたところであった。
「――忘れりゃな、晶」
ぽつり。朱華が呟く。
「其方を満たすは、天空を統べる
どこまでも
「――忘れりゃな、晶」
ただ、晶だけを見つめて呟いた。
「其方が立つ地を統べるは、火を司る神性ぞ」
――――――――――――――――
「――………………はあっ、あ、はあっ、は、は」
結局、滑空の勢いはそのままに、晶は地表へと戻ることに成功した。
緊張とどうやって戻って来れたのかいまいち理解できないほどの混乱で、浅く太い
無事だったことが嬉しいのか、生きていることが理解できていないのか、自分でも呑み込めていないままにボロボロと勝手に涙が零れた。
だが、それも幾ばくも無い間だけで、百鬼夜行の最中である事を思い出して、晶は直ぐに立ち直る。
かなり上空を翔んだような気がしていたが、想像よりも早くに地面に戻ってきたようだ。
滑空し着地した先は、晶が居たところよりも、
晶が元いた場所に視線を遣る。
特に明かりも無いはずの、遠く離れたその場所が、何故か鮮明に視界に映る。
大鬼が
もう一体の大鬼はどこへ行ったのか?
滅んだのだ。知らないはずなのに、何故かそう確信できた。
そして何故か、残った大鬼や大蛇も動く気配を見せていない。
そこまで疑問を浮かべて、周囲に視線を遣る。
世界が朱金に輝いていた。
膨大な量の朱金の粒子がそこかしこから湧き上がり、晶の視界全てをその色で満たしていく。
それは何処までも荘厳で、幻想的な光景であった。
音を立てることなく、しかし、絶大な
鹿や猪の類は震えながらもようやっと立っているといった風情だし、狗などの小物に至っては地面に倒れて息をするのもやっとの有様であった。
そう納得して、ようやく晶は自分の状態に意識を向ける余裕ができた。
理解のできない出来事ばかり起こっているが、その最たるものは晶自身の事であろう。
隊服はボロボロで、引っかかっているのがせいぜいといったところだ。
特に腹のあたりは大きく裂けており、穴が空いている。
――だが、穴の下にある生身は、傷一つついていなかった。
かすり傷なら、山ほど負ったことはある。
だが、骨折などの重傷を負った経験は、晶には無かった。
身体の丈夫さは、晶にとって密かな自慢ではあった。
しかし、
身体が丈夫や、無傷で幸運などとは、根底から孕んでいる意味が違う。
本来、晶は大鬼に蹴られた時点で、
「あ」
思い出した。
――約束しよう。
記憶の中で、朱華が微笑う。
――珠門洲に其方がつま先でも身を置く限り、
約束、守ってくれたのか。
朱華の言葉に、じんと胸が熱くなる。
「そうか。
――なら、今度は俺が返す番か」
そして気付く。
右手に握る、固い感触。
持ち上げて見る。
掌が握りしめていたのは、剣の柄であった。
滑らかな革に黒糸が縫い込まれた実用重視の柄。片刃で使われることがない幅広の大陸風の鍔。
その先に、肝心の剣身は存在していなかった。
――否、在る。
光を殆ど反射しないほどの、恐ろしいほどに透き通った両刃の剣身。
全くと云ってもいいほど見えないが、長さはおそらく
魂魄に刻み込まれたその銘。
寂しくも
「
恐る恐る、その銘を剣に投げかける。
剣――
透明な剣身の芯鉄部分に蒼い炎が立ち昇り、絡みつくようにして銀の粒子が蒼炎を塗り潰していく。
剣身全てに蒼と銀を満たし生まれたのが、絢爛朱金に輝く両刃の剣であった。
広範囲にあって、悉くの穢レを押さえつける朱金の輝き。
その精髄を鍛え上げた、一振りの剣。
莫大な
まるで、乾ききった湖に清水が満ちるかのような感覚に、陶然と晶は酔った。
何でもできる。そんなばかばかしい思考が浮かぶほどの全能感。
剣身を満たす莫大な熱量が後押しをするままに、2度、3度と剣を振るう。
その度に、周囲に輝く粒子が大きく渦を巻いて、晶の意のままに虚空に軌跡を刻んだ。
強大であったはずの穢レどもは、惨めな的と化したまま。
晶と
晶は僅かに腰を落として、平正眼の構えの変形から一気に地を蹴った。
身体が軽い。まるで翔んでいるようだ。
そんな埒も無いことが、大鬼目掛けて疾駆しながら脳裏に浮かぶ。
――当人は気付いていなかったが、事実、晶の速度は常人の見せるそれでは無かった。
地を蹴る脚は力強く、それでも踏みしめる時間は刹那の内に。
最早、晶の身体はほとんど宙を滑るようにして、大地を疾走っていた。
その状態が生み出す勢いは凄まじく、
疾走りながら、目につく穢レ目掛けて
流石に、
そちらの方向に刃を空振りしただけだ。
――それで、充分だった。
振るった刃の軌跡に従い、周囲に渦巻く朱金の粒子が浄火の
ただ、そこに在るだけで怪異さえも足止めさせうる浄化の粒子。
それが明確な牙を持つ波濤となり
「は、ははっ」
晶が疾走り抜けるその軌跡に沿って、浄化の炎が無数に上がる。
それがたまらなく痛快で、自然と晶の口から哄笑が漏れた。
身体が熱い。業火に炙られるかのような、それを塗り潰すような快感。
圧倒的な弱者であった晶は、生まれて初めて振るう圧倒的な暴力に酔っていたのだ。
今や晶の姿は構えも何もなく、どこか野を駆ける狼にも地を飛翔ぶ燕にも似たものとなっていた。
――落ち着け、距離を取れ。
浄火の波濤で
当然だろう。つい先ほどまで、晶を好き勝手に
簡単に倒せると考えてしまえるこの瞬間がおかしいのだ。
だが、
――攻めろ。
生まれてしまった傲慢な思考が晶の理性を蹴り飛ばし、その勢いのままに
遂にはその感情のままに、晶は大鬼の頭上が見下ろせる位置まで跳び上がる。
流石は大妖魔と
堅い杉の丸太で出来た電柱は、簡単に両断できる代物ではない。
剣の勢いを木に食い込ませて止めてから、晶を殴るなりする算段だったのだろう。
灼熱の軌跡を描いて、
大鬼の狙いも過たず、電柱と剣の刃が激突。
――一瞬の停滞も赦さずに、
大鬼の誤算は、晶の手にした剣が、
存在そのものを灼き尽くす業火の太刀、幾ら堅かろうと杉ごときで止められるようなものではないのだ。
地面すれすれまで剣身を振り下ろし、絶命する大鬼が倒れる姿を見ることもせず、その脇をすり抜けるようにして、さらに先へと駆けだす。
晶の視線の先には、この事態を引き起こした首魁、
駆ける。
否、地を這うように飛翔する。
天空高くを翔んだのだ、ならば、低空を翔ぶのは想像するよりも容易だろう。
――大蛇までの距離は、およそ
その距離が刹那で溶ける。
大蛇が反応しようとしたその時には、晶の身体はすでに大蛇の懐深くに潜り込んでいた。
見る間に詰められた間合いに困惑しながらも、大蛇が尾の先端をしならせる。
が、流石にここまで距離を詰められると、胴体での迎撃もままならない。
無理な体勢から放つ、そのためか、ひどく中途半端な一撃であった。
それでも、長大な大蛇の尾が生む速度は大気を切り裂き、衝撃波の刃を生み出す。
矮小な
大蛇はそう確信した。
――だから、
朱金の描く軌跡が、まるで抵抗が無いかのごとく大蛇の尾を斬り飛ばした時、大蛇の思考は混乱に呑み込まれた。
そして、
―――
次いで生まれたその身すら灼かんと襲ってくる激痛に、まるで子供のように哭き叫ぶ。
だから、哭き叫びながらも、身体を癒さんとすぐさま大蛇は行動を起こした。
先刻に厳次が看破した通り、大蛇の正体は鬼火の群体である。
だが、何故か尾はもとに戻る様子を見せなかった。
それどころか、ちりちりと尾の断面から鬼火が散ってゆく。
その現実に混乱しながらも、大蛇はこれを成した晶に視線を戻した。
晶は輝く大剣を振り抜いた姿勢のまま、俯いて表情を見せていない。
――眼中に無いと云いたいのか!!
痛みに勝る屈辱に、大蛇の眼差しが
尾を斬られた怒りのままに、大蛇は口腔に己が持ちうる最大濃度の瘴気を詰め込んだ。
そして、晶に毒の炎を吐きつけるべく口を大きく開けて、
――それが、大蛇の最後の思考となった。
大蛇よりも一息早く晶が動く。
朱金に逆巻く灼塔が、大蛇を呑み込み、雲一つない夜天を
―――
強大な力の奔流に、なす術なく一瞬で大蛇が消滅する。
大蛇が遺せたのは、末期の一息に似たかすれた哭き声だけであった。
煌々と放たれた
莫大な力の発露と共に生まれたはずの衝撃と爆音は、終わりなく立ち昇る神気に呑まれて消えたのだ。
後に残ったのは朱金に燃え盛る灼塔と、上昇気流すら吞み込む熱量の摩擦が起てる、
晶の放った
その灼塔に呑まれたが最後、いかなる
独特の化鳥の啼き声故に、その
喜怒哀楽のどれにも当てはまらない複雑な感情が、晶の心を握りしめる。
感情に起因する純粋な衝動が胸を衝き、声にならない声が呼気となって喉から漏れた。
朱金の輝きに祝福を受け、自身が生み出した炎に照り返されて、遠のく意識の中、晶は声も無く少し泣いた。
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