Layer40 入れ替わり

「ちょっと八雲君! あたし、玉宮の体が自分の体だと錯覚するほどバカじゃないよ!」


 八雲の錯覚という言葉に反応して姫石が心外だと言うように声をあげた。

 姫石がバカかどうかはさておき、俺だって他人の体を自分の体だと錯覚するほどバカではない。

 というか、バカとか関係なくそんな錯覚は起こり得るのか?


「いや、人間の脳は高性能の割りには変なところで性能が著しく低下するんだ」


「まるで先輩みたいですね」


 八雲に対して的確に痛いところを突くようなことを立花が相変わらずのニコニコとした表情で言った。

 なんだろう……姫石も姫石で怖いけど、立花も立花で違うベクトルで怖いかもしれない。


「……立花後輩、それは褒め言葉として受け取っておこう」


 八雲は苦虫を嚙み潰したような顔で言った。

 やっぱり、八雲に対抗できるのは立花しかいないな。


「人間の脳が案外ポンコツだとしても、まさか他人の体を自分の体だと錯覚するほどではないだろう?」


「その、まさかだ」


「またまた~八雲君もそんな冗談言ったりするんだ~」


「冗談ではないぞ」


「……え、本当なの?」


 八雲の表情と声のトーンから察した姫石が驚いたように言った。


「ラバーハンド錯覚を使ったショート動画を最近見たことはないか? 偽物の手を見せ、見えないようにした本物の手と偽物の手を同時に触って二つの手の感覚が共有していると思わせた後で、偽物の手を思い切りハンマーなどで叩くと本当は叩かれていないのに痛がってしまうという内容の動画だ」


「あ、そういうのあたし見たことある!」


「私もそういった動画を最近見ましたね」


 姫石と立花が見たことがあったようですぐに反応した。

 俺も見たことがあるような気はするが最近だったかどうかはわからない。


「けれど、ああいう感じの動画って大袈裟にリアクションしてるだけじゃないのか?」


「大袈裟にリアクションをしている面もあるだろうが嘘というわけではない。証拠にラバーハンド錯覚を利用した実験結果もいくつかある」


「そうなのか。偽物とわかっているのに叩かれたと錯覚するなんて、人間の脳は思っていたよりも騙されやすいんだな」


「まぁ、たしかにそうだな」


 俺と八雲は小さく笑った。


「二人で良い感じの雰囲気のところ悪いんだけど、つまりどういうこと?」


 姫石が語弊がある言い方で聞いてきた。

 あと、何でちょっとむくれてるんだ?


「あぁ、すまない。つまりだな、ラバーハンド錯覚を昇華すると玉宮香六と姫石華が入れ替わった現象になるというわけだ」


「ショッカー?」


 姫石……それは仮面を被ってバイクに乗る人が出てくる話の敵役の名前だぞ。


「はぁ……要するに偽物の手を本物の手だと錯覚するラバーハンド錯覚が発展すると、他人の体が自分の体だと錯覚するという俺達の入れ替わりのような現象が起こるということだろう。こんな感じであってるよな、八雲?」


「あぁ、構わない」


 どうやら俺の解釈は間違っていなかったようだ。


「あ~そういうことね。玉宮ってかみ砕いて説明するの上手なんじゃない?」


「そうか? 別に普通だと思うぞ」


「私も上手だと思います」


 姫石だけでなく立花も同じことを言ってきた。

 立花もそう言うなら上手なのかもしれない。

 思わぬところで自分の長所を発見することができた。


「立花がそう言うなら、そうかもしれないな」


「あー! 何で歩乃架ちゃんが言うと信用するわけ!? あたしが言っても信用しなかったのに!」


「俺は姫石のことを信用してないわけではないぞ。このことに関しては姫石に言われるよりも立花に言われた方がその……説得力があるというか……な?」


 俺は同意してもらうように目で八雲に助け舟を頼んだ。


「どちらも説得力はあまり無いと思うぞ」


 八雲から出されてきたのは泥船という助け舟だった。


 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 数分間の間、俺は姫石から、八雲は立花から猛烈な抗議を受けていた。

 ほとぼりが冷めたところで、また話は続けられることとなった。


「ラバーハンド錯覚を発展させたものが俺達に起こった入れ替わりという現象だっていうのは理解できた。けど、どうしても手に対しての錯覚と体に対しての錯覚を同一直線上に考えるのは話が飛躍し過ぎていると思うんだが」


 手だけならまだわかる。

 視覚と触覚の錯覚だけだからだ。

 しかし、体となると話は変わってくる。

 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、さらに意識までもが錯覚していなければならないはずだ。


「そんなことはない。ラバーハンド錯覚の他にもこんな実験結果がある。スウェーデンのカロリンスカ研究所というところの研究チームが特殊なヘッドセットを使用して仮想的に体を入れ替える実験を行っている。実験に参加した友人同士のペア33組には特殊なヘッドセットを装着させた。ヘッドセットの視界は自分のものではなく、ペアの友人が装着するヘッドセットから送信されたもので参加者はヘッドセットの視界を通して自分と友人が入れ替わったかのような感覚に陥る」


 八雲は俺の疑問を否定して、もう一つの根拠を提示してきた。


「また、棒の先に球体が付いた道具を使い、自分の体に球が触れるタイミングと視界に映る友人の体に球が触れるタイミングが一致することで、より体の入れ替わりを強く感じさせた」


「ラバーハンド錯覚の時とやっていることはあまり変わらないな」


 俺の合いの手に八雲は頷いた。


「だが、錯覚の度合いが違う」


 そう言って八雲は続けた。


「今度は、棒の先に球体が付いた道具ではなく小道具のナイフを友人の体に近づけて脅した。すると、自分の体がナイフで脅されていないにも関わらず冷や汗をかくなどの反応を示した。さらに、参加者には実験の前に口数や陽気さ、独立性、自信などの特性に基づいて『自分自身の性格』と『ペアとなった友人の性格』について回答させた。そして、入れ替わりの実験中に『自分自身の性格』について質問すると、『ペアとなった友人の性格』に類似したものとなった。この実験はわずか数分しか行われていない。それでも、ナイフを近づけられたことによる体の反応や自己認識の変化が示唆されるほどの錯覚をしていたことになる」


「数分の錯覚でそこまでなるのか……」


 八雲の話を聞いて俺は納得せざるを得なかった。


「入れ替わりが錯覚っていうのはなんとなくわかったけど、そしたらあたし達は何で入れ替わったって錯覚することになったの?」


 姫石が鋭い質問をした。

 姫石は何気にいい質問をするな。


「いい質問だな」


 八雲も俺と同じことを思ったらしい。


「そこで、入れ替わった状況が関係してくる。要素は三つ。至近距離での強い衝撃が伴う接触、眼内閃光、静電気だ」


「静電気ですか?」


 立花が首をちょこんとかしげた。


「眼内閃光とかの話はこの前聞いたけど、静電気の話なんかしてたっけ?」


 姫石も首をちょこんと傾げた。

 いつもの姫石がやるなら問題はないが、俺の見た目の時にそれをやるのはやめてくれ。

 ……こんなツッコミももうしなくなるのだろうか。


「あぁ、それは玉宮が伝えてくれてな」


「え? そんなことあったの?」


 何も知らない姫石が俺の方を見て聞いてきた。


「まぁな。俺が服渡しに姫石の家に行った時に勝手にどっか行ったことがあっただろ? その時、八雲に静電気について伝えに行ってたんだよ」


「あー! あの時ね。そういえば玉宮がどっかに行く前、静電気起こしてたよね?」


 姫石が思い出したかのように言った。


「よく覚えてたな。そう、それがきっかけで俺と姫石がぶつかった時に『ゴッン』という音と一緒に『バチッ』という音がしたのを思い出したんだよ。それで、もしかしたら静電気が入れ替わりに何か関係しているんじゃないかと思って八雲に大急ぎで伝えに行ったってわけだ」


「なるほどね。だったら最初っからそう言いなさいよ!」


 姫石が軽く小突いてきた。


「あぁ、悪かったな」


 小突かれた俺は謝りながら、さっきからずっと異様にニコニコとしている立花に質問した。


「何か言いたげな顔だな、立花」


「えっ、あっいえ。そういうわけではないんですけど……玉宮先輩達が家に通うような仲になっていたとは知らなかったので」


 顔を少し赤らめながら立花が言った。

 この子はもしかすると何でもかんでも恋愛に持っていく恋愛脳なのかもしれないという疑念が俺の頭をよぎった。


「え!? なんで歩乃架ちゃんが玉宮の家にあたしがんむむむ!」


 咄嗟の判断で俺は姫石の口を塞いだ。

 なんとなく姫石が余計なことを言いそうだったので身構えていて良かった。

 案の定、火に油を注ぐようなことを姫石は口走った。


「八雲、気にしないで話を進めてくれ」


 立花は姫石が何を言おうとしたのか気になっていたようだが、追及しようとはしてこなかった。


「わかった。まず最初に、至近距離での強い衝撃が伴う接触だが、これは二人の五感の共有が関係している。玉宮香六と姫石華が接触した箇所は額のあたりであっているな?」


「うん、そうだよ」


 俺が塞いでいた口を解放すると姫石が答えた。


「となると、お互いの目が至近距離にあったせいで視界は暗くて良く見えなかったはずだ」


「たしかに、玉宮にぶつかる直前は一瞬暗かったかも」


「俺も直前は暗かったな。その後、すぐに真っ白になったが」


 俺と姫石は互いに八雲の質問に同意した。


「そして、周りの音や匂い、口の中の味、ぶつかった時の衝撃も一緒だったはずだ」


「う~ん、味は玉宮と一緒だったかどうかはわかんないや」


 俺も姫石と同じ意見だ。

 音や匂いはあれだけ至近距離にいたら俺も姫石も感じ方は一緒だろう。

 それに衝撃だって、ぶつかったところは二人とも同じ場所だから大差ないだろう。

 けれども、味覚まで同じかと聞かれれば首を傾げざるを得ない。


「玉宮香六と姫石華は入れ替わる前の約一時間以内に何か口にしたか?」


「いや、あたしは何も食べたり飲んだりしてないよ」


「俺もだ」


 八雲の質問に俺と姫石は首を横に振った。


「よし、なら問題ない。人間が生成する唾液の成分は誰しもほとんど同じだ。入れ替わる前の約一時間以内に何も口にしていないのなら、それ以前に口にしていたものの味はもう残っておらず味覚として感じられるとしたら自分の唾液しかない。ならば、玉宮香六と姫石華の味覚は一致している。つまり、二人の五感を入れ替えたとしても感じているものは一致しているため感覚を共有していることになり、ラバーハンド錯覚やカロリンスカ研究所の実験と同じ条件がそろったということだ」


「なるほど……でも、それだと入れ替わったと錯覚するほどではないんじゃないのか?」


 このままではラバーハンド錯覚やカロリンスカ研究所の実験より少し強いぐらいの錯覚にしかならない。


「その通りだ。入れ替わったと錯覚するように発展させた要素が眼内閃光と静電気だ。玉宮香六と姫石華接触した箇所は額のあたり、前頭葉にあたいする場所だ。そして、二人は眼内閃光を起こした。だが、眼内閃光が起こるには前頭葉とは反対にある後頭葉が混乱するほどのエネルギーが伝達される必要がある。その媒介となったのが静電気だ。静電気を媒介とすることでエネルギー伝達時に生じるエネルギー減少を限りなくゼロに近い形で伝達でき、接触箇所の反対にある後頭葉を混乱させるほどのエネルギーが伝達されたわけだ。よって、眼内閃光が起きて脳がシグナルを間違って解釈し、星が飛んだように視界がチカチカするという存在しないものが見えることになる」


「眼内閃光で起こる視界のチカチカは幻覚ってことなのか?」


 存在しないものが見えるという説明に違和感を抱いた俺は八雲に聞いてみた。

 星が飛んだ経験がある人は決して少ない数ではない。

 誰も彼もがそんな簡単に幻覚を見るなんてことがあるのだろうか。


「いや、完全な幻覚とは全く同じではない。現実を認識しようとする脳が混乱している状態だということだ」


「あくまで幻覚ではなく、現実を上手く認識できていないだけということか?」


 俺がかみ砕いて言うと、姫石も立花もそういうことかと合点がいったようだった。


「そうだ。現実を上手く認識できず脳が混乱している状態に二人の間で接触箇所から静電気が発生した。人間が感じ取れる静電気の電圧は最も低くても1㎸以上、軽い痛みを感じる静電気の電圧は3㎸程度。最も低くい1㎸で考えたとしても脳でやりとりされている電気信号の電圧は50㎶程度しかなく、静電気は脳の電気信号よりも少なくとも2000万倍の電圧がある。それだけの電圧が脳の電気信号に介入したとなると、たった今までやり取りされていた電気信号は一瞬にして全て消失するだろう。といっても、時間としては約0.1~0.2ミリ秒程度だ。すぐに電気信号は復活するため脳機能にはたいした影響はない。しかし、この電気信号の復活の時に玉宮香六と姫石華の間には大きな問題が起こった。ここが今回の入れ替わりという現象の肝だ」


「その電気信号の復活の時に起きた大きな問題のせいで俺と姫石は……入れ替わったんだな?」


「あぁ、そうだ」


 八雲の短い肯定を聞き、ここにいる八雲以外の全員がゴクリと唾を飲んだのを感じた。


「脳でたった今までやり取りされていた電気信号は静電気によって一瞬にして全て消失した。また、静電気は玉宮香六と姫石華の電気信号のパターンを共有するための回路のような役割にもなってしまった。同時に、脳は現実を上手く認識できずに混乱している。脳が現実を上手く認識できない状態で、脳はすぐに電気信号を復活させようとする。そんな状態で電気信号を復活させようとしたことにより、玉宮香六の脳では姫石華の電気信号のパターンを誤って復活させてしまい、姫石華の脳では玉宮香六の電気信号のパターンを誤って復活させてしまった。このことによって玉宮香六と姫石華の電気信号のパターン、いわば意識が入れ替わってしまったということになる」


「「「……」」」


 八雲の話を聞き終わった俺達はしばらく黙っていた。

 きっと各々で八雲の話を頭の中で整理し、理解しようとし、自分の考えを巡らせているのだろう。

 俺も八雲の話の全てを理解できたわけではないが、理論としては筋が通っている気がする。

 俺の脳が自分の意識を姫石の意識だと錯覚し、自分の体から得られる視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を姫石の意識が感じていると錯覚した状態。

 これは姫石にも同じことが言える。


「俺達は最初から入れ替わっていたんじゃなくて、自分の意識が相手の意識であると脳が錯覚していたということか……それが俺達の今の本当の姿ってことだな?」


「厳密に言うと『錯覚』という表現の仕方も微妙なところだな。実際に玉宮香六の脳では姫石華の電気信号のパターンが実行されているわけだからな。まぁ、『錯覚』と表現した方がわかりやすいからな。その解釈でも間違ってはいないぞ」


 正確ではないにしろ、俺の解釈は間違ってはいないようだ。


「一つ疑問なんだが、記憶の入れ替わりって起きているのか? 俺も姫石も入れ替わる以前の自分の記憶をちゃんと持っている。意識が入れ替わったと錯覚しただけで記憶まで入れ替わるものなのか?」


意識と記憶の関係はよく知らないが、意識に記憶が付随していないとしたら俺が今持っている記憶はどこから来るのだろうか。


「結論から言えば、それは意識である電気信号のパターンに記憶が記録されているため入れ替わっていることになる。記憶というものはニューロンの周りにある樹状突起や軸索の繋がりが太くなったり、機能を高めたり、新しくできたりすることで形成されるニューロンネットワークのことだ。そして、そのニューロンネットワークを作るための指示を出しているのが意識である電気信号のパターンだ。よって、電気信号のパターンが他者の脳で実行されれば自動的に記憶も入れ替わったことになる」


なるほど。

それなら入れ替わる前の自分の記憶があってもおかしくはないか。


「意識そのものが錯覚している。これだけ聞くと荒唐無稽な話に聞こえますけど、先輩の説明を聞くとありえない話ではないですね」


 立花が八雲のこれまでの説明に納得したように言った。


「あたしも難しいことはよくわかんなかったけど、あたしと玉宮がどんな状態なのかはなんとなくだけどわかったよ。だから、あたし達が元に戻るには……どうすればいいの?」


 姫石は本当になんとなくでしか八雲の説明をわかっていないようだった。

 姫石の質問に八雲が答えた。


「玉宮香六と姫石華の電気信号のパターンを元に戻すことができれば入れ替わりという現象は解消される。そして、これからそれをこの科学室で行う」


 そう言った八雲は無表情だったのだが、俺にはなぜか笑っているように見えた。

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