Layer41.0 五感
「玉宮香六と姫石華にはこれを付けてもらう」
そう言った八雲が手に持っていたのは少し変わった形をした二つのVRヘッドセットだった。
VRヘッドセットの正面には小型のカメラが付いており、小さな角のようになっていた。
赤かったら、シャ〇専用機だな。
「これはカロリンスカ研究所の実験で使われていた特殊なヘッドセットの代替品だ。代替品と言っても効果にたいした違いはない。仕組みは同じだからな。VRヘッドセットの正面に付属している小型のカメラの映像はもう一方のVRヘッドセットの映像として送られる。逆も然りだ」
八雲は小型のカメラを指で指してから、もう一方のVRヘッドセットの本体をトントンと軽く叩いた。
「本当だ〜ちゃんと視界が入れ替わってる!」
姫石がVRヘッドセットを覗き込みながら関心したように言った。
「先輩ってこんな高そうなVRヘッドセットを二台も持ってましたっけ?」
「いや、これは借り物だ」
「え!? 借り物なんですか!? いいんですか? 勝手にカメラとか付けて改造してますけど? 後で持ち主の人に怒られても知りませんよ!」
借り物と聞いた立花が頭を抱えるような仕草をする。
「勝手にではない。……まぁ、いろいろあってな。借主からは少しなら改造しても良いという許可は下りている」
「それなら、安心ですね」
立花がほっと胸をなでおろした。
「玉宮香六と姫石華の入れ替わりを解消するためには、入れ替わった時の条件をそろえる必要がある。これから行う実験は、それらの条件をそろえて入れ替わった時の状況を再現するものだ」
「それって、よくドラマとかで頭をぶつけて記憶を無くした人がもう一度同じように頭をぶつけたら記憶が戻るっていうのと同じこと?」
なかなかに良い例えを姫石がした。
「あぁ、要はそういうことだ。そもそも実験とは、条件を同じにすれば、同じ現象が同一の結果を出し再現性があることを証明することだ。起こった現象を再現性があると証明することは科学の基本だ」
ドラマの内容も伊達じゃないらしい。
「記憶を取り戻すために同じように頭をぶつけて記憶が戻ることも再現性があるってことなんですね」
立花が納得するように言った。
「玉宮がおでこをぶつけてきたのも間違いじゃなかったんだ」
姫石がボソッと言った。
「あ、そうだ。姫石、お前、俺がおでこをぶつけた時にこんなんで元に戻るわけないって言ってたよな?」
「あれ? そうだっけ? わすれちゃった。そんなことよりも早く入れ替わりの再現をして元に戻ろうよ」
白々しい嘘をつきやがって。
姫石の記憶は随分と都合の良いものらしい。
「わかった、ちょっとこっちに来てくれ」
そう言って八雲は俺達の向かって反対にあった白い有孔ボードで作られた二つの部屋の方へと歩いて行った。
俺達も八雲に連れられて白い有孔ボードで作られた二つの部屋の方へと近づいた。
「ここに作られている二つの部屋は大きさから物の配置まで可能な限り同じにしてある。そのためVRヘッドセットの映像は、玉宮香六から送られてくる映像も、姫石華から送られてくる映像も同じ景色にすることができる」
だから、二つの部屋はまるでコピーされかのように同じだったのか。
最初に化学室に入って見た時は何にどうやって使うのが見当もつかなかったが、そういうことだったのか。
「これで視覚の共有ができるわけですね」
立花が言い、八雲が頷く。
「嗅覚は現状のままで良いだろう。この程度の距離ならばたいした感覚の違いはない。強い匂いが一方にだけ起きなければの話だが、その心配も然程いらないだろう」
八雲が言っている一方にだけ強い匂いっていうのは、もしかしておならのことだろうか?
「聴覚はこのスピーカーで共有させる。音の反響は二つの部屋のどちらも同じようになるようにしてある」
「ちなみに、どんな音が出るの?」
姫石は音の反響なんかよりも音そのものに興味があるらしい。
「一応、学校の環境音にしてある。入れ替わった時に共有されていた音と同じ音でなくても問題はないのだが、念のために入れ替わった時の音に近い方が良いと思ってな」
「学校の環境音なんてあるんだ。初めて知った!」
これは俺も知らなかったな。
環境音のことは知っていたが、学校の環境音というものまであるとはな。
環境音は想像以上に奥が深いのかもしれない。
ところで、学校の環境音なんてどうやって録音しているのだろうか。
もしかすると、生徒か学校関係者の誰かがこっそり録音していたりな。
いや、それだとただの盗聴か。
「触覚の共有は実験中に玉宮香六と姫石華に同時にガラス棒で触れることによって共有させる。これもカロリンスカ研究所の実験とやり方は同じだ」
視覚、嗅覚、聴覚、触覚とくると残るは味覚か。
「そして味覚だが、まぁ、あれでいいだろう」
そう言って八雲は化学準備室に入っていった。
少しすると化学準備室の中からバタンと冷蔵庫の扉を閉めるような音がした。
たぶん、授業で使う実験の薬品か何かを入れるための冷蔵庫なのだろう。
……うん?
実験の薬品か何かが入っている冷蔵庫から八雲は何を取り出したんだ?
味覚の共有をするために使う薬品ってなんだよ!
内心、若干焦っていると八雲が白いトレーを持って化学準備室から出てきた。
白いトレーには何が入っているのかはわからないが、ビーカーが四つ乗っかっていた。
あれ?
まさかこれは……
「お〜八雲君のコーヒーだ! いや〜ちょうどたいやきくん食べて、何か飲みたいなって思ってとこなんだよね。八雲君、わかってるね」
八雲が持ってきた四つのビーカーの中には例のインスタントコーヒーが入っていた。
「別にそういう意図があったわけではないのだが、喜んでくれたなら何よりだ。今日は昨日より少し気温が高いからな。冷蔵庫で冷やして、アイスコーヒーにしてみたんだが構わないか?」
「全然全然、大丈夫! むしろ、そっちの方が良いくらい! 化学準備室に冷蔵庫なんてあるんだね。学校に冷蔵庫がある場所なんて保健室くらいにしかないと思ってたよ」
「実験で使う薬品などを保管するために冷蔵庫が必要になる時があるんだ。そのため、いつでも使えるように科学準備室に設置してある」
「そうなんだ~なるほどね」
やはり、実験で使う薬品が入っている冷蔵庫から取り出していたのか。
ここにあるコーヒーは薬品と一緒に入っていたのか。
さすがに、実験で使うようなよくわからない薬品と一緒に入っていったコーヒーを美味しそうにはどうしても見えないんだが。
「どうした、玉宮香六? 浮かない顔をしているな。安心していい。今回はちゃんとこの通り人数分のビーカーを用意している。前回のように三角フラスコで飲むことはない。あれは飲みづらかっただろう。すまなかったな」
俺の様子を見た八雲が何を思ったのか、四つのビーカーを見せつけるように言ってきた。
何も安心できない。
問題点はそこじゃない。
人数分のビーカーがあるかどうかはどうでもいい。
問題なのはコーヒーが普通のコップに入っていないことだ。
なぜ、誰もそこに疑問を抱かないんだ。
俺の価値感覚は間違っているのか?
「大丈夫だ。気にしないでくれ」
言いたいことはたくさんあったが、俺はそれ以上何も言わなかった。
「あ、私ミルクとガムシロップ持って来ますね。あと、何か混ぜる物も必要ですよね」
そう言って、立花が化学準備室に入っていった。
なぜ化学準備室にミルクやガムシロップがあるのかを俺は今さらツッコむ気にもなれない。
あと、立花のテンションが少し上がっている気がするんだが。
「可能な限り個々の味に差が出ないようにしたいため必要ない。いや、立花後輩は味覚を共有させる必要がないため好きに使ってくれて構わない。混ぜる物なら、ここにガラス棒が二つあるため問題ない」
八雲、そのガラス棒は触覚を共有するために実験で使うものではもちろん無いよな?
「わかりました。先輩達が使えないのなら私も遠慮しておきます」
自分だけミルクとガムシロップを使うのは気が引けたのか、立花は八雲の提案を断った。
そういえば、立花は苦いのが苦手なはずだがミルクとガムシロップが無くても大丈夫なのだろうか。
「立花後輩、無理しなくていいぞ。何も入れないのはさすがに飲めないだろ?」
「いえ、そんなことありません! 先輩が淹れてくれたコーヒーだったら何だって飲めます!」
「そ、そうか。なら良いんだが」
立花の言葉に気圧された八雲が言った。
「個々の味に差が出ないようするっていうのは、コーヒーで俺と姫石の味覚を同じにして共有するってことか?」
「そうだ。同一のコーヒーを同時に飲めば時間を気にせずに実験を行えるからな。ここまでが、五感を共有する条件をクリアする方法だ」
八雲は一息ついたように言った。
「ねぇ、せっかく冷やしたんだし温くなる前に早く飲んじゃおうよ」
たい焼きを食べて、八雲の説明よりも飲み物が欲しくなっていた姫石が待ちきれないように言った。
「そうですね。早く飲んじゃいましょうか」
立花も姫石に同調した。
それよりも、立花は本当にブラックで飲めるのか?
「わかった。コーヒーの量はどれも同じにしてあるから適当に選んでくれ」
俺達はコーヒーの入ったビーカーを手に取った。
立花と八雲も同時に飲む必要がないのに俺達と一緒に飲んでくれるらしい。
「では、私のカウントダウンの合図でゼロになったら同時に一気飲みしてくれ。よし、準備は良さそうだな」
俺達が口元にビーカーを近づけて、すぐにでも飲める状況になっているのを確認してから八雲が言った。
「3、2、1、0!」
合図とともにその場にいた全員が同時にコーヒーを一気飲みした。
一気飲みしたせいか、全員同時に息を漏らした。
「やっぱり、八雲君のコーヒーはおいしいね!」
「ッ! ……苦いのは苦手ですけど先輩のコーヒーは美味しいです!」
傍から見れば我慢しているようにしか見えない立花だったが、それでも美味しいと八雲に伝える。
「立花後輩、あまり無理するなよ」
八雲も立花が我慢してるとわかり、心配の声を掛けた。
「はい、ありがとうございます」
元に戻ってきた立花がもう大丈夫だと言うように言った。
喉元過ぎれば何とやらだな。
それにしても、
「やっぱり、旨いんだよな」
そう言ってしまうほど八雲のコーヒーは、なぜか普通のインスタントコーヒーより旨く感じた。
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