第22話 バステト神の奇跡

 カンビュセスのペルシア軍が間近に迫る中、アキレスとネジムはひと足先にブバスティスに着いていた。

「タミット、もうすぐバステト神殿にゃ」

 ネジムは、眠るように穏やかなタミットの顔を見て涙ぐんだ。

「もうすぐ神殿だ!」

 駆けるアキレスの目の前にバステト神殿が見えてきた。

「何だ!」

「町の人が大勢集まってるにゃ」

 ペルシア軍を恐れながらも、貧しくて行く宛てもなく、まして国外に逃げる財産もない人々が、バステト神に救いをもとめて神殿に集まっていた。

 アキレスは神殿の近くで馬を下り、人々を掻き分け神殿の中に入った。それから礼拝堂の高い台に上ると集まっている人々に大声で叫んだ。

「ここにいては危険だ! ペルシア軍がもうじき来る。早くこの町から逃げるんだ!」

 アキレスの言葉に人々は怯え絶望した。

「わたしらはどこにも行く当てがないのです」

 群衆の中の貧しい身なりの老人が声をあげた。

「わたしたちはバステト様におすがりするしかありません」

 乳飲み児を抱きかかえた女が声を震わせる。

 アキレスは沈黙した。

 その時、アキレスが腰にぶら下げているタミットを入れた袋が輝きはじめた。

「アキレス、袋が金色に輝いているにゃ!」

 アキレスの背中にしがみついているネジムが叫んだ。

「いったいどういうことだ」

 アキレスは腰から皮袋をおろし口を広げた。

 すると中からタミットが金色に輝きながら歩いて出てきた。

「タミット!」

 ネジムはタミットが生き返ったと思って大喜びした。

「タミット!」

 ところがネジムがいくらタミットを呼んでも返事は返ってこない。

「心して聞きなさい」

 突然、タミットが金色の光を放ちながら言葉を発した。

 バステト神がタミットの肉体を使って語り始めたのだ。

「バステト神様だ!」

 ざわめく礼拝堂が一瞬にして静まり返った。

 タミットは金色の光を発しながらバステト神像の頭の上まで登り、不安と恐怖に怯える人々を見渡した。

 タミットは繰り返した。

「心して聞きなさい」

 人々は皆、跪き、金色に光を発するタミットを見上げた。

「愛に生きなさい。ペルシアの軍隊はこの神殿に火をかけ、町を焼き払おうとするでしょう。ですが、あなたがたが愛に生きる決意をし、神に全てを委ねる決意をするならば、わたしはいつもあなたがたと共にいます」

 バステト神の愛の言葉に人々は涙した。

「これからあなたがたは試練の時をむかえます。いかなる時も愛に生きなさい。怒りにも憎しみにも悲しみにも愛をもって臨みなさい。あなたがたが愛に生きるかぎり、わたしはいつもあなたがたを守ります」

 そこまで話すとタミットは沈黙し金色の光は消えた。

 タミットの体はバステト神像の頭から、まるで天使の羽根に包まれているように、フワリフワリと落ちてきてネジムの足元に眠るように横たわった。

「タミット!」

 ネジムは目の前に横たわるタミットの顔を舐めたり体を手で揺すったりした。けれどもタミットの体は冷たいままピクリともしなかった。

 その時、礼拝堂に家族と一緒に来ていたレイラが「ネジム!」と人々を掻き分けてやって来た。

「ネジム! タミットに命の水を飲ませるの! 急いで!」

「そうだった、命の水にゃ」

「父さん、母さん、タミットに地下の命の水を飲ませに行って来る」

 レイラは後から追いかけてきたムクターとマブルーカを振り向いた。

「父さん達はここにいるから」

「無理をしないで」

 ムクターとマブルーカがレイラを見つめた。

「ここは俺が守る」

 アキレスはそう言って、レイラとネジムに早く行けと目で合図した。

「アキレス! 戦っちゃダメだよ。神様の言葉を信じて」

 レイラはアキレスのところに駆け寄り彼の手を握り締めた。

「わかった。奴らがこの神殿の皆に危害を加えない限り俺は何もしない」

「ありがとう」

 レイラはタミットを抱いて走りかけ、立ち止まると、もう一度アキレスの方を振り返った。するとアキレスは(信じろ)と無言で頷いた。

 レイラは安心して微笑み、それからすぐにネジムと神殿の地下の入り口へと走った。


 ついにブバスティスの町にペルシア王カンビュセスの恐怖の軍団が侵攻した。

 恐怖の軍団は町中のいたるところを放火し、略奪、虐殺の限りを尽くしたのだ。

 エジプト市民は恐怖に怯えながら逃げ惑い町はパニックに陥った。

 男達は矢の標的にされた。

 女達は辱められた。

 子供たちは長槍で串刺しにされた。

 バステト神殿に避難した大勢の人々は恐怖に怯え、ひたすらバステト神に祈りを捧げた。

 神殿の建物の中にまで物が焼ける臭いが立ち込めてきた。

 人々は大きく動揺し騒ぎ始めた。

 子供達は泣き叫び、女達はすすり泣き、恐怖で錯乱した者達は外に飛び出したまま二度と帰って来ることはなかった。

 やがて地響きとともにペルシアの大軍団が神殿の周囲を取り囲むのを感じると、人々は死が近いのを悟り礼拝堂の中は急に静まりかえった。

 人々は跪き、あるいは手を取り合い抱き合いながら審判の時を待った。


 命の水を求めて神殿の奥に走ったネジムとレイラ。

 二人が地下室の入り口に近づいたとき、大神官アメンナクテが二人の前に立ちはだかった。

「立ち入り禁止だ。さっさと出でいけ!」

 大神官アメンナクテの裏切りを知っているネジムは「ガルルル」声を荒げ激しく威嚇した。

「ダメよ、ネジム」

 制止するレイラを振り切ってネジムは大神官アメンナクテにいきなり飛び掛かった。

「わぁ、なにをする!」

 アメンナクテは鋭い爪で頬を引っかかれた。

「ガルルル」

 ネジムは顔を庇ってよろめく大神官に真正面からもう一度飛びかかり、爪を立ててアメンナクテの黒い服をぼろぼろにした。

「ダメ! ネジム」

 レイラがネジムを制止しようとした時、タミットを入れた袋の口が少し開いた。

「あっ!」

 レイラが慌てて袋の口を握りしめる。

「白猫をかえせ!」

 猫がタミットだと気づいた大神官アメンナクテは、人が変わったような恐ろしい形相でレイラの腕を鷲掴みにし、力ずくで袋を取り上げようとした。

「いや!」

 レイラは必死で抵抗したがアメンナクテは容赦しない。

「小娘! おとなしくしろ!」

 大神官は老人とは思えないほど強い力でレイラを羽交い絞めにした。

「はなして!」

 レイラは激しく抵抗したが次第に息が出来なくなってきた。

「ガルルル」

 怒り狂ったネジムは爪と牙を剥きだし大神官の背中に飛び掛かり、アメンナクテの耳に噛みついた。

「ギャアアア」

 顔面が血まみれになった大神官はレイラを突き倒し、両手で顔を押さえネジムを殺そうと大暴れした。

「シャアアア」

 ネジムは襲い来るアメンナクテにもう一度飛びかかり、今度は大神官の右腕に穴が開くほど深く噛み付いた。

 猫といってもネジムはリビアヤマネコだ怒らせるとハンパじゃすまない。

「ぎゃあああ! こ、このクソ猫が!」

 大神官アメンナクテは噛みついたネジムを振り落とそうとしたが、すればするほど牙が骨にグイグイ食い込んだ。

「はなせ!」

 激痛で青ざめた大神官は近くに大きな石柱を見つけると、

「クソ猫!」

 ネジムが噛みついている自分の右腕を大きく振り上げた。

「やめて!」

 レイラが悲痛に叫ぶ。

「死ね!」

 大神官はニタリと笑い激く右腕を石柱に叩き付けた。

 ネジムは素早くアメンナクテの腕を放した。

 バキッ!

 勢い余り、アメンナクテは自分の右腕を石柱に激しく叩き付けてしまった。

「ぎゃああああ」

 大神官は悲鳴を上げ、よろめきながら砕けた右腕を左手で庇った。

「ガルルルル」

 ネジムは大神官アメンナクテを威嚇し再び飛び掛かろうと構えたが「ど、どうせ貴様等はペルシア軍から皆殺しにされるんだ」大神官アメンナクテはすてぜりふを吐きながら逃げ出した。

「レイラちゃん急ぐにゃ」

 ネジムは鼻先でレイラの脛を二、三度強く突っつく。

「うん!」

 二人は地下道のドアを開け、オシリスの地下神殿に通じる階段を駆け下りた。


 神殿から逃げ出した大神官アメンナクテは砕けてぶら下がった片腕を押さえながら、バステト神殿に火をかけようとするペルシア王カンビュセスにすがりついた。

「カンビュセス様! お待ちしておりました」

「アメンナクテよくやった」

「ありがたきお言葉」

 アメンナクテは媚びを売る。

「もう用は済んだ。邪魔だどけ!」

 カンビュセスはアメンナクテを一瞥した。

「お待ちください大王カンビュセス様!」

 アメンナクテは大王の前に回り込んで跪く。

「なんだアメンナクテ」

 カンビュセスは大神官を睨みつける。

「約束通り私をエジプト王にしてくださいますよね」

 アメンナクテは恭しくカンビュセスに尋ねた。

「約束?」

 カンビュセスはアメンナクテを睨みつけ冷笑した。

「そ、そんな! あなた様はわたしが白猫を捕まえたらエジプト王にしてやると約束されたではありませんか!」

 アメンナクテはペルシア王を見上げる。

「そんな約束をしたおぼえはない!」

 カンビュセスは冷たい眼差しでこたえる。

「そ、そんな馬鹿な! 約束が違う」

「邪魔だどけ」

 兵士が長槍の反対側でアメンなくてを突き払おうとした。

「大王のくせにあなたは大嘘つきだ!」

 逆上したアメンナクテはカンビュセスを責めた。

「うるさい!」

 カンビュセスはボールでも蹴るようにアメンナクテを足蹴にした。

「ゲホッ」

 呻き声をあげ大神官は転がり砂にまみれて悶え苦しんだ。

「二度と俺の前に姿をあらわすな!」

 カンビュセスは吐き捨てるようにいって、将兵たちと供に神殿の正門に向かった。

「ここが化け猫屋敷か」

 バステト神殿の正門に着いたカンビュセスは蔑むように言った。

 神殿の中から人々の祈りの声が聞こえてきた。

 それを聞いたカンビュセスは正門のバステト神のところまで行き「猫が神だと。胸くそが悪くなる! そんなものは神じゃない!」激しく叫んで腰の剣の柄に手をかけ、力任せにバステト神像の首を切り捨てようとした。

 ところが剣に手をかけた途端「うっ」カンビュセスがどんなに力んでも剣が鞘から抜けない。

「うっ、クソ」

 片手では駄目とばかりに、今度は兵士に鞘を握らせ両手で剣を抜こうとするがびくともしなかった。

「おい! おまえの剣をかせ!」

 それでも懲りずにカンビュセスは側にいたペルシア将軍の剣を借りようしたら「大王様! 剣が鞘から抜けません!」将軍の剣も片手で、あるいは両手で柄を抜くことがだきなかった。まるで剣と鞘が石にでもなったように固まってびくともしないのだ。

「な、なんだと!」

 カンビュセスはそれでも何とかしてバステトの像を壊すべく、今度は槍で突こうとしたら槍は折れ、巨大なハンマーで叩き壊そうとするとハンマーが砕け散った。

 その時急にカンビュセスの息がつまった。

「く、苦しい……」

 カンビュセスの首を見えない力が締め付けた。

「大王様!」

 血相変えて大勢の将兵が駆けつける。

 カンビュセスは喉を両手で押さえながら地面に倒れ悶え苦しみ、死人のように顔が真っ青になった。

「か、神の怒りか……」

 死ぬような苦しみに、ようやくカンビュセスはバステト神の怒りに触れたのだと気づいた。

「も、もうしわけ……、あ、ありません……」

 それでもぐいぐい締め付けられるカンビュセスの首。

「ネ、猫と……、し、神殿……には、……て、を、かけません」

 どんなに謝っても首の締め付けは激しさを増す。

 さらに不気味な濃い霧がペルシア軍を取り囲んだ。

「も、もうしわけ……」

 死の恐怖に慄きながら意識が薄れていく中、カンビュセスは必死になってバステト神に赦しを求めた。そしていよいよ息が止まりそうになった時、突然、首の締め付けから開放された。

「大王様! 大王様!」

 将兵は声を振り絞りカンビュセスに呼びかけた。

 意識を取り戻したカンビュセスはよろめきながら片膝をついて立ち上がり「こ、この神殿と猫には絶対に手をかけるな! 抵抗しない限りエジプトの一般市民にも手をだすな」と厳しく兵士達に命令した。

 バステト神の怒りを恐れたカンビュセスはすぐに神殿から軍隊を引き、ブバスティスの町を逃げるように去っていった。そして、メンフィスのプサムテク三世に降伏を勧告する使者を送った。


 タミットを生き返らせるべく、命の水を求め地下のオシリス神殿に向かったネジムとレイラ。

 二人は地下神殿にたどり着くとすぐにタミットを命の水に浸けた。

「ネジム、オシリスの水を口に含んできて!」

「わかったにゃ!」

 ネジムはレイラにいわれたとおりすぐに泉に行った。そして、水を二、三回舐めて口に含むとまたすぐにタミットのところに戻って来た。

 レイラはタミットの体を祭壇のオシリス像の膝上に寝かせ、「口に含んだ水をタミットの口元に垂らすの」と言って祭壇の上にネジムを載せた。

 ネジムはレイラから言われた通りタミットの口元に顔を近づけ、口に含んだオシリスの水をゆっくり垂らした。

「タミット」

 ネジムはまるで生きているような優しい寝顔のタミットを愛おしそうに見つめる。

「ネジム、次よ」

「にゃー!」

「今度はオシリスの泉に飛び込んで、水を浴びてくるの」

「にゃー!」

「そして水をはねないで、その状態のまますぐにタミットに覆いかぶさるのよ」

「にゃー!」

「最後は一緒にオシリス神様にタミットを生き返らせてくださいと祈るだけ!」

「わかったにゃ」

 ネジムはすぐにオシリスの泉に飛び込み、猫かきしながら泳いで帰ってきた。それからレイラに指示された通り、ずぶ濡れのままタミットを抱きしめるように覆いかぶさった。

 レイラが祭壇の下に跪き頭を下げ二人は祈り始めた。

(オシリス様、どうかタミットを生き返らせて下さい!)

 二人は心の中で繰り返し何度も祈りを捧げた。

 そして二人の愛が無限大に輝いたとき、空気中に光の粒子が雪のようにひらひら舞い降りはじめ、やがてオシリスの地下神殿全体が目も眩むほどの金色の光で満たされた。

 その瞬間、タミットの魂が舞い降り、タミットの体に入ったかと思うと目がパッと開いた。

「タミット!」

 ネジムがタミットの体から飛びのく。

「みゃ……」

 タミットが聞き取れないほど小さく鳴いた。

「タミット!」

「タミットちゃん!」

 ネジムとレイラは祭壇の上に横たわるタミットに必死に呼びかけた。

「みゃー」

 タミットがまた小さく鳴いた。

「タミット!」

 ネジムがタミットの顔をペロペロ舐める。

「ネジム!」

 タミットがすくっと起き上がった。

「タミット!」

 ネジムの声が嬉しさで震える。

「ネジム!」

 タミットもまた愛しいネジムの顔をみて、嬉しさで胸がいっぱいになった。

 ネジムはタミットに抱きつき、二匹の猫はお互いの顔や鼻や口を愛おしそうに何度も何度も舐め合った。

 祭壇の下からレイラが幸せそうな二匹の猫を、涙を浮かべ眺めていたら「よかったな」といつのまに来ていたのか、アキレスがそっとレイラの肩に手をかけた。

「奇跡がおきたの」

 レイラが潤んだ目でアキレスを見上げる。

「礼拝堂でも奇跡がおきたよ」

 アキレスの目が優しく輝く。

「みんな助かったのね!」

 レイラは奇跡がおきたことや、アキレスが戦わないという約束を守ってくれたことがとても嬉しくて目頭が熱くなり、思わずアキレスの胸に顔を埋め涙を流した。

「ペルシア軍は神殿の中に入ることも出来ず、ブバスティスの町から出て行った」

 そんなレイラをアキレスは優しく強く抱きしめる。

「バステト神様が守って下さったのね」

「皆の愛の祈りが神様に届いたんだ」

「よかったわ」

 四人はお互いの顔を笑顔で見合った。それから改めてバステト神とオシリス神に感謝の祈りを捧げた。

 ネジムたちが地下神殿から上がってくると、町の人々は祈ったり喜んだりして生きている幸せをかみ締めていた。

 レイラは礼拝堂の中で、ラモセ夫婦と話しているムクターとマブルーカを見つけ抱きついた。

「父さん、母さん。あたしたち助かったのね」

 レイラは涙が溢れた。

「うん、バステト神様が守ってくださったんだ」

 ムクターはマブルーカとレイラを両腕で強く抱きしめた。

 ネジムとタミットは礼拝堂のバステト神像の上に登り、仲良く寄り添うように座ると、奇跡に感謝し喜び合う人々の姿を嬉しそうに眺めた。

 こうして戦火を逃れたバステト神殿は、その後ペルシアの圧政に苦しむエジプト国民の精神的拠り所となった。

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