第19話 カンビュセス動く
ギリシアの裏切りでエジプトは政治的に孤立し、もはやオリエント世界にエジプトの味方は存在しなかった。それでも誇り高きプサムテク三世は、ギリシア傭兵団頼みのエジプト軍を指揮し対ペルシア戦に備えることにした。
ところがペルシア軍はエジプト軍の予想よりもはるかに早くペルシウムの砦に迫っている情報が入ってきた。
「申し上げます! カンビュセスはアラビアの族長らと同盟を結び、ペルシア軍の駐屯地に大量の水を届けさせているようです」
伝令の情報にプサムテク三世と陸軍参謀アメンは言葉を失った。
「予想より早くペルシア軍がペルシウムに攻めてくる」
プサムテク三世は荒ぶる心を抑え、深く息をした。
「アキレスを呼べ!」
プサムテク三世はそう言うと王の部屋に戻った。
しばらくしてアキレスが王の部屋を訪れると、部屋の中央のテーブルで闘志に目を輝かせながら、防衛上の戦略を錬る若き王プサムテク三世の姿が目に飛び込んできた。
「アキレス! おまえの母国ギリシアはエジプトとの同盟を破棄した」
「存じております」
「もしギリシア軍がペルシア軍と共に我等に弓を引けば、おまえたちは同胞に弓を引くことになるが」
「恐れながら、われ等ギリシア傭兵団は王の家臣でございます。たとえ母国と戦になろうとも、われ等はエジプト軍として王と生死を共にする覚悟でございます」
プサムテク三世は目頭が熱くなった。
「アキレス、頼んだぞ!」
若き王の目に涙が浮かんでいた。
「我等エジプトに栄光を!」
アキレスは跪き頭を下げると王の部屋を素早く出て行った。
ペルシア軍が攻めてくるというニュースは全エジプトに瞬く間に広がった。
新興のペルシアなど恐れるに足らないと息巻く人々、国外に逃げ出す裕福な人々と、さまざまだったが、大半の貧しい庶民はどうすることもできず、運命を神に委ねるしか為す術がなかった。
紀元前五二五年の幕が慌ただしく開け、エジプトは運命の年を迎えた。
国内は張り詰めた空気が極限にまで達し、エジプト国民とエジプト猫たちは宿敵ペルシアとの決戦の日が迫まっているのを肌で感じていた。
政府はエジプト軍圧倒的に有利という、楽観的な報道を連日流し続けていたので、エジプト国民の間では打倒ペルシアの気運が異常なほどの盛り上がりを見せていたのだ。
首都サイスには前線のペルシウムの砦からペルシア軍の動きが逐一報告され、カンビュセスの動きが手に取るようにわかっていた。ところが王位を継いだばかりのプサムテク三世はペルシア軍迫る中、不慣れから軍の体制を整えるのに酷く手こずっていた。しかもペルシア側にエジプト軍の戦力や動きが全て筒抜けだった。エジプト軍主力のギリシア傭兵団司令官ファネスが密かに裏切り、エジプト軍の内部情報を全てペルシアに送っていたからだ。
権謀術数に長けたカンビュセスは、あらゆる術を弄してエジプトを孤立させエジプト軍の戦力を削ぐことに成功した。特に王位継承後の隙はエジプトを侵略する絶好の機会となり、カンビュセスにエジプト侵攻を決意させる大きなきっかけとなった。
風雲急を告げる中、エジプトの各都市、特に猫の聖地であるブバスティス、ベニハッサン、メンフィス、レオントポリスのバステト神殿に多くの市民が訪れエジプトの勝利をバステト神に祈リ続けた。
ブバスティスのムクターとマブルーカもレイラを連れてバステト神殿に毎日通いエジプト軍の勝利を祈った。
「あなた、あたしなんだか恐ろしいことが起こりそうな気がするわ」
マブルーカが不安げにムクターを見つめる。
「マブルーカ、超大国エジプトは必ずペルシアに勝つ」
ムクターは自分に言い聞かせるように言う。
「母さん、エジプトは沢山の神々に守られているから大丈夫よ」
と言ってレイラは最近外泊が多いネジムを逃がさないように抱きしめた。
せっかくタミットがいる神殿に来ているのに身動き取れないネジムは、タミットが気になって、気になって、ペルシア戦争どころではない。
礼拝が終わりレイラがラモセとムクターの話に気をとられていると、ネジムはスルッとレイラの腕の中から逃げだし、一目散にタミットを探しに神殿の奥へ駆けて行った。
「待ちなさいネジム!」
レイラが呼びとめた時には、礼拝堂の奥に駆けていくネジムの尻尾の先しか見えなかった。
「母さん、あたしネジムを探してくる!」
「レイラ、ネジムはきっとデートよ」
「だよね……タミットがいるからね」
ネジムは神殿の奥へと全速で走り、聖なる礼拝堂のタミットを訪ねた。
「タミット、どこにいるにゃー」
ネジムの呼びかけにタミットは応えてくれなかった。
「此処にいるはずなんだけどにゃー」
ネジムが礼拝堂の中をうろうろしていると、最も太い石柱の影からタミットが姿をあらわした。
「タミット!」
ネジムはスキップしながらタミットのところへまっしぐら。
「ネジム」
タミットは悲しげな目で彼の名を呼んだ。
「どうしたにゃー」
ネジムはタミットの様子が変なので声のトーンが落ちる。
「あたしたちに何か出来ることはないか考えているみゃ」
「え? できることにゃ?」
「そうよ。あたしは毎日のように此処にいて、不安に怯え神に救いを求める人間達の祈りを聞いてるみゃ」
「戦争のことにゃ?」
「そうよ。もうじきエジプトにペルシアが侵略してくるみゃ」
「……」
「ペルシアが来ればこの国の人間は一人残らず殺されると噂されてるみゃ。いや、人間だけでなく猫も犬も、生きているものはすべて切り刻まれ焼き殺されてしまうと、みんな恐れ怯えているみゃ」
「たしかにペルシアの人間は炎を神と崇めていると聞いたことがあるからにゃ。神に捧げる生贄としてエジプト全土を焼き払うかもにゃ」
「あたしたちにも何か出来ることがあるはずみゃ!」
ネジムはやっとタミットの苦しみに気づいた。バステト神の化身として人々から崇められているタミットは人々の夢や希望、悩みや苦しみ、不安や恐怖を一身に背負っているのだ。タミットの無償の愛は、人間や同胞の猫、そして他のすべての生きとし生けるもの達に無限に注がれていた。
ネジムは胸が激しく締め付けられた。
「タミット、おいらに出来ること閃いたにゃ」
しばらくしてネジムが静かに言った。
「ネジム」
タミットは悪い予感がした。
「おいら仲間を集めて、エジプト軍よりも先回りしてペルシウムに行くにゃ」
「行ってどうするつもりみゃ?」
「ペルシウム砦の全てのネズミをペルシア軍の駐屯地まで追い立て、食料を襲わせ病気に感染させてやるにゃ」
「ネジムすごいみゃ!」
タミットはネジムに抱きつきキスを沢山した。
「タミット、おいら溶けてしまいそうにゃ」
ネジムが照れくさそうにしていると急にタミットが心配そうにして、
「でもネジム、その作戦はやっぱりダメみゃ」
「どうしてにゃ」
「あなたの命を危険に晒してしまうみゃ」
「心配ないにゃ」
「いや、やっぱりダメ。あなたに行かせるわけにはいかないみゃ」
「でもタミット。もしエジプトがペルシウムで敗れたら真っ先に、このブバスティスにペルシア軍が雪崩れ込んでくるにゃ」
「……」
「その時にはもう手遅れにゃ」
「ネジム」
「だから沢山の仲間を募ってペルシア軍の出鼻をくじいてやるにゃ」
「ありがとうネジム」
ネジムとタミットは何度も鼻を合わせキスをした。
「じゃ行ってくるにゃ」
「ネジム、バステト神が必ずあなたを守るみゃ」
「ありがとにゃ」
ネジムはタミットに笑顔を見せると、そのまま礼拝堂を飛び出して行った。
(バステト様どうかネジムをお守りください)
タミットは礼拝堂から遠ざかるネジムの後ろ姿をいつまでも目で追い続けた。
ネジムが礼拝堂を出て行くと、タミットはバステト神の祭壇でエジプトの勝利を祈ろうとした。するとその時、礼拝堂に大神官アメンナクテがやって来た。
「タミットさま、やはりここにおいででしたか」
「バステト神様にエジプトの勝利を祈ろうとしていました」
タミットがそう言うとアメンナクテは目で笑いながら、
「それは無駄に終わります」
といって懐から網を取り出した。
「大神官!」
タミットは危険を察知したが手遅れだった。
「クソ猫が!!」
アメンナクテは素早くタミットに網を被せ捕らえた。
「みゃー!」
タミットは網に爪が絡まり身動き取れない。
大神官アメンナクテは網の口を紐できつく縛り「たかが猫の分際で生意気な!」と叫んでタミットの首をトンと叩いた。
「……」
タミットはぐったりとなり意識を失った。
「このクソ猫をカンビュセス様に届ければ、わたしはエジプトの王になれる!」
大神官アメンナクテは笑い、捕らえたタミットをペルシアの使者に手渡した。
「カンビュセス様に約束の白猫だと渡してくれ」
アメンナクテは得意げな笑みを浮かべた。
「畏まりました」
ペルシアの使者は機械的に受け答えする。
「私は約束を守った。今度はカンビュセス様が約束を守るばんだと伝えてくれ」
もうエジプトは我が手中にありと言わんばかりに目尻を下げた。
「承知しました」
ペルシアの使者はそういって素早く走り去った。
ギリシア傭兵団、指揮官ファネスは、カンビュセスにエジプト軍の防衛上の秘密を流し続けていた。その中には、エジプト人が異常なほど猫を大切にしていることが書き添えられていた。
ファネスからの情報を読んだカンビュセスは、エジプト人が異常なほど猫を大切にし、猫を神として崇めていることが大きな弱みになることに気づき、猫を盾にすればエジプトは猫で簡単に落とせると踏んだ。
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