第18話 混迷するエジプト

 ペルシア武装漁船の船長を逮捕拘束してからすでに一週間。エジプトの首都サイスの宮殿ではペルシア人船長の扱いについて、ペルシア穏健派と強硬派で意見が対立し、エジプトは混迷の度合いを深めていた。

 穏健派の急先鋒に立ったのがサイス王朝で政治的発言力を増してきたバステト神殿の大神官アメンナクテだった。アメンナクテは急速に強大化するペルシアとは正面から対立するのではなく、多少の国益は損なっても和平を保つべきだと主張した。

 一方、強硬派の急先鋒に立った総理大臣ブテハメンは、急速に国力を増すペルシアの野望を打ち砕くには今しかないと、船長の即時処刑と全面戦争を主張したのだ。

 結局、権力闘争に勝ち抜いた大神官アメンナクテが総理大臣ブテハメンを抑え、ペルシア人船長は即時釈放された。


 夜になってラモセが血相変えてムクターの家に駆け込んできた。

「政府がペルシア人船長を釈放したそうだ」

 ラモセはパピルスの号外をムクターに手渡した。

 号外には〝政府がペルシア船長を無条件で釈放〟と大きく印刷されていたのだ。

「な、なんてことだ……」

 ムクターも呆れて言葉が続かない。

「これじゃエジプトの面目丸潰れだ!」

 ラモセは号外を丸めて地面に叩きつけた。

「ペルシアはますます図に乗るぞ」

 ムクターがため息をつく。

「政府はすでにペルシアから謝罪と損害賠償を請求されているそうだ」

 ラモセは語気を荒げた。

「言いがかりも甚だしい!」

「悔しいな!」

「今回の決定は王が決めたのか?」

「いや、ムクター、政府内の権力闘争に勝った大神官のアメンナクテが、ペルシア人船長の釈放を強行させたそうだ」

「なんだって! 政治に神官を関与させるとろくなことはない」

 ムクターは握り拳でテーブルをバンと叩いた。

「そうだが、今じゃ大神官アメンナクテは、王も一目置かざるをえない存在のようだ」

 ラモセは苦々しくそういうと、テーブルに肘をつき頭を抱えた。 

 こうしてエジプト全土に配られたペルシア人船長釈放の号外はエジプト国民を激しく刺激し、エジプトの威信を失墜させた大神官アメンナクテは国民の猛烈な批判に晒されることとなった。

 さらにエジプトの混迷ぶりは同盟国ギリシアや敵対国ペルシアを刺激した。

 同盟国ギリシアではエジプトとの同盟を継続か破棄か、ポリス間で激しい議論がなされた。

 なんとポリスの過半数が、弱体化したエジプトと組むより強国ペルシアと組んだ方が良いというのだ。

 一方、ペルシアのカンビュセスにエジプトの混乱ぶりが報告されるた。

「あのエジプトの混迷ぶりは愚かしすぎて胸くそが悪くなる! プライドのない無能な国家に存在価値はない。エジプトを滅ぼす!」

 王は吐き捨てるように叫び、大軍を動かす命令を下した。

「国王! ペルシア軍の動きが怪しいとの情報が入りました」

 エジプト陸軍参謀アメンは、王の間に駆け込み強張った顔で伝えた。

「カンビュセスめ、ついに動き出したか」

 イアフメス二世は黄金の玉座から立ち上がった。

「恐らく我が軍のペルシウムの砦に進軍するものと思われます」

 陸軍参謀のアメンが言うと、

「父上。我が軍もすぐに迎え撃つ準備を」

 側にいた息子のプサムテク三世が拳を握り進言した。

「ペルシア軍が砂漠を進軍すれば、ペルシウムに着く頃には水が無くなり、かなり疲弊しているものと思われます」

 陸軍参謀アメンの甘い見通しに対して、

「アラビアの族長を懐柔して水の補給をしながら進軍するかもしれない。アッコでフェニキアやキプロスの船団と艦隊を集結させているという情報も入っているぞ」

 とプサムテク三世が声を荒げた。

 ギリシア軍との同盟を信じるイアフメス二世は、

「ペルシアがアッコに艦隊を集結したにせよ同盟国のギリシア海軍が応戦してくれる」

 と言ってギリシア軍が必ず来るものと想定して戦略を立てようとした。

「父上! 確かにギリシアとは同盟関係にありますが、ギリシアはペルシア船問題のとき中立の立場を示しました。ギリシア軍をあてにするのは危険だと思います」

 そう言ってプサムテク王子はエジプト単独の戦略を立てるべきだと頑なに主張した。

「ギリシア軍とて、ギリシア本土にペルシア軍が侵攻してくるのは時間の問題だと確信しておる。ならば、なおのことギリシアの安全保障上エジプトを守らねばならんはず。ギリシアは必ず同盟を守る!」

 イアフメス二世は自分の不安を打ち消すかのように、そう言って語気を強めた。

「父上! お願いがございます!」

 プサムテク三世王子は父王の目を見据えた。

「なんだ!」

 玉座に仰け反っていたイアフメス二世は姿勢をただした。

「ペルシウムに私を行かせて下さい」

 プサムテク王子がファラオの前で跪いた。

「おまえが軍を指揮すると」

 イアフメスは立派に成長した息子をみて涙ぐんだ。

「はい! 初陣を勝利で飾りたいのです」

 王子の眼光の輝きは強い意志の現れだと思えた。

「……」

 イアフメス二世は頭に痛みをおぼえ、玉座に深々と座りしばらく目を閉じた。

「医者を呼べ!」

 プサムテク王子が叫んだ。

 息子のプサムテク三世は父王の体調がすぐれない事をとても心配していた。イアフメス二世は若い頃からの放蕩が祟って、糖尿病と高脂血症と高血圧を患い、さらに高齢ということもあって、戦場に行ける体ではなかったのだ。

「おまえに王位を譲る」

 イアフメス二世は目を開け、立派になった息子を見て涙し息子を強く抱きしめた。

「エジプトの威光を蛮族ペルシアに思い知らせてやります」

 王子は瞳を鋭く輝かせた。

「カンビュセスはなかなかの曲者、決して侮るでない」

 イアフメス二世は膝に乗った猫の襟首を撫でた。

「わかってます。私は正々堂々、迎え撃つのみです」

 プサムテク王子の言葉は自信に満ちあふれていた。

 イアフメス二世は、プライドが高く真っ直ぐな性格の息子が大好きだった。しかし、戦時においてはその性格が災いすることを危惧していた。

 悪い予感を胸に抱きつつ高齢のイアフメス二世は、即日、王位を息子のプサムテク三世に譲った。

 

ペルシアのカンビュセス王はイアフメス二世の悪い予感通り、卑劣で恐ろしい作戦を立て、恐怖の大軍をエジプトに動かしていた。

 イアフメス二世はデルポイのアポロン神殿が火災で崩壊したとき、再建費用に一〇〇〇タラントもの多額の寄付をしたので、ギリシア人は彼やエジプトにとても好意的だった。だが、急速に勢力を拡大した新興国ペルシアの脅威を目の当たりにするとギリシアはエジプトとの同盟を守るべきかどうかで揺らぎ始めていたのだ。そんな時起きたペルシア武装漁船の船長無条件釈放はエジプトの弱体化を露わにし、ギリシアのエジプトへの不信感を募らせる結果となってしまった。 

 ペルシア王カンビュセスは必ずしも一枚岩でないギリシア軍の弱みを突き、恫喝と恩賞でギリシアの分断を狙った。カンビュセスが一番に目をつけたのが最新鋭の大艦隊を所有するサモス島のポリュクラテスだ。

 エジプトが最も頼りにし尚且つイアフメス二世とも個人的に親しいポリュクラテスを寝返らすことができれば、ギリシア軍とエジプト軍両方の士気を挫き、あわよくばギリシア軍すべてをペルシア側に寝返らすことが出来ると踏んだのだ。

 

 ペルシアの野望を砕くべく王となったプサムテク三世は、すぐに同盟国ギリシアにギリシア艦隊の出動を要請。ポリュクラテスにエジプト艦隊に加わるよう打診した。ところがギリシア艦隊は一向に動く気配はなく、ポリュクラテスからいつまで経っても返事が返ってこなかった。

「息子よ、わしはポリュクラテスに会いにサモス島に行って来る」

 父王は息も絶え絶えで今にも玉座から滑り落ちそうだ。

「父上、そのお体では無理です。ギリシア軍はエジプト・ギリシア同盟を必ず守ります」

 父親の言葉に驚いたプサムテク三世は、そう言って心配するイアフメス二世を安心させようとした。

「ギリシア軍が参戦すればエジプト軍はペルシアの大軍に持ちこたえることが出来るのだ」

 イアフメス二世は黄金の椅子からよろめきながら立ち上がった。

「地中海で我がエジプト艦隊はギリシア艦隊と共にペルシア艦隊を撃破することでしょう」

 プサムテク三世は父親を励ますように言う。

「だが、ポリュクラテスからはいまだ返事がない」

「ならば私がサモスに行ってきます」

「おまえは陸軍を率いて対ペルシウム戦に備えるのだ」

 その時、陸軍参謀アメンが青ざめた顔で飛び込んできた。

「アメン、その慌てぶりはなんだ! 曲がりなりにもそなたはエジプト陸軍参謀なるぞ」

 プサムテク三世は跪くアメンの前にゆっくり進み出た。

「ポ、ポリュクラテスがペルシアに寝返りました」

 アメンはその場にひれ伏し悔しそうに床を拳で叩いた。

「な、なんだと!」

 イアフメス二世は顔を真っ赤にして叫んだ。

 その瞬間、右側から崩れるように床に倒れおちた。

「父上! 父上! しっかりしてください! 早く医者を呼べ!」

 王子は父に呼びかけ続けたが、返事はなかった。

 エジプト王立病院に担ぎ込まれたイアフメス二世だったが、エジプト最高の医師団でも為す術もなく、ペルシアとの戦を目前にしてそのまま帰らぬ人となった。

 時に紀元前五二六年十二月のことだった。

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