第2話 アルフヘイム(妖精の国)と名付けられた予備校

 少子化著しい昨今、学習塾界隈の生徒獲得競争は激しさを増すばかりだった。大手の学習塾であっても、古い体質のままでは生き残れない。そしてついにある有名予備校が倒産寸前となり、身売りすることになった。


 そこで買収に手を挙げたのが、畑違いもいいところのアイドルのマネージメント業務を主とする芸能事務所だった。


 そのアイドル芸能事務所では、かつて、いろいろな理由でアイドルとしての芽がでなかった所属タレントの再就職先の斡旋に苦慮していたのだが、その有名予備校は定期的にその斡旋を受け付け、元アイドルを正社員として雇い入れてくれていた。以前から関係が深い間柄の上、僥倖なことにその予備校に事務職として就職した元アイドルの1人が講師になり、更に一躍、時の人にまでなったことがあった。以来、協力関係には相当深いものがあったので、経営の移行はスムーズに進んだ。しかし予備校として生き残るためには抜本的な改革が求められていることに変わりはなかった。


 その大改革に取り組んだのが、以前、時の人になった元アイドルの講師だった。そして彼は考えあぐねた挙げ句、アイドル業界の手法を予備校に導入するという、実に大胆な戦略に打って出た。


 そして男女問わず、講師を元アイドルまたはアイドル級の美形で固め、在籍していたレジェンド級の講師達が裏方の監督として全面的に彼らをバックアップし、授業のレベルを決して落とすことなく、生徒たちのやる気を最大限引き出すことができることを売りにした前代未聞の予備校が誕生したのである。




「まあ、タスクくん、本当に格好良くなって、イケメンね!」


 夕方、仕事から帰ってきたなぎさの母はタスクを見て声を上げた。


 少ない荷物の開梱と整理を済ませ、タスクは部屋着に着替えてすっかりくつろいだ様子でこたつに入り、来月から始まるというのに、早々に授業の準備をしていた。


 タスクはこたつから出て、なぎさの母に頭を下げる。タスクはなぎさにとって母方の従兄弟で、実の甥ということになる。


「しばらくお世話になります」


「物件が見つかるまでなんていわなくても、ずっといてもいいのよ」


「それではなぎさちゃんに迷惑でしょう。年頃の女の子なんですから」


「あらあら。そんな訳ないでしょう。タスクくんが住むことになって1番喜んでいるのはこの子なんだから」


「お母さん、それ、余計な情報」


 なぎさはこたつで本を読んでいたが、母の発言にブー垂れる。


「そんなことないでしょう。はっきり言わないと本当にタスクくんが出て行っちゃうかもよ」


「今日来たばかりなのに、そんな話題しないよ、普通。失礼でしょ」


 なぎさは母に不満顔を露骨に向け、なぎさの母は反省顔になる。


「確かに。失礼だったかも」


「いいえ。探しているのは事実ですから」


「予備校の講師なのよね。家族割引とかない?」


「ありますよ。確か20%オフになります」


「なぎさ、行きなさい。この子、進学校に行ったくせに勉強に身が入らなくて」


「私からお願いしようと思っていたところ」


「前向きなのはとてもいいことだよ」


 微笑みながらなぎさを見下ろすタスクは天使のようだ。後光が差して見える。実際にはLEDのシーリングライトだが。


「今、春期講習と並行して体験入校をしているから明日、一緒に行かない? 僕も早速だけど春休みの間はアルバイトとして少し入るんだ」


「行く行く!」


 なぎさはこたつから出て、タスクに向き合う。


 タスクは大きく手を広げて、なぎさを迎え入れようとしていたが、なぎさは固まる。


「あれ? 突撃してくると思ったんだけど」


「いやもう小学生ではないので恥ずかしいというか……」


「なぎさ、遠慮したら負けよ」


 なぎさの母が背中を押し、バランスを崩してなぎさはタスクの胸の中に飛び込んでしまった。タスクの胸の中は温かく、また胸板が硬かった。


「なぎさちゃん、今もいい匂いする」


「やだ、恥ずかしい……」


 なぎさは慌てて離れるが、離れるのが早くてもったいなかったかなと悔やみもする。


「じゃあ明日、体験入校、いってらっしゃい」


 なぎさの母はにんまりと笑った。


 アルフヘイムの戦略にまんまと、しかもど真ん中ではまってしまった形になるが、タスクがどんなところで働くのか確認するのは最重要事項とも言える。


「一緒に行こう」


 プライスレスな笑顔でタスクに誘われ、なぎさは小さく、赤くなりつつ、頷いた。




 妖精の国アルフヘイムはかつての大手予備校をリニューアルしたもので全国各地にある。なぎさが住む場所から1番近くでは東京駅から快速電車で30分かからないターミナル駅の前にあった。なぎさが通う高校からは1つ離れているが、歩いて行くこともできる距離だ。


 今日はタスクと一緒なので本当はオシャレをしたかったが、春期講習だと制服が多いという情報がネットにあったので高校の制服にした。制服はブレザーだが、なかなかかわいい。制服姿をタスクに披露するとタスクは微笑んだ。


「かわいい。あのかわいかったなぎさちゃんがかわいい女子高生なんて……」


「そんなにかわいいを連発しないで」


「だって本当にかわいいんだもの」


 そしてタスクに頭を撫でられ、なぎさは俯いて赤面し、答えに詰まった。


 マンションから駅まで歩いて13分。駅から数分間、電車に乗り、タスクの配属先になる予備校がある駅に到着する。駅前の広いペデストリアンデッキを降りるとアルフヘイムはすぐ目の前だ。ペデストリアンデッキからも大きな看板が見える。建物も相当大きいので、賃借料をまかなうだけでも多くの生徒を確保しなければならないだろう。


「じゃあ、僕はここで。生徒との個人的な接触は禁止されているから、今から慣れておかない」


「同居しているのに?」


「ほら、いろいろ問題が起きないとも限らないからね」


 確かに。アイドル級の美形揃いなら何か問題が起きてしまうのも不思議ではない。

 タスクは小さく手を振って走って行き、先にペデストリアンデッキを降りていった。


 なぎさは1人で階段を降りてアルフヘイムに入校する。


 もちろん事前に連絡先の交換は済ませてあるから、アルバイトが終わった後の再合流も問題ない。


 エントランスはごく普通のビルにあるようなそれだった。カウンターがあり、中は事務スペースになっている。事務員さんたちはごく普通だが、奥に見えるアルバイトらしき学生さんは美形だ。タスクのような講師になる予定の人と思われた。その隣で作業している女性も驚くほどの美人だ。男女問わず、美形で固めた予備校だから、美人講師も大勢いるのであろう。


「こんなの……聞いてない」


 同僚の女性全員が美女なんて悪夢だ。


 体験入校の手続きは既にタスクがオンラインで済ませてあるので、顔写真つきのパスを受け取り、注意事項が書いてある誓約書にサインをするだけだ。


 誓約書?


 予備校でなんの誓約をしないといかんのだと思いつつ、なぎさは読み進める。




 一、講師の出待ち禁止

 一、講師とのあらゆる手段での個人的な連絡を禁ず

 一、撮影・録音禁止(講師以外も含む)

 一、特別授業の際に個人的連絡先等の個人情報を聞き出す行為および連絡先を渡す行為を禁ず


 特別授業とは何か分からないが、講師に直接、指導して貰えるものではないかとなぎさは推測する。


 一、試験時におけるカンニング行為の禁止(発見時は無条件で降格)




 降格とはなんぞや。講師が降格するわけでもあるまい。


 謎めいた五箇条が記された誓約書だったが、なぎさはサインする。しかしこの五箇条があれば、タスクが女子生徒にまとわりつかれるようなことにはならなさそうだ。ありがたいことである。


 本日、体験入学で受けられる講義の情報をタブレットに配信して貰ってあったので確認すると、なぎさの得意科目である英語が始まるところだった。ちなみに講師は男女1人ずつ、それぞれ別の教室で実施する予定になっている。別に女子生徒でも女性講師の講義を受けるのも可だが、なぎさは男性講師枠にエントリーして、急いでその教室に行ってみる。


 教室の中は既に女子で満員近くになっており、1番後ろの5人掛けの長机の真ん中が空いているのを見つけて、既に座っている子に頭を下げながら席に着いた。


 なぎさの通う高校の制服も見え、見知った顔もあるが、席は遠かった。


 定時になると講師が教壇に上がり、嬌声で教室内が満たされた。


 講師はアングロサクソン系とのハーフなのか、自然な金髪で、彫りの深い若い男性だった。前の席の方の悲鳴から顧みるに、体験入学なのでこの校の人気講師をわざわざ充てたのではないかと思われた。


 確かに美形だった。アイドルというよりモデル系の美形だろうか。高価そうなブランドもののスーツが似合いそうだが、今日はかなりラフな格好をしている。一応、ネクタイありだ。特に自己紹介などはないのでタブレットで確かめると蒼人あおと・ミカエル・斉藤さいとうというミドルネームがある名前だった。タスクと同じ関西の難関大学の外国語教育で有名な学部の出身の25歳。この予備校のトップ英語講師だった。


「はい。おしまい。静かにしてくれるかな」


 にこやかにミカエルが微笑み、ピンマイクが拾った音声が教室に広がると、嬌声をあげていた生徒たちは瞬時にして静かになり、静寂が訪れる。この辺は予備校らしいといえる。


「じゃあ、昨日の復習から。タブレットに配信したから見てくれるかな。今日、初めて体験で来たって君――なぎさちゃん? もそれを見れば分かると思うよ」


 そしてミカエルの目がなぎさに向き、ウインクした。


 今、体験入校で来たばかりのなぎさを認識しただけでなく、名前まで口に出来るなんてすごいことだ。なぎさはうんうんと何度も頷き、タブレットに配信された教材を見る。まとまっているのは当然のことだが、暗記事項と別に例文や文法の考え方などシステマティックに構成されている教材で、とてもよくできていた。


「じゃあ、始めようか」


 そして大型液晶スクリーンに例文が表示され、授業が始まった。ミカエルの声がイケボなのも去ることながら、途中でヒヤリングテストを兼ねた英語のジョークを交えたり、生徒に上がって貰って今日の単元の会話練習をしたりと濃い内容であっという間の50分だった。美形で興味を引き、その上で濃い内容の授業を展開できれば、それは生徒の集中力をそぐことなく、ぐんと勉強の効率が上がるだろう。よく考えられている。


 授業の終わりにもう一度、ミカエルはなぎさにマイク越しに呼びかけた。


「なぎさちゃん、今日の授業はどうだったかな? 良かったら来年度、私の講義を選択してくれると嬉しいな」


 そしてなぎさに目を向けた。


「もちろん、教室にいる他のみんなは、もう私を選択してくれているよね」


 またミカエルがウインクし、教室内が黄色い歓声に満たされる。


「4月も来る~」


「教室に入れるよう頑張る~」


「もっと私に教えて~」


 まるでアイドルのコンサートだ。


「じゃあ。また、明日」


 そして手を振りながらミカエルは講師用のドアから教室を去って行った。


 しかし教室から出る生徒は1人もおらず、皆、タブレットを開いていた。どうやらこれから質問タイムが始まるらしい。入校体験のなぎさには質問権がないようでポイント表示欄が空欄だったが、両隣の子たちには数字が表示されていた。画面の隅のヘルプで調べると、この数字を消費して質問ができることがわかった。模試や授業中のテストで点数が高ければ高いほど多くのポイントが貰え、ポイントが足りなければ課金することができるというものらしい。


 なんという悪魔的システムだと思いつつ、これがまだ序の口に過ぎないのだろうとなぎさは見当をつける。先の誓約書にあった特別授業もおそらく課金式なのだろう。 


 間もなく、オンライン形式での質問タイムが始まった。分割して表示される画面の中には背景が明らかに教室内ではない人もいて、オンライン受講者も多くいることがわかった。一体どれほど多くの生徒が実際には講義を受けていたのだろうと考えるがその総数は想像すらできない。


 その後は別室に行き、オンライン授業体験をした。オンライン授業は普段は都心の予備校にいるが、スポットでこの駅前予備校にもくるという数学の講師の授業で、これもわかりやすく、また、イケメン度も高かった。ミカエルがモデル風なら、この数学講師の大原光一郎おおはら こうちろうは特撮番組のヒーロー風、それもレッド級のイケメンだった。


 授業の内容と講師のキャラクターが揃っているのに、受講料は他の予備校と同レベルだ。それはとても凄いことだと思う。おそらく課金が収益の主として経営しているのだろう。課金しない分にはいい予備校だと思う。


 帰りがけに事務室の中を見るとタスクが奥のテーブルで採点作業をしているのが見えた。一生懸命、解答用紙に向かって赤ペンを走らせているタスクは、ミカエルにも光一郎にも負けない、もうプロの講師の輝きを放ちつつあった。


 タスクくん、真面目だったからな。


 初恋の人が頑張っている姿を見るのはとても嬉しい。


 高2になろうというこの歳まで彼氏ができなかったのは別にタスクくんのことを好きで居続けたからという訳ではないが、このときのための必然だったのかもしれない。なにもためらうことなく、タスクくんに恋心を抱いたあのときに戻ることが出来る。それは僥倖だと思う。


 なぎさは自習室に行き、タスクの採点アルバイトが終わるのを待つ。終わったら、一緒にご飯でも食べよう。この駅ではダメだろうから、最寄り駅にしよう。


 幸い、自習室の席には余裕があった。なぎさは自習用に持ってきたテキストを広げた後、タスクにメッセージを入れ、気合いを入れて勉強を始めた。

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