一毒二役

森本 晃次

第1話 お濠に浮かんだ死体

の物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年10月時点のものです。今回裁判の話が出てきますが、実際の裁判制度と異なっているかも知れません、そこはフィクションとして大目に見てください。事件にしても、このお話が、フィクションだということで、似たようなものは、捜索の範疇だと思っていただけると幸いです。今回の毒薬に関しても、かなりフィクションだと思ってください。(逆に信じないように)


 F県F市中央区に流れ込む川、ここは、一級河川と言っても、さほど大きな川ではない。

 なぜかというと、実際にこの周辺に流れ込む大きな川というものはなかった。

 大きな都市と呼ばれるところには、たいてい大きな川があり、電車で通過する時にも立派な鉄橋を渡るのに、1,2分を要して渡ることになるだろう。

 しかし、中央区に掛かった鉄道には、陸橋にはなっているが、渡り切るまでに、10秒もかからない程度で渡り切ってしまう。

 その理由は、

「ここの川は、昔からの人口の運河であり、その目的は、城下町のお濠の役目をしていたからだ」

 ということであった。

 なるほど、このあたりは、昔から城下町として発展し、ところどころに、武家屋敷の跡が残っていたりするのは、そういうことだろうか?

 中央区の中心部ん¥は、公園になっていて、片方は、大きな池を中心とした公園になっていて、さらに、もう片方は、小高い丘があり、そのまわりには、陸上競技場、野球場、サッカー場などが作られていて、スポーツ公園の様相を呈していた。

 スポーツ公園側は、昔、プラ野球チームが本拠地として使用していた球場があったようだが、親会社の、

「殿様商売」

 によって、地元の信用を失った時期から、アッサリ、球団を身売りに出し、買い取った球団のお膝元に買い取られたことで、この球場が使われことは、激減した。

 何しろ、年間、60試合以上が行われていたのに、身売りしてからは、アマチュア野球はたまに使用するくらいでは、球場の経営もままならないのも当たり前というものだ。

 当然、取り壊しの話が出て、もう、四半世紀前から、跡形もなくなってしまい、だだっ広い更地となり、公園となってしまったのだ。

 城跡にできていた野球場であり、その球団が、全盛期を誇っていた時期には、城の門も威風堂々としたものが、残っていたようだった。

 それを知る人は、すでに、高齢になった人であろうが、今では、その門もなくなってしまった。いくつもの、球戯場や陸上競技場を要する公園は、元々、城の内堀から中のことであった。

 それこそ、武家屋敷が広がっていた場所であり、要塞だった場所だといっても過言ではないだろう。

 ただ、本丸、二の丸。三の丸くらいまでは、当時のまま、といってもほとんどの建物は残ってはいないのだが、そのあたりは、公園として整備され、できるだけ、昔の形が維持されているのだった。

 本来であれば、復元されたものがあってもしかるべきなのだろうが、修復されているわけでもない。

 何といっても、このあたりが実際に発展していた時期は、歴史資料館の説明では、

「日本でも有数の広さを示し、攻め込むには難しい要塞と化していた」

 というような映像を作り流していた、

 何しろ建物は残っていないので、そこは、CGの力に頼るしかないということであったのだ。

 戦国時代から、織豊時代を生き抜いた、

「天下人の参謀」

 ともいうべき武将の、長男が築いた、城下町である、Fという城下町、隣の、Hという商人の街との二人三脚で発展していき、今や、

「地域ナンバー1と言われる大都市」

 に発展していたのである。

 昭和の時代から地下鉄が開業していて、外人の来訪も多い、

「世界に広がる国際都市」

 といってもいいだろう。

 もっとも、それに関しては、賛否両論はあるが、とりあえずは、

「国際都市」

 ということにしておこう。

 実際には、天下分け目と呼ばれた、

「関ヶ原の合戦」

 において、ここの初代藩主となる武将は、親父仕込みの、

「調略」

 という部分で、その力をいかんなく発揮し、見事、東軍に勝利をもたらせたということで、このFという土地を、その論功行賞でいただくことができたのだ。

 石高は50万石以上という大名となったのだ。

 ただ、関ヶ原で天下人となった家康も、ひょっとすると、この男の実力を恐れていたのかも知れない。

 親父の方は、関ヶ原の前の天下人であった、秀吉が、

「押しも押される天下人」

 とあり、関白職に上り詰めた時、側近に対して、

「今、誰かが謀反を起こしたとして、もっとも恐ろしいのは、誰だと思う?」

 と言われて、側近が黙っていると、その時に秀吉が挙げた名前というのが、その少し前まで、側近として、ずっとそばで支えてきた男、つまり、親父のことであった。

 それを伝え聞いた親父は、秀吉に睨まれないようにと、家督を息子に譲って、隠居生活に入ったのだった。

 何しろ、参謀として、軍師として秀吉を支え続けてきたのだから、そんな男が謀反でも起こせば、またしても、大規模な戦となり、せっかく、戦国の世が終わったというのに、また戻ってしまうというのは、誰もが感じていることだった。

 そんな時代を生き抜いた大名たちも、秀吉が死んだことで、

「待ってました」

 とばかりに、あからさまに天下を狙っている家康に対し、本当のところは、どう思っていたのだろう?

「今度の天下は家康のものだ」

 ということは思っていただろうが、露骨にその野心をむき出しにしてきたのは、あまりいい気分ではないだろう。

 ただ、家康夫政治の執行役として君臨していた、石田三成に対しては、ほとんどの武将が不満を持っていたのである。

 そもそも、関ヶ原の戦いの遠因と言われる、

「三成襲撃事件」

 というものがあり、襲撃されそうになっていた三成だったが、事前に計画が漏れたことから、寸前のところで、三成は逃亡し、家康のところに、保護を求めて逃げ込んできたのである。

「ここで三成を討つこともできるだろうが、そんなことをすれば、それこそ、

「豊臣家への謀反」

 ということになり、それまでの地位すら危うくしてしまいかねなかったのだ。

 だから、三成を助けることを選択し、三成を、政治の場から遠ざける形で、隠居させることにしたのだった。

 だが、時代の流れはそれよりも、慌ただしく動いていて、その流れをつかんでいたのが、家康だったということであろう。

 家康は、関ヶ原の戦いの前に、軍備も整え、

「来るべく戦」

 に備えていたのだった。

 そんな戦の時期が整って、いよいよ戦という時、本来であれば、

「豊臣の家臣」

 という立場の家康だったが、それを三成挙兵の報を受け、家族の身を憂いている武将たちの気持ちを一つにして、家康の配下として働かせるための調略活動に一役を買ったのが、この息子の武将だったのだ。

 そのおかげで、関ヶ原において勝利を収めることのできた家康から、この地への転封であったが、今でいえば、

「栄転」

 といってもいいことだろう。

 そして、この地に入った初代藩主は、さっそく、街の中心に城を構え、ここで、この地を統治することになったのだった。

 実際の層が前は、結構広いものだった。

 前述の、

「大きな池を中心にした公園」

 さらに、

「球技場を要する、丘のようになった場所」

 とがすべて、外堀の中だったという巨大な、城下町が広がっていたのだ。

 それが、

「攻め込むには困難なところ」

 と言われる、一番のところであったのだろう。

 それにしても、遺構がほとんど残っていないというのは、時代の流れからかしょうがないことであるのかも知れないが、結果として、石垣などは残っているので、

「城址公園」

 としては、立派なものだといってもいいだろう。

 それでも、遺構が少ないというのは、

「県や市が再建する意志がないということだろうか?」

 というのもあれば、

「発掘調査の中で、戦国時代よりもさらに昔の資料が見つかった」

 というのも一つなのかも知れない。

「下手に城を復元してしまうと、さらに古い時代の発掘の邪魔になってしまう」

 という歴史的、考古学的観点があるのも事実であろう。

 しかし、天守について、

「最初からなかった」

 あるいは、

「一国一城令」

 ということへの配慮として、天守を壊し、

「謀反の心がない」

 ということを示す必要があった。

 ということを示さなければならないのであった。

 だから、天守が現存していないのだろうが、江戸時代の、家康時代以降にも、

「天守の存続の傷害となる」

 というものがたびたびあったのである。

 まずは明治と時代が変わってから、

「武士の時代から、天皇中心の中央集権国家」

 つまりは、

「立憲君主の国」

 として世界に台頭してきた中で、まるで、

「武士の象徴」

 ともいえる、城や城下町というのは、明治政府にとっては、

「邪魔者以外の何者でもない」

 ということになるのだった。

 だから、明治の初期には、

「武家制度の負の遺産ともいえるものは、その風習から象徴まで、一気になくしていくというのが急務だったのだ」

 ということで、いろいろな令が出された。

「廃藩置県」

「廃刀令」

 などが、代表例である。

「武士の命」

 ともいえる刀を廃することで、

「この世から、武士というものは、消えてなくなるしかない」

 ということになり、さらに、

「時代遅れの戦を象徴するかのような城もいらない」

 ということで出た法律が、

「廃城令」

 だったのだ。

 文化遺産としてというよりも、その後にできた、

「軍の施設」

 という意味合いから残された城というのもいくつかあっただろう。

 そういう意味で、F城も建物は壊されたが、そこに、軍の建物が建ち並ぶということは、F城に限らずあったことであり、F城も、軍の建物が結構あったということである。

 その跡地に建てられたのが、いくつもの競技場であり、内堀から外の部分が、

「池を中心に整備された公園」

 だったのである。

 実際の内堀内部の軍部施設は、すでに跡形もなく消え去っており、今の時代は、競技場も郊外に新しいものができてきたので、内堀内にあった競技場は姿を消しつつある。

 そして、新たに競技場部分が整備され、さらに、公園と、発掘場所に分けられることで、隣の濠を模した公園と一緒になり、

「中央公園構想」

 なるプロジェクトが、今から十数年前に発足し、動き始めていた。

 ただ、その構想が実を結ぶのはいつのことだろう。

 正直にいって、

「この県あるいは、県庁所在地である市においては、その行動はまるでカメのごとしだといってもいいだろう」

 と言われていた。

 実際に、プロジェクト時代は、10年以上前から動き出していたにも関わらず、市民、県民が知ったのは、ごく最近だった。

 緘口令が敷かれていて、水面下で動いていたのか、それとも、マスゴミ自体が知らなかったということなのか、おかしな時代となっていたのだった。

 これは、県下において唯一の私鉄である、N鉄という会社にも同じことが言えるようだった。

「F市は、N鉄には頭が上がらない」

 ということは、昔から言われていた、

「公然の秘密」

 だった。

 県下では唯一の私鉄であり、いろいろな副業があることからも、

「地元では、ずば抜けて権力のある企業」

 として長年君臨してきたところであった。

 ちなみに、以前ここを本拠地とし、あっさり身売りに出した地元企業というのは、この会社のことだったのだ。

「儲からなければ、簡単に切る」

 という、血も涙もない企業である。

 もっとも、それくらいの潔さがなければ、

「地元の有」

 として君臨できるわけもなく、まさに、

「網元」

 といってもいいところだった。

 そんな企業には、自治体だって、逆らうことはできない。ここを敵に回してしまうと、市長選、県知事選の票に響くというものだ。

 県知事であっても、市長であっても、しょせんは、一人の人間。地元有力企業に見放されると、生きていくことは難しいといってもいいだろう。

 そのせいで、N鉄が、市民からの要望もあって、

「高架になっていないところを高架にして、ラッシュ時の交通渋滞を緩和させるとい目的のために計画された、一部区間の高架計画」

 というものがあったのだが、時間が掛かったといって済まされるような、生易しいものではなかったのだ。

 実際に計画された、いや、企画の話が持ち上がったのは、まだ昭和だっただろう。

 実際に、地元の立ち退きなどが行われた最初は、今から20数年前だったと記憶している。

 しかし、そこから最期の立ち退きが行われたのは、今から10年くらい前のことだった。

 やっと線路を移動させて、高架橋の建設が始まったのが、そのちょうど後くらい、作り始めると早いもので、高架橋が、

「もう使えるのではないか?」

 と思うまでに、一年もかからなかった。

 こういうと、

「かなり早い」

 と思われるかも知れないが、

「これが普通であり、むしろ、これでも遅いくらいだ」

 といってもいいのではないだろうか?

 だが、実際には、すでに、無駄ともいえるような、20年以上が経っているわけで、住民にとっては、

「いまさら高架にして何になる」

 と思っている人も多いことだろう。

 なぜなら、住民としても、その間、確かに交通渋滞が進んでいて、

「これ以上待っていられない」

 ということで、地域を管轄する自治体が独自に、

「う回路」

 を作ったりとして、応急的な整備はしてきた。

「踏切を増やす」

 という選択肢もあるのだろうが、実際には現実的ではない。

 というのは、問題はそこではなく、そもそも、法律として、

「新しい踏切を増やしてはいけない」

 という法律があり、鉄道関係では、

「上を通す高架という形を作るか」

 あるいは、

「穴を掘って、線路の下をくぐらせるか?」

 という二つに一つしかなかったのだ。

 自治体は自治体で努力をしているのに、N鉄道は、

「金があるのだから、できるはずだ」

 という状態でも、足踏みをしていたのは、

「F市に金を出させるためのあからさまなやり方だ」

 という説もあったが、ほとんどの県民は、

「当たらずとも遠からじ」

 ということで、それが、形として見えている、

「真実だ」

 といってもいいだろう。

 そんな中において、やっと最近高架として日の目を見たのだったが、計画の話を市民が認知するようになって、どれくらいの期間が経っているのだろう?

 実際に、

「定年間近」

 といっている年齢の人が、

「学生の頃からそんな話があったよ」

 といっているわけなので、

「30年くらい前」

 という生易しいものではなかっただろう。

 つまりは、

「時代はまだ、昭和だった」

 ということである。

 この時代というと、国鉄が民営化され、JRという企業が発足した時だった。

 この時、ほとんどの車両が、国鉄から入れ替わった。

 もちろん、残ったものもあったが、すぐに退役するという形を余儀なくされたのだろう。

 この期間というのは、その時作られた、当時でいうところの、

「新型車両:

 が、今の時代において、すでに老朽化し、列車の遅れの原因を作っている時代なのである。

 それだけひどいものか分かるというもので、いわゆる、

「四半世紀」

 と言われる時代は、80歳まで生きるとして、どれほどの割合かということを考えると、

「どれほどカメのようなのろさを兼ね備えた時代だったか」

 ということであった。

 実際に、

「開かずの踏切」

 というものに悩まされてきた人たちにとって、

「もう慣れたから、どっちでもいい」

 と何度も言わせてきて、それこそ本当に、

「自治体の努力のおかげで、今はだいぶ渋滞も緩和されてきた」

 と思っているところへ、高架を通しても、

「もう、どっちでもいい」

 と本気で思われるという、ブサイクなやり方は、N鉄の企業として、市民や県民のことをまったく考えていないということが浮き彫りにされ、

「しょせん、金儲けだけで駆け引きをするような会社だ」

 と、どんなに大きな企業であっても、思われてしまうと、

「それは、命取りでしかない」

 と言われることであろう。

 そんなF城や、N鉄が取り巻いている、F市であったが、最近、一人の男が、この城の内堀に近いところで、

「不審なものが浮いている」

 というのが、警察に通報された。

 実際にいってみると、

「あれ、死体じゃないか?」

 ということになり、警官だけではどうしようもなく、刑事と鑑識がやってきて、

「引き揚げ作業」

 が行われた。

 実際に、警察が探ってみると、

「そこに浮いていたのは、水に顔をつけるようにして、背中を上に向けて、漂っていた死体」

 だったのだ。

 警察は、その人物を引き上げて、鑑識にその状況を見てもらうと、

「解剖しないと分かりませんが、死因は毒ですね。死亡推定時刻は、死体の硬直状態から言って、昨夜の1~2時くらいではないかと思われます」

 ということであった。

「ということは、今が午前九時なので、8時間くらいが経過しているということでしょうか?」

 と刑事が聴くので、

「はい、ほぼそれくらいではないかと思います。今は秋という時期でもあり、水面がそんなに冷たくなっているわけでもないので、あまり誤差はないと思われます」

 ということであった。

「なるほど、問題は自殺なのか、他殺なのかということですが」

 というと、

「それも何とも言えませんね。毒の種類にも寄るでしょうが、毒を煽って、水に入り、苦しまずに一気に死にたいと思う人もいないとは限らないですからね」

 と鑑識がいうと、

「切腹においての介錯のようなものだということでしょうか?」

「そうですね、その通りです」

 といって、先輩と思しき刑事が部下に、第一発見者に話を聴いてみようか?

 ということで、鑑識さんには、さらに捜査を依頼し、第一発見者に話を聴いてみることにした。

 その時、先輩刑事は、もう一人の刑事に、

「それにしても、よく死体を発見できたと思うんだお」

 と言った。

 それを聴いて怪訝そうな表情になった後輩は、

「どういうことでしょうか?」

 と訊ねた。

「いやいや、君はおかしいと思わないかね?」

「ん?」

「よく見てごらん、ここのお濠には、これだけたくさんの水草が浮いているんだよ」

 といって、濠を指さした。

 そこには水草というには大きすぎるくらいのものが、所せましと浮いている。

 後輩刑事も、

「どこかで見たような」

 と思ってみていると、そこに浮いている草が、

「蓮のようではないか」

 と気づいたのだった。

「なるほど、これでは、死体が簡単に発見されたことに、疑問を抱くのは分かるというものだ。蓮の葉が邪魔になって、よほど、最初から濠に何かが浮いているという意識があるか、あるいは、濠をいつも意識しているかのどちらか出ない限り、簡単に発見できるものではない」

 と思うからだった。

 その様子を見た先輩刑事も、

「どうやら、分かったようだね」

 と声をかけた。

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