第三話 誰よりも弱く

3-1

 嫌なことを嫌だと思う、ということ。

 人のせいにする、という技術。

 以前B型に勤めていたという、兄と仲のよく度々話題に上っていた木下栄吉きのしたえいきちという利用者はそれが実に下手な人だった。少なくとも兄から聞いた話では雅哉はいつもそう感じた。

 いつまでもいつまでも親や兄弟や親戚の愚痴を言い続けていたらしい。


 仕事の話。

 例えば栄吉が、仕事で嫌なことがあったとする。

 しかし、誰かに迷惑をかけるようなことではなく、そして誰にも迷惑をかけていない。

 だから栄吉自身の気持ちの問題ではある。

 でも、栄吉が今後ばっちり働けるようになったとしても、それが再評価されることはまずないだろうと雅哉は思っていた。とにかく別の利用者なり職員が栄吉のことを嫌っている以上、どんなに努力をしても好かれることはないだろうと雅哉は結論づけていた。そもそも、それを期待するのは良くない。

 期待するのが良くないこととされるのはそれが一方的な期待だからであり、一方的な期待が良くないのは一方的だからだ。人間関係は双方向の関係だから、それが恋愛感情でも友情でも、あるいは家族愛でも一方的な思いはどうしても相手に伝わりづらい。

 そもそも、嫌われているから嫌うのではない。自分がその人を嫌っているという事実が全てだ。なぜなら、実際のところ嫌われてなどいないかもしれないのだから。その人の内心のことなど他人にはわからないのだから。

 だから——栄吉は、自分自身の問題と相手の問題がごちゃ混ぜになってしまっている。だからそれに気づいた時点で自分自身の気持ちの切り替えの問題になっている。

 自分はそれが比較的速やかにできている。嫌なことを嫌だとダイレクトに思い、誰かの責任を誰かの責任にするということがナチュラルにできている。

 だから自分は気分が安定している。

 それがなぜかといえば、ひとえに親のおかげだと、雅哉は思う。


 確かに知能は高いのだろう。

 そして自分の親は気分が安定している。

 我が家には“原則”がある。つまり一貫性がある。あるいは雪尋の言うように気分の支配を受けていない。

 要するに——「自分は何があってもあなたの味方です」という感覚が強いかどうか。あるいは直亮やすずかけのYさんや日置航也、そして木下栄吉の親たちは、仮にそう大切に思っていたとしてもそのメッセージが彼ら子どもたちにダイレクトに伝わっていないのだ。自分の子どもに興味がないとかあるいは憎悪しているとか、そういった極端な例を除けば大概の親は子どもを愛しているはずだと雅哉は思う。でもそれは論理的に客観的に理屈として理解するだけでは足りなすぎるのだ。感情的にそう感じられなければ意味がない。

 そう、一方的な思いはどうしても相手に伝わりづらいのだ。なぜなら、あらゆる人間関係は双方向の関係だから。

 話を聞いてもらえない、にしても、助けてもらえない、にしても、曲がりなりにも家族をやっている以上、常時無視されているわけではないのだろう。だからこそ不安に、不安定になるのだ。


 こういった話を雅哉はよく一世に投げかけている。しかし、一世が彼らにそれをそのまま伝える技術はないだろうことも雅哉はよくわかっている。だからこそ、彼らは親とうまくやれないという悩みを、例えば日置航也のように「しょうがない」と割り切ることが非常にうまくできていない。みんな、ただただ苦しんでいる。子どもを心配するという親心は今ひとつ否定しにくいし、拒絶しにくい。だから、みんな悩む。直亮もすずかけのYさんも木下栄吉も、みんな現在進行形で悩んでいるのだろう。

 それでも、もしかしたらどこかで突破口を見つけるときが来るのかもしれない。あるいはすずかけのYさんというのは今、小説家としてのスタートラインに立てているそうで、それは航也のように、いつか親、引いては家族親戚への複雑な感情をエネルギーに創作活動に変換させるのかもしれない。それは完全に無関係な雅哉にはわからないことだったが、しかし、そうなればいいんじゃないか、と、思うばかりだった。


 自分は本当に恵まれているなあ、と、雅哉はつくづく、つくづくそう思う。

 特に直亮の親への死という願いを耳にする度に、自分は何て恵まれているのだろうと、ただただ思う。

 自分は親に死んでほしいと思ったことはない。夢にも思っていない。できるだけ長く一緒にいたいと思う。例えば成人するまでずっと仲良し家族でいたいと思っている。その感覚を直亮と共有することはおそらくないのだろう。あるいは、すずかけのYさんとも、日置航也とも、あるいは木下栄吉とも——。

 論理基盤の異なる相手の言っていることは本質的に訳がわからない。彼らと自分は前提を共有していない。それもこれも親の気分が安定していないから、親自身が自分たちの問題点を無視しているから、あるいは家庭内に“原則”がないからだと、雅哉はつくづく、つくづくそう思うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る