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「あれ、日置さん」
トイレから出てきた丈は同じレッスン生の航也を見かけて怪訝そうな顔をした。
「ああ、飯森さん」
「どうしたんすか。日置さん、オレと入れ違いで授業でしたよね」
「そうなんですけど忘れ物をしちゃいまして。それでいま取りに来ました」
「謎は全て解けた」
「はは」
と、航也は笑った。この人は自分よりも年下なのになんだか大人っぽいなあ、いつも爽やかに笑うなあ、と、丈は思う。
「飯森さんは、いま授業が終わったんですか」
「そっすね」
「いつも頑張ってるみたいですねぇ」
「いやあ、オレはいつかミュージシャンになるんで。日置さんのように」
へへ、と航也は照れる。
「俺はまだミュージシャンじゃないですよ」
「でも、ライヴハウスで活動してるでしょ。ファンもなかなかいるみたいだし、だからそこそこお金も稼げてるわけでしょ」
「まあ、それはそうなんですけど。でも音楽一本で食っていけるとかそんなレベルじゃ全然」
「時間の問題かも」
「だといいんですが。飯森さんもライヴハウスとかに出てみればいいのに」
「そんなレベルじゃ全然」
「やれるうちにやれるだけやるっていう方が夢は叶いやすいと思いますよ。まあまだ夢追い人の俺が言っても説得力がないでしょうけど」
「それなりのレベルに達してからの方がいいっす」
そこで丈は、航也がなにか言いたげにしていたのにすぐに気づいた。その理由はなんとなくわかる。すずかけの友達たちにいつも言われていることだ。できてからやる、じゃいつまで経っても始められない、と。わからなくはないが、しかし丈は自分のスタンスを崩したくなかった。雰囲気が悪くなるのを避けようと丈は言ってみる。
「まあ、オレの友達もいろいろアドバイスはくれるんすが。いいんです」
航也は、これ以上この話を突き詰める必要がないことがわかり、少しホッとして話題を変えた。
「いい友達たちみたいですね」
「そっすね」
「長い付き合いなんですか? 飯森さんの話を聞く限りじゃ、飯森さんのことをいろいろわかってくれているような」
「ああ、まあ」
丈は直亮たちのことを“友達”としか表現していない。地域活動支援センターというところに通っている自分と同じ精神の病気の友達です——などとは絶対に言わないことに決めている。
丈は、自分が精神の障害者であることを絶対に他人に知られないようにしている。以前勤めていたドラッグストアで、店長にこの日に出勤できないかと言われたとき、カウンセリングがあるので無理ですと言ったら即刻クビになってしまったことをずっと後悔しており、そして、この件はクビになるようなことなのだと理解してから他人に自分の話をしないことを強く心に誓っている。
確かに史生や佐都紀の言うように、それはその店が間違っているのであって丈はなにも悪くないというのは正しいのだろう。しかし、だからと言ってその正論で世間の精神障害者に対する差別が正されるわけではない。そのとき初めて自分は差別をされた——だからこそそれは隠さなければならないことだと丈は思うようになった。
そしてそれはもちろん、この航也も例外ではない。確かに航也は老人ホームに勤めていて、利用者の中には精神の障害者もいるのだろうということは知識として理解している。だが、それがなんだと言うのだろう。仕事ならうまく関われる、でもプライベートなら話は別——そういうことでしかないと思えてならず、だから航也とときたまこの音楽スクールで会ったとき、彼が介護の仕事についての愚痴だったり嬉しかった出来事などを話しても、絶対に油断しないようにしている。
それが自分の安全な場所を確保するために必要不可欠なことだと思っている。
「友達がいるのはいいですね」
なんとなく達観したような言い方で呟く航也に丈は少し笑ってしまった。
「まあ、そっすね」
「とにかく、飯森さんに同情なり共感なりしてくれるお友達たちなわけでしょう。いい人たちに出会えてよかったですね」
「まあね〜。いろいろ大変なこともあるっすけど」
「そうですね。でも、友達って、いたらいたで面倒なこともあるけど、ゼロっていうのは堪らない」
「日置さんは友達いないんすか?」
「いますよ。一生の友達も」
丈はちょっと興味が
「へえ。いいっすね、そういうの」
と、そこで航也はやや遠い目をした。
「いつも一緒にいてくれている……ような気がしますね」
「?」
「そいつのおかげで、俺の人生がめちゃくちゃ変わったんです。もちろんいい方向に」
「そういうことってありますよね」
「それまでは……おっと、喋りすぎてるかな」
「いいっすよ別に。ここで途切れたらオレが気になっちゃう」
航也は照れ臭そうに頭を掻いた。
「俺は家族とか親戚とかに対してすごく思うところがあるタイプで」
となると丈は一志をまず連想する。
「オレの友達もそんな人います」
「まあ、具体的なエピソードはともかく、あんまり俺のことを信じていないというか」
「オレの友達もそんな感じです」
「ただ、その友達のおかげで、うまく諦められるようにというか、割り切れるようになったというか……“うまく”やっていくことができるようになったというのかな」
「ふむ」
「もちろんというか、合わないものは合わないんですけどね。でも、うまくやれるようになったんです。そいつのおかげでね」
「へえ。じゃ、人生観が変わったみたいな」
「世界とか社会の見方も変わりましたね。自分の仕事、介護の仕事に関しても取り組み方がちょっと変わったというか。音楽への向き合い方も変わりましたし」
「ふーん」
「あとは……家族親戚の俺に対する態度は変わらないとして、俺がちょっと、まあ……大人になった、っていうんですかね。彼らのことを甘く評価できるようになったというか、許せるようになったというか」
「いいっすね」
ここで航也はくすくす笑った。なんだか自虐的な、それでいて開放的な笑顔のように見えた。
「“一生懸命頑張ればわかってもらえる”とは思わないようになれましたね」
「?」
「家族も人間関係ですから。人間関係って、誠実に向き合うことの大切さと同じように、諦めたり割り切ったりすることも大切なわけで」
「うーん。オレの友達に聞かせてやりたい」
「その人は、諦めないタイプ?」
いつまでもいつまでも家族親戚の愚痴を言い続けている一志を思う。
「諦められなかったまま全部が終わっちゃったっていうか」
「諦め損なっちゃったんですね」
「まあ、そういうことになるんすかね」
航也は微笑んだ。
「諦められるうちに諦めた方がいいこともあるんですよ、物事。諦め損なっちゃうと——剥がれなくなるから」
そういう意味では——自分も、精神の障害者であることに対する世間の有り様を諦めることができているのだろう。わざわざ言うことではなく、わざわざ隠すことだと認識“できて”いるのだろう。いまの丈は、自分が精神の障害者であること込みでより良い人生を送っていくにあたり、健常の人間たちに、“一生懸命頑張ればわかってもらえる”とは、まるで思っていない。
それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。それが正しいことなのか間違っていることなのかはわからない。
ただ、諦めなければ、死んでしまう。
殺されてしまうのだ。
「なかなかポエムっぽい」
「お、じゃ、新曲にしましょうかね」
「いいっすねー」
やがて対話は終わる。
スクールを出て、航也と別れた後、丈はなんとなくさっきの航也の言葉を反芻し、そして独りごつ。
「諦め損なっちゃうと、剥がれなくなる、か」
だから自分は、諦めようと思う。
いろいろなことを、いろいろな形で。
——より良い人生を、過ごしていくために。
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