5-6

「じゃあ、来週からということで」

「はい。よろしくお願いします」

 今日、航也は手続きのために街の音楽スクールへとやってきていた。

 音楽を本格的に勉強してみようと思った。体系的に一から勉強し、自分の音楽を整えてみようと考えたのだ。

 結局自分だけでは自分の壁を突破することができないなら、それなら他の人の力を借りるという選択肢もあっていいのではないかと思い始め、そして今日、資料を提出し、そしていよいよ来週からレッスンが始まる。作詞と作曲と編曲の技術を整え、きちんとギターとヴォイストレーニングを受けようと思っている。

「ああ丈くん」

 と講師の男性は、部屋に入ってきた一人の男性に声をかけた。

「こんにちは」

「こんにちは。日置くん、こっち、飯森くん。生徒です」

「こんにちは」

「こんにちはー」

 おや、と航也は思う。微妙に航平と印象が被る。

「飯森くんはどんどんうまくなってってるんですよ。最初はどうしたものかと思ったけど」

「酷いな先生。オレは真剣にやってるんです」

「よーくわかってるよ。その結果を日置くんも楽しみにしていてくださいね」

 人の良さそうなその講師はにこにこと笑いながら飯森という男性の肩を叩く。彼も満更ではない様子で胸を微かに張った。

 この人は知的障害者ではない。そう思う。だが、どこか“違う”と思った。明らかに自分よりも年上だろうとは思ったが、そのキャラクターは自分よりも遥かに年下のように思えた。

 この人もこの人でいろいろあるんだろうな、と、なんとなく思った。この人にも物語があり、人生や日常生活や、悩みや夢があるのだ、と。

 では失礼します、と言って航也はスクールを出ていく。

 帰路きろに着きながら航也は思う。毎週金曜日の夜にレッスンがあるから、当然金曜日の夜勤はできなくなる。もちろんシフト制だからその辺りは融通が効くのだが、いままでもライヴの日は休みにしてもらっていたからこれからは休日が増えてしまうことを考えると非常勤とはいえ少し不安だった。しかし、それでも胸いっぱいに希望が広がっていた。

 別に介護の仕事を辞めてしまうつもりはない。でも、音楽もちゃんとやりたい。それでもし自分がミュージシャンになれたとして介護の仕事をどうするのかは、それはそうなってから考える。いまはとにかく介護と音楽のどっちもやりたい。そして、どっちもやっていいはずだ、と、そう思っていた。

 音楽の魂からの才能なんかないかもしれない。あるいは仕事としての才能もないかもしれない。

 でも、それでもやりたい。

 それでもやらずにはいられない。

『航也さん、フォレストですぅ』

 あのフォレストという言葉がなにを意味していたのかはわからない。でも、ポジティヴな意味合いであることは間違いなかった。そして時折ときおり、そのポジティヴな言葉で自分があらわされていたことを思う。

 自分は航平にとって、ポジティヴな存在だったのかな、と思うと、はにかむ。

 航也は考える。自分の悩みは解決したわけではない。障害のある人間はメリットがなければ生きていってはいけないのだろうかという大いなる疑問が解決されたわけではない。いや、正確に言えば解決されていないわけではない。人の、社会の役に立とうが立つまいが、あるいは迷惑をかけようが、そんなことは関係なく穏やかに生きていける社会、幸せになれる世界が正しいし正常に決まっている。しかし、それでもどうしても航平のすごさを“いいこと”だと思ってしまう自分がいまここにいるということが、悩みがそのままここに在り続けていることの証左しょうさだと航也には思えてならなかった。

 それでも、それを自覚できただけでも、自分になにか存在理由があるような気が、航也にはしていた。自分が少しだけ前に進めたような気が、自分が世界や社会になにかができるのではないかという気が、そんな気がしていた。

 航也は歩いていく。

 それでも思う。期待と、不安を思う。音楽も介護もどっちもやるなんて無茶かもしれない。せっかく航平や史生や祐、それに文彦との出会いで次のステップに進めるような気がしても、結局、どうにもならなくなるのかもしれない。もしかしたらいまの自分が夢見ている未来とはまるで違う最悪な結末がそこにあるのかもしれない。そう。そして巡り巡って、やがて自分も、流れに流され、行き着いた先に落ち着くのだろう。いや、そうでなければならないのだろう。そうでなければ、大人になることはできないのだから。

 でもそこに、ほんのちょっとでも自分の意志を反映させられたなら。

 優しい歌を歌いたい。

 それで、優しい気持ちになれたなら。

 その気持ちが、みんなに届いたなら。

 航也は歩いていく。前を向いて歩いていく。航平との関わりなどほんの数日間しかなかったけれど、それでも彼は自分の心のチャンネルを大きく回してくれた。彼がいてくれたからこそ、いまの自分がいまここにいる。

 そう、たとえ航平がもういなくても、それでも、ずっと一緒に、そばにいてくれるようにそう思えてならなかった。

「よしっ」

 と、航也は気合いを入れた。まるでそうすることで、航平が安心してくれるのではないかと思った。航也は微笑みを浮かべる。

 そしたらきっと、航平はそんな自分を見て、いつものようににこにことした笑顔で、こう言ってくれるのだろう。

『フォレストですぅ』

 ––––と。


〈第一部・完〉

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