2-4

「ふむ。君もなかなか大変だね」

「そうなんですよ」

「距離を置くのも優しさだよ」

「でも親戚だしなあ。しかも父方のだし……無下にはできない」

 朝。航也は散歩に出掛けていた。仕事が午後からのときはいつもこうして朝散歩をしている。そんな中出会ったのが、湖で遠投えんとうの練習をしている進藤文彦しんどうふみひこだった。

 練習がひと段落し、文彦はタバコを吸う。つられて航也もタバコを取り出す。ふう、と煙を吐いて、文彦は航也に向き合った。

「まあ、航也くんもあんまり本気でやり合おうとは思ってないみたいだし、端的にそのいとこは調子に乗ってるんだろうね」

「俺が悪いんすかねえ」

「みんなどこかが悪いんだろうねえ。人間関係は双方向の関係だから」

 はあ、と、航也はため息をついた。

「文彦さんとかは話してて楽なんですけどね」

「それはどうも」

「あいつはなあ……“楽じゃない”んですよ」

「辛いねえ」

「そうなんすですよぉ」

 特養に勤務するようになった頃から始めた散歩で、最初は湖の方までは進まなかったのだが、体力もついてちょっと遠回りしてみようと思ってここへやってきて出会ったのが釣りをする文彦だった。いつもではないが、朝、ちょくちょく会うようになり、思い切って声をかけてみたら存外スムーズに会話が始まり、そしていまではそれなりに親しい仲になっている。知人以上友達未満、といったところだろうか。実際、文彦とは連絡先の交換もしていない。この湖で会えたときに会う、というのが二人のスタイルだった。

「そうねえ……」眼鏡をクイっと上げ、文彦は続けた。「いまは、力関係でいうと、そのいとこの方が航也くんより強いわけだね」

「そうですね。要するに」

「なぜかね」

「ほんと、なぜかです」

「昔から無神経だったの?」

「考えてみれば」

「もうちょっと具体的に」

「小学校の頃、向こうの家にお泊まりしたことがあって、なんとなく恋愛トークになったんですよ。そしたらあいつ、『女は弱いから男が守ってやらなきゃいけない』とか言ってきて」

「ああ、なるほど。そういうキャラなのね」

「俺は女が弱いなんて思ったことないから、びっくりしちゃって」

「確かにいまの世の中、なんだかんだいって女性の方が力はないんだろうな、とは思うけれど」

「でも、なんかそんな一方的に『女は弱い』って決めつけるのってどうなのかなあって思ったのが、まあ最初っちゃ最初ですかね」

「なるほどねー」

「だいたい守るもなにも、なにから守るのかって話で」

 そこで文彦はちょっと微笑んでいるような、あるいは真剣であるような表情をした。

「敵とかかな」

「敵ねえ。なにを想定していたのやら」携帯灰皿に灰を落としながら航也は続けた。「要するに、なんていうのかな、“それはそういうものだからそういうものである”みたいな。うまく言えないんですけど」

「うん、なんとなくわかるよ。航也くんの言っていること」

「わかります?」

「世の中の流れにそのまま流されている、そしてそんな自分が大人なのだと思っている」

「そう!」

「しかしねえ」と、文彦は灰を道に落としながらこう続けた。「大人になるって、そういうことでもあるからねえ」

「う〜……それが、そうなんだろうなって思うのも、なんだかムカつくっていうか……」

 こうやって文彦に雑談がてら愚痴を聞いてもらうのが航也の習慣になっていた。別に愚痴をこぼす相手と決めたわけではないのだが、あまりにも文彦が話しやすいためいつもこのような流れになる。美容師をしていると言っているから、職業柄傾聴の技術が鍛えられているのだろうと航也はなんとなく思った。

「大人ってなんなんですかね」

「なんなんでしょうね。おれも四十路よそじだけどいまだに若者気分が抜けないよ」

「子どもまでいるのに?」

「そう。でもま、そうだな。いまは君とこうやって話してるからそれでいいけど、仕事の場とか、かしこまった場だとやっぱりおれも流れに流されないといけないなってよく思うよ。悪口に同調するとかね」

「いまは?」

「いまは君に同情している」

「ありがとうございます」

「いえいえ」

「……大人ってなんなんですかね」

 そう繰り返す航也を見て、なんて返そうかなとしばし逡巡しゅんじゅんし、やがてタバコを携帯灰皿に揉み消し文彦は言った。

「“大人”にとって都合のいい世の中を生きていけることですかね」

「と、おっしゃいますと」

「いやなに、例えばいまの世の中は男にとって都合のいい世の中で、健常者にとって都合のいい世の中で、はたまた右利きの人にとって都合のいい世の中なわけよ。そしてそれに則って、従っていないといけない。それは女も障害者も、左利きもね。そうしないと“いちいちうるさい”とか言われちゃうから」

 文彦がときどきこうやって人権に関する発言を多くすることがあるのはなぜだろう、と、前々から思っていたが、最近航平と知り合った航也は、この人の家族や友達にも障害のある人がいるのではないだろうか、だからこうやってリベラルな発言を多くするのではないだろうかという考えに至っていた。

「でも、それってなんか違くないですか」

「っていうのが、いまの人権の考え方なわけだね。包摂ほうせつとはなにか、みたいな」

「包摂ねえ」

「君の仕事だって、要はそういうことでもあるわけだろ」

「そうだとは思います」

「話がれた」

 タバコとライターをポケットに入れ、文彦は続けた。

「ま、要するに、“大人”は“大人らしく”しなきゃいけないわけだよ。じゃないと排斥はいせきされてしまうってわけだ。そしてそれが要するに、流れに流されて、行き着く先に落ち着くってことさ。そのいとこだって、もしかしたら心の深い深い奥底で、おれ毎日なにやってんだろとか思ってるかもしれないよ。知らんけど」

「うーん……でもなあ……それにしてももうちょっとこう穏やかにというかなごやかにというか……楽しげにというか……」

 苦虫を噛み潰したような表情の航也に微笑みを浮かべながら、文彦は再び遠投の練習を始めようとして釣り竿を手に取った。そのとき、航也のスマホが鳴り響いた。

「すみません」と言ってスマホを取り出す。画面を見ると、史生からの着信だった。「もしもし?」

「あ、日置くん。おはよう。いま、大丈夫?」

「大丈夫だよ。どうかしたの?」

「朝っぱらからごめんね〜。実はね、航平の絵が、全国コンクールで優勝したのよ」

「えっ!」

 大声を出した航也に驚き、文彦はちょっと振り返ったが、何事もないようだと確認したのち再び練習に入った。

「それは、すごいね」

「まあ航平は我関せずなんだけど、私たちとしてはパーティでもしてあげようと思って」

「それはいいね」

「そしたら、航也さんが来るならいいよっていうの。ね、日置くん来てくれるかな。あの子はどうでもいいみたいだけど、やっぱり私たとしては祝ってあげたいんだよね」

 もちろん、OKでしかなかった。

 その後、また今度落ち着いたら連絡するから、パーティには必ず参加してねと史生が言い、航也は、うん、うんとうなずくばかりだった。

 電話を切り、スマホをじっと眺める。

「彼女?」

 と、そう訊ねる文彦に、航也は首を振った。

「友達というか、友達のお姉さんというか」

「お、いい出会いじゃないか」

「いやいや……」

 “いい出会い”というなら、史生よりも航平の方であろう、としばらく恋愛のご無沙汰の航也自身そう思う。

 スマホをじっと眺め、むろん喜ばしい気持ちでいっぱいだったが––––しかし、なんとも言えない気持ちになる。それは、ああ、自分は航平に、とっくに追い越されていたんだな、という、憧憬どうけい、そして嫉妬だった。

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