2-2

「渚の絵、どれぐらい進んだの」

「結構進みましたぁ」

「完成間近?」

「そうですぅ」

 道をてくてくと歩きながら二人はなんとはなしに会話する。

「仕事は楽しい?」

 と、そう訊ねる航也に、はい! と、またまた大きな声で航平はうなずいた。

「ゆうくんが友達」

「ゆうくん?」

「そう、ゆうくんですぅ。一番の友達ですぅ」

 どうやら施設の利用者仲間らしい。

「そうなんだ」

「そうなんですぅ」

 えへへ、と航平は笑う。

 ふと航也は中学生時代のかつての同級生のことを思い出した。

 航平と比べたら、あの子は随分おとなしい子だったな、と航也は思う。もう名前も思い出せない。というより、そもそも互いに自己紹介をした記憶もない。向こうだっておそらく自分の名前など知らないだろう。

 最初、あの子を見かけた瞬間からある種の異質さを覚えた。具体的にどのような感触からそう思ったのかはわからない。だが、廊下の向こうから歩いてくる彼を見て、ああこの子が知的障害の子なんだな、と漠然と思ったことを覚えている。しかしクラスが違ったし、そもそも彼は日常的には特別支援学級で授業を受けているため基本的な接点はなかった。

 それまで知的障害の人間に会ったことはなかった。テレビの特集でたまに見かけるぐらいで、自分とは遠い世界の住人だと思っていた。実際、小学生の頃はそういった生徒がいなかったように思う。あるいは自分が気にしなかっただけでいたのかもしれない。しかしそうだとすればそれはそれが彼ほどのインパクトが自分に与えられていなかっただけなのかもしれないとも思う。とにかく中学に上がり、彼と遭遇したことが航也にとっての初体験だった。

 とはいえ普段接点があったわけではない。すれ違ったときに挨拶あいさつをする程度の仲だ。あとは学年文集がやたらと汚い文字で書かれていたことしか彼についての印象はない。

 航也は彼に興味を持っていた。なぜ興味を持ったのかわからない。特に仲良くしたいと思ったわけではない。ただ、なんとなく惹かれるものがあった。彼は異質であったが、彼の中に強烈なエネルギーを感じたから……というのはいかにも後付けの理由のような気がした。とにかく、航也は彼のことが気になっていた。

 しかし、友人たちは彼を遠巻きに見ていた。別に、あまり関わりたくないと思っていたわけではなさそうだったが、しかしどう関わったらいいのかまるでわからないといった様子のようだった。それは実際航也もそうで、気にはなっているが関わり方がわからないといった日々だった。それでも気がついたら会ったら挨拶をする仲になっていた。なぜ彼が自分に挨拶をしてくれていたのか、航也にはまるでわからない。

 後にも先にも知的障害者の知り合いは彼だけだった。だからなんとなく航也は知的障害のある人はおとなしい人なのかなと思っていた。ところがこの航平は常時にこにこしていて割といつもテンションが高い。

 全ては人それぞれ、ということなのだな、と、普段いろいろなお年寄りと関わっている航也は改めてそう思った。

 あの子は元気なのだろうか。元気にしているといいのだが。元気にしていたとしてなにをしているのだろう。いまでもたまに彼のことを思い出すといつもそれが気になる。元気にしているといいのだが、と、いつもそう思うのだった。

 物思いにふけっていたら、気がつくと海川家にやってきていた。

「到着ですぅ」

「到着ですかぁ。お家の人は?」

「えっと、お父さんと、お母さんがお仕事で、お姉ちゃんもお仕事で、誰もいなくて」

「誰もいないの?」

 と航也は怪訝けげんそうな顔をした。そもそも仕事帰りに一人ぼっちで公園にいたことを考える。知的障害があるのだから常に大人と一緒にいるのが当たり前なのではないだろうかと思ったが、しかし、知的障害者の日常生活を知らない航也からすればそんなものは余計なお世話なのかもしれない。

『あの子、放っておいたらどこ行っちゃうかわかんないから怖いの』

 ふと航也は、中学時代、あの子についてそう評した女の子のことを思い出した。そのときその言葉になにか違和感を覚えたことを思い出す。この違和感の正体が航也の国語力ではいまひとつ説明できず、そのまま次の話題へと移っていったことを思い出す。

 なんだか結局のところ、それは彼を信じていないから、ということに尽きるような気が、いまの航也にはした。

「そっか。じゃあ、帰ってくるまで寂しいね」

 だが航平は首を横に振った。

「みんな頑張って働いてるから、ぼくも頑張って絵を描くですぅ」

「そっかぁ」

「どうぞ航也さん、どうぞどうぞですぅ」

 と、航平は玄関の鍵を開け、中に航也を招待する。航也もなんだかこの新しい日常にときめいていた。靴を脱ぎ、そのまま二人はアトリエへと向かった。

「二度目だけど」部屋中を見渡し、またしても航也は感嘆した。「相変わらずすごい部屋だね。アトリエ」

「はいですぅ。フォレストですぅ」

 またフォレストか、と、航也は微笑んだ。結局この森林フォレストという言葉はどういう意味なのだろう? ネガティヴな意味合いではないと史生は言ったし、実際ポジティヴな気分のときに使っている言葉のようだが、真意がわからない。なにが由来で、具体的にどういう感情を指しているのか、航也にはさっぱりわからなかった。

 渚の絵はもう完成間近のようだった。

「もうすぐ完成だね」

「はい〜。でもね、なんかが足りない気がするです」

「なんかって?」

「なんか……」

 口元に指をやり、しばし考え、そのまま停止し、むむ、と唸る。しかしこの間のように絵筆は持たず、そのままその場に航平は立ち尽くした。

 これは“モード”にどうやら突入してしまったようだなと思い、航也はちょっと後ろの方に行って航平を眺めた。

「むむぅ……」

 この渚の絵もなにかのコンクールかなにかで賞を取ったりするのかな、と、航也はなんとなく未来を思う。この子の画家としての未来はきっと明るい。きっと、音楽家としてなにもできないのであろう自分と航平を比べ、なんだか情けない気持ちになってしまった。

 部屋中に飾られている絵を見る。

 全部、航平の絵。

 航平は、絵が好きで好きで堪らないのだな、と思うと、果たして自分は“音楽が好きで好きで堪らない”のだろうかという疑問符が浮かぶ。自分ではそのつもりだが……しかし、航平を見ていると、なんだか自分は“そこまで”はいっていないような気がした。

 魂からの才能もなければ、仕事としての才能もない。

 それなのにどうして自分は音楽をやっているのだろう。

 なんだか沈み込んでしまった航也をよそに、航平は「むむぅ……」と何度も唸り、しばしのときが経った。

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