第二話 スタア誕生

2-1

「お疲れ様ですー」

 夕方。航也は仕事を終え特養を出ていく。

 今日もいろいろあったなあ、と思う。と同時に、今日も楽しかったなあと思う。もちろん疲れはしたが心地よい疲労感だ。この職場に来てからもうずっとこんな感じである。人間関係にも待遇にも恵まれていると思う。友人にも介護施設に勤めている人間がいるのだが、特養でそこまでホワイトなのは物凄く珍しいことのようだった。ここ以外の介護施設を知らない航也からすればそうなんだ以外の感想は浮かばないが、しかし介護の仕事が離職率の高い仕事であることは知っていた。実際、この五年の間にここを辞めて行った者も決して少なくない。いいところなんだけど、と言うと周りの人たちは、やっぱり低賃金重労働だからねえと言う。その点で、やはり親元で生活している自分はかなりの余裕がありそうだなと思っていた。

 非常に恵まれた日々で、とても運のいい日常だ、といつも思う。お年寄りの介護はシンプルに楽しい。十九のとき、本屋でアルバイトをしたときに接客業など二度とするものかと心に誓った航也だったが、対人援助職となるとまた話が違うようだった。確かに便や吐瀉物としゃぶつなどの処理はいまだに汚いと思ってしまうがもう慣れた。それより楽しさの方が上だった。

 しかし、なんだかんだ施設でピアノを弾く自分が一番自分らしい自分だと思えてならない。

 フロアに一台アップライトピアノが置いてある。勤め始めてすぐ、当時一緒に働いていた派遣のおばさんと軽く世間話をしていたところ航也が音楽をやっているという話になり、そこからピアノが弾けるという流れになり、それじゃちょっと弾いてみてくださいよと言われ弾いてみたらかなり評判がよかった。ちらほらと拍手され、満更でもなかった。満更でもなかったので今度は世代的に昭和歌謡を練習してきたらこれが思いのほかいい評価を得た。やはり自分の若い頃に聴いた音楽というのが一番思い入れが強いのはどの世代でも同じなのだなと長年音楽をやっている航也はつくづく思う。以来、仕事の空いた時間にピアノを弾くのが航也の介護員としての日常になっていた。

 何の役にも立たないと思っていた自分の音楽をいいと言ってくれる人たちがいる。利用者も、職員も。それは、ライヴハウスでまばらな拍手を聞くよりよっぽど充実感のあることだった。

 それなら、もう年齢も年齢なのだし、いい加減諦めて割り切った方がいいように思う。それでもどうしても諦めがつかないのが航也という男だった。

 歩きながら身体を伸ばし、ふうーっと長く息を吐く。仕事はシフト制なので決まった時間ではない。明日は昼からだ。今日もいつものようにコンビニで好きなフィナンシェでも買ってのんびり過ごそう。そう思っていつもの通り道である公園を通ると、そこに航平がいた。

「あ」

 しかし航平は自分に気づかず、ひたすら三毛猫を写生していた。猫の方も満更ではない様子(だったら面白いのになと航也は思った)でじっと航平を見つめている。

 鉛筆を手に、航平は凄まじいスピードで絵を描き上げていく。描き終えたと思ったらスケッチブックの次のページをめくり新たに描き始めている。どれぐらいこの動作を繰り返し続けているのだろう。没頭という言葉がまさに相応しかった。

 自分だって、音楽に没頭しているつもりだが、こうして没頭している航平を見ると、自分の没頭具合など大したものではないのではないかという気がしてくる。

 ぼんやりと航平を眺めていると、やがて彼はふう、と息を吐き一気に後方にいた航也の方を振り返った。

「あ!」

 へへ、と笑いながら、航也はどうも、と言った。

 さっきまでの真剣な表情から打って変わり航平は一気に満面の笑みを浮かべ航也にとてとてと近づいた。

「航也さんだぁ」

「航也さんでーす」

 ちょっとおどけてみたら想像したより遥かにウケたようだった。

「航平さんでーす」

 と、自分のセリフを真似る航平は、本当に自分と一歳違いなだけなのだろうかとちょっと訝しんでしまった。生来せいらいの童顔もあるのだろうが、航平はかなり子どもっぽかった。

「猫を描いてたの?」

「はい!」と、大きくうなずく。「あの子、ここの公園にときどきいるのです」

「いるのですか」

「いるのです」

 ふふ、と笑い、やがて三毛猫は去っていった。

「行っちゃった」

「根城に帰ったのかな?」

「ねじろ?」

「自分の家」

「みむちゃんのお家どこかなぁ」

「みむちゃん?」

「あの子の名前ですぅ」

 なるほど、と、航也はうなずく。

「航也さん、お家に帰るの?」

 これまで利用者以外の人間にこんなにまっすぐ目を見つめられたことはないため、航也はややたじろぐ。

「うん。そうだよ。仕事が終わって」

「そうなんだぁ」

「航平はずっと絵を描いてたの?」

「ううん〜。ぼくもお仕事行ってて、三時頃帰ってきて、それからおやつ食べて、それから公園に来て、みむちゃんを描いてたですぅ」

「––––仕事?」

 うん、と、航平はうなずいた。

「えっと、春雨とか、ビーフンとかを、こう」と、航平はジェスチャーをした。「袋に詰めるの。そういうのですぅ」

 それを聞き、航也は航平の仕事というのがなんとなく想像がついた。利用者にもそういった施設に勤めていた人がちらほらいる。

「ふうん。頑張ってるね」

「頑張ってますぅ」

「それはよかった」

「航也さん、もう、お家帰っちゃうの?」

 と、強烈に寂しげな瞳をしたので、これは自分がなにか悪さでもしてしまったのだろうかという気に航也は一瞬なってしまった。

「そのつもりだけど」

「ぼく、絵を描いてるから、またぼくん家に来てくださーい」

 まるで自分が航也を家に招待するのは当たり前のことだと言わんばかりに航平は言った。

 へへ、と航也は頬を掻く。

「参ったな」

「お姉ちゃんも、もうすぐ帰ってくるから、一緒にお姉ちゃんをお迎えしましょ〜」

 なんとなく航也は、航平の描きかけの渚の絵を思い浮かべ、進行具合が気になった。

「じゃあ、お邪魔しようかな。お邪魔じゃなければ」

 と言うと、航平はこの上ない満面の笑みを浮かべた。

「はいっ!」

 そして彼は航也の腕を引っ張って自宅へと向かっていく。

 相当好かれたみたいだな、俺のなにがそんなに気に入ったんだろうと思いながら、しかし、悪い気はしない。それが素直な感想だった。

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