レンズは日常を遺す

武上 晴生

約束

 空が水に落ちてこないのはなぜだろう。

 ビルがぐしゃりとつぶれないのはなぜだろう。

 人が日常を繰り返せるのはなんでだろう。

 友だちが次の日も友だちであるのは、必然なのだろうか。

 その答えは、胎児のころから知っていた。

 耳にタコができるほど聞かされてきた。

「写真を撮れ、葵」

 このカメラで、川の向こうの街を撮る。するとその街は、この写真が消えるまで、繰り返す日常の安全と安寧が約束される、らしい。

 まじないのような話。代々そうやって、瞳からカメラへと形を変えて、世界を保ってきた。そう聞いている。

 己の水晶に世界を収めよ、されば形は保たれん。

 この言葉と共に、白いカメラを受け継いだ。

 生まれる前から定まっていた使命。ちっぽけなぼくにはあまりにも荷が重すぎて、自暴自棄になって、友だちとの写真を破いたことがある。次の日、ぼくは転校することになった。父にはさんざん叱られた。撮影場所の横断歩道を見に行くと、ひび割れていた。

 また明日ね、なんて、こんな紙切れにも負ける弱い約束、なんだ。

 転校先では、なるべく目立たないように、友だちなんてできないように、退屈に平凡に過ごした。

 休みの日には、憂さを晴らすように、学校から少し離れたフェリー乗り場まで歩いて、潮風を浴びながらカメラを構えた。

 街全体が入るように。息を殺して、静かにシャッターを切る。

「パシャ」

 音がした。自分のカメラではない。横からだった。見ると、その人もこちらを見ていた。

「……葵くん、だよね?」

 たしか、クラスメイトの赤城という奴だった。

 彼の手元のカメラを見た瞬間、ふっと身体が軽くなった。

 見慣れた形のカメラだったからだ。

 同じ役割を持った人間が、この世に何人いるかなんて、考えたこともなかった。

「こういうのって、街に1人とかじゃないんだ」

 思わず呟くと、

「1人で撮るのが好きなタイプ? 人と撮る写真ってけっこう楽しいよ」

 赤城はそう笑った。

 写真を撮ることが楽しくてやってるわけじゃないし、カメラを持つのは、先祖からの約束を遂行するためだけ。そんなぼくに、彼は教えてくれた。

「美しいと思った瞬間を切り取るんだ、カメラは。このぐわああって感情を、こうやって、とどめておけるんだ。自分の世界を、誰かと共有できるんだよ。こんなにいいもんはない」

「ぐわああって、何」

「言葉じゃ表せないよ。だから写真、撮ろうよ。葵くん」

 カメラを覗く。自分の目で覗く。風が水面を揺らし、日の光がビルに当たる。

 同時にシャッター音が鳴る。

 思わず笑顔で隣を見ると、赤城もにかっと笑っている。世界は、一気に広がった。

 一瞬を、一緒に共有できることが、こんなに楽しいなんて。

 カメラがずっと愛おしくなった。

 ぼくらは毎日写真を撮り続けた。

 また明日ね、を何度も重ね、自分の心を揺さぶる瞬間を、追い求め、撮り続けた。赤城みたいに、琴線に触れる写真を撮ろうと、カメラを構え続けた。

 そんな日々が続いて、カメラから覗く景色しか見えなくなってきて。

 ぼくは咳をした。赤城はぼくを心配した。ぼくはぼくを見ようとしなかった。

 赤城がぼくの前を歩かなくなったことにも、気づけなかった。

 ある日、ふと赤城が尋ねてきた。

「どうして写真を撮ったら、その世界は保たれんだろうね」

「今更どうしたの?」

「被写体を保つためのエネルギーは、どこから供給されるんだろうなって」

「そんなものがあるの」

「わかったんだ。寿命だよ。俺らの寿命を削って、安寧をつくってるんだ」

 ぼくはカメラから顔を上げた。赤城を見ると、その目はじっとこちらを見ていた。

「葵だって分かってただろう? お前は日に日に撮る枚数が増えている。それにつれて、どんどん苦しそうになっている。写真を撮れば撮るほど、弱っていくんだ」

 赤城の目は悲しそうだった。淋しさを滲ませていた。だから、ぼくも、静かに応える。

「でも、今この瞬間に感じ取れることを大切にしたいから」

「やっぱり撮り続けるんだね。なら」

 赤城は伏目がちに言うと、カメラを構えた。

 レンズが写すのは、ぼくの姿。

 今、シャッターを切られたら。その写真を消されたら。

 ──己の水晶に世界を収めよ、されば形は保たれん。

 考える暇はなかった。彼の人差し指が動く前に、カメラの視界を切るべく、瞬時にしゃがみ込んだ。

 赤城はカメラを構え直す。その隙に、彼に接近する。そのまま突進して、彼からカメラを奪い取った。

「やめろ。どうしてこんなことを」

 ぼくは叫ぶ。赤城は目を合わせてくれない。

「お前の、俺らの今が、過去のせいで、弱っていくんだ。こんなしがらみなんて、綺麗じゃない」

 赤城は懐から、カメラを取り出した。

 ぼくが奪い取ったそれは、ダミーだった。

 止められなかった。

 彼は、一心不乱に、ボタンを押し始めた。

   消去しますか

   は い

   消去しますか

   は い

   消去しますか

   は い

 遠くの景色が赤くなっていく。川が荒れる。空が黒くなる。橋が崩れる。

「やめてよ、赤城……」

 彼の姿が、光源を失った街の色に覆われていく。

「はは、ほんとに壊れるんだな。……ほんとに、世界って壊せるんだな」

 笑い声を上げる赤城の表情はもう見えない。

「もう取り返しはつかない。会えるなら、また来世で」

 彼の足元が崩れていく。地面がボロボロと消えていく。二人ともが宙に投げ出される。

 遠くなっていく赤城を見ながら、ふと、子どもの頃を思い出していた。引っ越した日のことだ。どうして、写真を破いただけで、友人と別れなきゃいけないのか。友人は、あのあとどうなったのだろう。そう泣いていた日のことを。

 こんな簡単にすべて壊せてしまうのに、世界が、こんなに不安定でちっぽけなぼくらに任せられてしまうのか。

 それなら、どうして。

 戻す手段がある? あるいは。

 戻せないことが、正しいことだとしたら。友人は、僕の前から消えなきゃいけなかったとしたら。写真が消去されることで、世界の形が変わっていくのだとしたら。再編されることが、望まれたのだとしたら。

 ぼくは宙をもがいて、腕を伸ばして、自分のカメラを構える。自分に向けて。無我夢中だった。

 多分、ぼくのいるこの世界は、もうじき壊れてなくなってしまうのだろう。

 撮った写真には、ぼくの顔と、奥には赤城も映っている。

 それなら、最後には、彼との日常を少しでも延命させるのが、僕のやるべき使命だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レンズは日常を遺す 武上 晴生 @haru_takeue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る