青がため

武上 晴生

色彩

 はじめは青信号だった。


 「おまちください」のボタンを押して、ぼーっと突っ立っているとき、目に入った信号機に、違和感を覚えた。

 青信号が、青かった。

 小さなLEDライトの集まってできた丸い輪郭が、いつもの緑色ではなく、ほんのりと青色に染まっている。

 視線を上へとずらす。空も、心なしかいつもより青い、気がする。雲の影が青いせいかもしれない。


 視線を落とせば、コンクリートも青い。小さな凸凹の隙間が青い。

 突然雨が降り出した。

 その雨粒も、そんなわけないのに、透明な青色だった。


 視界が「青」に侵食されてから、一週間が経つ。

 原因はよく分からなかった。きっかけらしいきっかけも思い当たらない。ただ、生きているだけで、どこかに青色を見つけてしまう。

 イルカの映像を見ていた時に、そういえばデフォルメされたイルカって、青色で塗られているなぁ、と思って青いイルカの画像を調べたり、文章内の「あお」という文字列になぜか反応してしまったり、母音だけで色を表現できてしまうことに神秘性を見出したり、「まっさお」という音がいとおしく思えたり。


 スマホを開けば、青いアイコンのアプリっていろいろあるんだな、と長押ししてしまう。アイコンはふるふると左右に揺れる。震える青色たちを、画面のあちこちに散らばしてみたりする。

 手首を見ては、血管の青さを思ったり、暑い日には、ブルーハワイで青くなった舌を思い出して、前歯で舌をざりざり触ったり、唇を青くしたくて氷をバリボリ食べたり。

 青のことを考えていると、ちょっと不思議な行動をしたくなってしまう。

 良いこともあった。普段は二歩かかる踊り場を一歩で上ってしまったり、白線の擦れ具合しか見ていなかった道を、顔を上げて歩いていたり、なんだか身体が軽くなった気がするのだ。いつもはまぶたが重たくて細目で生きていたのに、今は視界がちょっと広い。



 気が向いて、電車に乗って、普段は行かない大きい文房具店に寄った。

 特に買うものがあったわけではなかった。行こうと思った理由も、自分でもよく分からなかった。あてもなく、人の少ないコーナーをうろうろと歩き回った。

 色鉛筆のコーナーで足が止まる。

 見たこともない色、百より多い色がひしめき合う中、ひときわ目を引く色があった。

 一本取ってみる。

 書いてある名前は、「ターコイズブルー」。

 色鉛筆が、光って見えた。

 今の視界にはターコイズブルーしか映っていない。これが求めていた色なのかもしれない。勢いあまって、お守り代わりに三本買った。

 ある朝、鏡を見たとき、自分の目が青い気がした。

 黒目の部分ではなく、白目にかかる睫毛の影が水色っぽい。綺麗なターコイズブルー。影には青色が含まれるから、絵の具に青を混ぜなさいと、昔、図画工作の授業で教わったのを思い出した。

 ハッとして、授業で描き終えなかった自画像を机に置く。

 黒い鉛筆だけで描かれた自画像の、目がひどく薄っぺらい。「よく見ていない」「 生きている感じがしない」、とさんざん言われて、何度も描きなおして、結局終わらなかった目だった。


 画板を敷いて、TMKポスター紙を乗せて、自分の顔が見える位置に鏡を立てて、色鉛筆をカッターで削って、左手に練り消しを、右手にターコイズブルーを。

 鏡を真っ直ぐに見つめる。白目、黒目、瞼、目蓋という言葉のくくりで分けられた輪郭がだんだん薄らいで、光の強さと影の静けさが見えるようになってくる。ゆっくり右手を動かす。

 鏡を見て、紙を見て、鏡を見て。静かな青を見極めて、丁寧に塗っていく。

 空が暗くなったころ、電気をつけようとして、椅子を立った。

 俯瞰で自画像を見て、驚いた。今までにないくらい生命感があった。形が歪んでいるところはあるものの、今までの絵はつまらなかったと感じさせるには十分だった。よく見て描くとはこういうことかと初めて納得できた。目が輝いて、生きている。


 画板には、小さくちぎられ青く染まった練り消しがいくつか転がっている。三本の色鉛筆は全部、小指より短くなっていた。

 異様な高揚感を覚えていた。上手く描けたこと、よく見るということができたこと、完成させられたこと、それ以上に。

 そうか。青になりたかったのか。

 三日三晩寝ていない、鏡に映る真っ青な顔を見て、へにゃりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青がため 武上 晴生 @haru_takeue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説