ヘビの舌

武上 晴生

すれ違う

 10時10分ぴったりに、授業のZoomミーティングが終了した。

 今日はこのあと、お昼まで休み。〆切の迫った課題もない。家族も仕事や学校で家にいない。珍しく一人でのびのびできる日だった。

 スマホのアプリを開き、今やっておくべきタスクを確かめる。印刷所に入稿した冊子の入金〆切が近い。銀行までは歩いて20分。これくらいなら、すぐ終わらせられる。意を決してパソコンを閉じた。

 クローゼットを開く。パジャマを脱いで、ズボンを履く。気温を見ながら、長袖か半袖かを迷う。思えば、バイト以外で外に出るのは久々だ。

 大学も二年目になったが、オンライン授業に慣れ過ぎてしまった。最近はカメラオンにして授業に出る人はほぼいない。一度大学で会った同学年の友人も、声も顔もおぼろげになって記憶にあるのはアイコンだけで、新しい交友関係なんかはまるで生まれる気がしない。大学生は休みに友だちと旅行に行くよね、なんて話を聞くと、もとから友人の少ない私には無縁の話だとしても、少し、虚しくなる。

 ただ、何より自分を虚しくさせているのは、この冊子だった。自分の創作を形にしたい一心で、自分で表紙を描き、今まで書いた小説をワードにまとめ、せっかくならと印刷所に依頼までした。ただの自己満足の塊ではあるけれど、この努力がもし、誰にも知られずに終わってしまったら。自分で本を作ったことが、切った自分の爪を眺めることと同レベルになってしまったらと思うと、ちょっと、いたたまれない。


 近所の庭で、花が綺麗に咲いている。それを老夫婦が立ち止まって見ていた。


 入金を終えて、帰るとき、ふと気まぐれに、普段は通らない川沿いの道を歩くことにした。

 平日の昼間だからか、犬の散歩も、高速の自転車も通っていない。自分の足のだいぶん下を、静かに水が流れているだけだった。柵と自分の頭の影が水面に浮いている。流れに逆らって、上流へと頭の影を泳がせてやった。

 すると、向こうに、細く、白く光るものが、コンクリートの上に見えた。

 川の水が盛り上がったところと同じくらい輝いている。

 いつもの歩幅で近づいてみる。

 だんだんと見えてきたそれは、ゴミや植物ではなかった。

 ヘビだった。

 鱗が日に照らされて、色はよく見えない。大きさも感覚がないので分からない。でも、この辺にいるのはアオダイショウが多いというから、たぶん無毒のそいつなのだろう。ヘビは、コンクリートのブロックを乗り継いで、下流へと進んでいた。

 昼間に見るヘビはこんなに光るものなのか、などと思いながら、そのまま歩いてすれ違おうとしたとき。自分の影が、ヘビの頭に触れた。

 ヘビは首をもたげた。

 私も足を止めた。

 影とヘビは、硬直する。


 しばらくして、ヘビがちろりと舌を出した。

 その舌の先で、自分の髪の毛が揺れていた。それで、風が強く吹いていることに気づいた。

 影の動きが落ち着くと、ヘビも舌をしまう。

 再び風が吹くと、ヘビはまたチロチロと細長い舌を見せてくれた。舌の先が二股に分かれている。目は悪いのに、薄いピンク色で、湿った舌先がきらっと光る様子は、なぜかよく見えた。

 風は何度も吹いた。そのたびに、ヘビは舌をチロチロと揺らした。威嚇ではなく、仲間と挨拶しているような、そんな気がする。あたたかでやわらかい空気が、川と陸との間を大河のように穏やかに流れた。


 しかし、自転車が背後を通り過ぎて、はっと我に返らされた。

 周りに他に人は見えなかったが、こっぱずかしくなって、普通を装って身体の向きを変える。

 ヘビもよっこらせと身体をくねらせる。

 私の影が、ヘビの頭にのっかって、胴をつたって、落ちた。


 たぶんすべては、こちらの思い込みにすぎない。ヘビが影に併せて舌を出していたのかも、影を見ていたのかも分からない。

 それでも、心の中には、久々に旧友と話したような懐かしさと、初めて英語で会話したときのような新鮮さがまだ残っている。

 本が家に届いたら、彼に報告しに行くのも、悪くないかな。

 少しだけ伸びた影が、川を軽やかに上っていった。

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ヘビの舌 武上 晴生 @haru_takeue

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