第25話
暗闇の中に、落ちていく。上も下もわからぬ永遠の黒が広がる空間、餓えと怨嗟が渦を巻いて身体が包み込まれていく。満たされない餓えが、尽きない怨嗟の声が、ここには満ちていた。
『何を食っても満たされない。こんな仕打ちをした人間が許せない。そうだろう』
ふと、誰かが云った。声のほうへ顔を向けると、もうひとりの自分……琥珀色の瞳をした赤城凛乃介が立っていた。
『この世に生きるものすべてを喰う。我らを虐げ蔑ろにする人間を殺す。それが使命、それが存在意義。お前と俺が産まれた理由だ』
すぐに直感する。琥珀色の瞳をしたあれが恐ろしい笑みを浮かべて云うそれは、凛乃助の身体の奥底に封印されていた犬神の部分だ。
『牙無き人々の明日を守る? 本当はそんなつもりもないだろうに、よくも嘯いたものだ。本当は殺したくて仕方がない癖に』
(……そんな、ことは)
『ならば何故、人々の好意を素直に受け取らない! 何故、大人たちを信用して心を開かない! 本当に、心の底から、牙無き人々の明日を守りたいなどと思っているのなら! お前はもっと彼らに愛想を振りまいていたはずだろう! どうしてそれができないのか? 答えは簡単だ。お前が、人間を、憎んでいるからだ』
(……俺は、御師の教えに従って……)
『高きに順え? 病に伏したあれを見殺しにして喰らい、試験を受けたお前がそんな志を受け継げるはずがない。お前が受け継いだものは、人間への憎悪と嫌悪、そして決して満たされぬ飢餓だ。お前は矮小な教えを云い訳にして、自身の中にある怨嗟の声から目を逸らしていたにすぎない』
一歩、また一歩と琥珀色が近づいてくる。おどろおどろしい雰囲気を纏い、否定と甘言を私語いて迫ってくる。
『お前の心根はわかっている、今更取り繕う意味もなかろう』
「乗るな、凛之助!」
琥珀色の瞳に見入られて伸ばしかけた手を、誰かがパシリと握った。小さな、温かい手だった。
(……戌子)
愛しい家族を抱きしめて、そっと髪を撫でる。サラサラとした手触りと柔らかな存在が、自分の中に溶けて混ざっていく感覚が心を満たしていく。
(いや、食べなくていい。殺さなくていい。戌子と一緒なら、俺は)
だが、琥珀色の瞳はそれすらも否定した。
『欺瞞だな。それはお前が自ら作り出した幻だ。唯一の心の拠り所であった仔犬を、食糧として食ったことへの罪悪感が作った虚像だ。温もりなどない。お前がすべて食べたのだ、空腹に耐えかねてな』
(違う、戌子は……この子は……)
『くどい! どれだけ人の真似をしたところで、お前は所詮、人間の成り損ないだ。人間の真似をしているだけだ。ゆえに孤独! 他人と心を通わせることなどできはしない! だから死んだのだ! 戌子も、御師も!』
戌子の温もりが、腕の中から消える。餓えが、怨嗟の声が、身体を貫く。
『さあ、欲望に順え』
「くっ……お、圧し負けるのじゃ……?! 凛之助、気をしっかり持て! 凛之助!」
喰らえ。殺せ。満たせ。喰らえ。殺せ。満たせ。喰らえ。殺せ。満たせ。喰らえ。殺せ。喰らえ。殺せ。満たせ。喰らえ。殺せ。満たせ。喰らえ、殺せ、満たせ。
(俺は、俺は……)
意識が、染まる。手足の先が黒く滲み、だんだんと闇の中に沈む。全身が冷たくなって、動けなくなる。このまま身を任せてしまえば、きっと楽になれる。もう苦しまなくて済むのだろう。
『さあ、共にこの世を無へ還そう』
(アア、ソウダ、スベテ、タベテ、コロサナキャ)
抜け出せない闇の中で、諦観に瞳を閉じた。
その時だった。
「凛之助さん」
誰かの声がした。一筋の光が瞼を貫いた。
(幸子、さん……?)
輝きに眩む目を開けると、笑みを浮かべて佇む言葉幸子がいた。
彼女は温かで慈愛に満ちた光と共に、凛之助の頬を両手で包んでいた。
『なんだお前は。何を……』
「必ず帰ってきてください。おまじない、ですよ」
云われて、ああ、と小さな息を吐く。
胸のポケットに入れた御守りから放たれた光が、身体を包み込む。心が熱を取り戻していく。胸の奥がぽかぽかして、気持ちが楽になってくる。
「凛之助、おぬしは独りではないのじゃ」
「ガキなんだからよ……ちったぁ、大人を頼れってんだよなぁ……」
また、ぽつりと言葉が浮かぶ。戌子の慈愛に満ちた声が、坂口所長の思いやりの籠った言葉が、身体を覆っていた黒い滲みを払う。
「凛ちゃん」
「凛坊」
「凛乃助」
新宿の人々の呼び声がする。動かせなかったはずの身体が、指先から徐々に動かせるようになる。
『まやかすな!』
琥珀色の瞳が怒りに歪む。あらゆるものに餓え、あらゆるものを憎む瞳は、響く声すら煩わしいと叫ぶ。なれど光はさらに強まり、闇を明るく照らす。
(そうか……この声は……)
温かな光に包まれて、やっと気付く。声の正体は、自分の帰りを待ってくれている人たちなのだと思い至る。そして初めて、牙無き人々の明日のためにと、己の信条と定めた言葉の意味を知った。御師から受け継い己が高きに順えという言葉に込められたに触れた。
『どうせそいつらも、俺を、お前を! 拒絶しているのだろうが!』
(違う!)
光を振り払うように刀を抜く琥珀色の瞳に、凛乃助は毅然と向き合った。
(戌子が死んで、御師が死んで、俺は失うのが怖くなった。繋がりが切れるのを恐れた。それならば最初から繋がりなどなければいいと、殻に籠っていたんだ)
誰をも信用できないと拒絶して、心の扉を閉じたのは凛之助自身だった。命あるものはいつか死ぬ、眼の前から消えてしまう。温かさは冷たさに変わってしまう。そうなると悲しくなる。苦しくなる。だから他人と繋がりたくなかった。本当は誰かの温もりを求めていた自分を押し殺していた。
(けれどあの人と、幸子さんと出会って気付いた。あの気持ちは嬉しさだった。誰かと繋がることがどれだけ素晴らしいかを、心を通わせるのがどれだけ温かいことかを知った嬉しさだったんだ!)
最初は彼女も同じだと思った。彼女も失うことを恐れて、殻に閉じこもっている人間なのだと感じた。しかし交流するうち、彼女は自分は違うのだと凛之助は気が付いた。
彼女は凛之助と違って、むしろ積極的に繋がろうとさえしていた。自分を押し殺していたのは同じだったけれど、その本質はまったくの真逆で、彼女は繋がることを恐れていなかった。それが凛之助には何よりも気高く見えたのだ。
(俺はもう失うことに怯えたくない! 俺は彼女のようになりたい!)
『ふ、ふざけるな! 今更なれるものか! お前のような人間のなり損ないが!』
怒りに染まった形相で斬り掛かる琥珀色の瞳に、光の中から現れた折れた祀狼丸を手に握り応戦する。
刃が鳴って、火花が顔を焦がした。
「なれる。なってみせる。必ず」
今はその熱さが、心強く思えた。
「戌子!」
「応なのじゃ!」
呼び声に応えて、同化していた戌子が胸の中から飛び出した。
『まやかすな!』
琥珀色の瞳が刃を振るう。戌子の爪とぶつかり合い、二度目の火花が散る。戌子はあの日、あの場所で死んだ。凛之助が縊り殺してその血肉を喰らった。彼女はもうこの世には存在しない。けれど、彼女の魂はここにある。
「戌子はいつも俺の中にいる、一緒にいてくれているんだ!」
「そうじゃ! もう独りになぞするものか、苦しめてなるものか! 次に死すときは共に骸を晒す! ゆえにわしの魂は常に凛之助と共にあり、凛之助のためにある!」
祀狼丸を居合抜きのように構えて、戌子と共に琥珀色の瞳に一歩踏み込む。舞い散った火花が折れた切っ先に宿り、やがて大太刀の如く研ぎ澄まされて熱を帯びた。
『おのれ……!』
応じる刃には何もない。熱も冷たさもなく、ただ刃としてあるのみ。勝てるはずもない。
「祀霊忠技殺法──」
一刀、二刀、三刀!
牙無き人々の明日のために、己が高きに順うために技を振るう。赫焔が乱舞して、闇を完全に消し去るように焔の狼が、黒を裂いて美しく舞い飛ぶ。
そして。
『お前は、俺の……!』
「──狼牙絶焔刃!」
最後のひと振りが、琥珀色の瞳を破断した。
「伏魔滅殺!」
「御粗末! なのじゃ!」
闇が祓われて、光が満ちる。温かさが、凛之助には心地良かった。
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