第20話

 生暖かい、赤い雫が顔に落ちる。気付けばアルに、押し倒されていた。

 アルの胸から、刃が生えていた。


「なっ……」


 状況が理解できなかった。傍から見ていた戌子ですら全容をわかっていなかった。ただアルが彼に覆い被さった途端、どこからか剣が飛んできて彼女の背に突き刺さった。

 たったそれだけの、出来事だった。


「アルティシア……エヴァンス……」


 呆然と、彼女の肩に触れる。


「だから……アルで、いいって……いってるでしょ……」


 凛之助の呼びかけに、アルはふわりと微笑むと、静かに、地面に落ちた。


(な、何が起きた? これは、なんだ? おれを、かばった……? なぜだ?)


「あそこじゃ、凛之助!」


 アルを庇うために何とか立ち上がって、戌子が指さしたその先を見る。瓦礫と化した土蔵の上に威風堂々と立ち並ぶは、黒い仮面を付けて奇妙な文様のはいった黒手袋を付けた、全身黒づくめの集団だった。


「帝都守護任陰陽師、赤城凛之助とお見受けする。赤サソリが世話になったな」


 誰かが口を開いた。凛之助ではない、黒い仮面の集団の誰かだ。


「何者だ」


 問いかけると、今度は黒仮面の者たちが次々に云った。


「我ら宇宙神秘教」


「今宵、宣戦布告に参った次第」


 宇宙神秘教。 

 聞き覚えがある。外道師赤サソリの所属していた組織だ。とすると、幸子に関する赤サソリの事件はすべて彼らが仕組んだことになる。何の目的でそのような真似をしたのかは謎だが、危険な思想、そして技術力を持つ組織だというのは間違いない。


「宣戦布告だと……いったい、何が目的だ」


「此れより我らは帝都転覆のために活動を開始する」


「星辰満る所に我らの神ぞ在り。刻限の時近し」


「心して待つが良い。終わりの時はすぐそこぞ」


「にゃる・しゅたん。にゃる・がしゃんな!」


 声を揃えて祝詞を叫ぶ。一度ならず三度も叫んだ。──にゃる・しゅたん。にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん。にゃる・がしゃんな!

 少しの乱れもなく同時に叫ぶその姿は、恐るべき狂信を感じさせるのであった。


「まずは挨拶、こちらをどうぞ」


「このバッヂが力を与えたもう」


「完成したるその力を見るが良い」


 件の金属片。彼らの云うところのバッヂを右手を天に向けて口々に叫ぶ。邪悪な霊力が彼らの姿かたちを変えて、それぞれが異形の化け物へと変化していく。赤サソリの時と同じ現象……否。赤サソリの時よりも禍々しく、それでいて完璧に制御された変身だった。

 凛之助の疑念は、ついに確信へと変わる。奴らこそ邪悪の根源! 牙無き人々の明日を奪う、魔に魅入られし者ども。すなわち、討つべき敵であると!


「悔しいが、ここは逃げるしかない……」


「うむ……」


 だが、このまま戦うことはできない。満身創痍に霊力の枯渇、さらには早急に手当てをしなければならない相手もいる。三十六計逃げるに如かず。口惜しいが、退くしかない。


「そう易々と逃がすとでも思うか?」


 しかしそれを察した怪異たちが、一斉に動き出した。戦うのではなく、まるで陣を作るかのような奇妙な動きであった。何か強大なものが来る、凛之助は直感に従って袖口に隠した移動用の呪符に指をかけた。


「帝都守護任、お前には死すら与えぬ」


「我らが死すら生温い苦しみをその身に刻んでくれよう」


「そして我らが主神降臨の暁には、その魂を贄と捧げてくれよう」


 呪言が響く。陰陽師が使うどの術にも属さない、無造作に選んだ言葉を幾重にも重ね合わせたかのような音の羅列は、やがて真っ黒な渦となって地面に広がり、ふたりの身体を飲み込んでいく。


「ぐっ、これは……!」


「う、うごけんのじゃ……!?」


 渦の中から伸びてきた無数の手が身体に絡みついて、黒の底へと誘う。身動きのひとつもできない。封印転移術! 相手の力を封じてその身を不浄の地へ移動させる脱出不可能な外道の術である。こうなってはなす術ない。万事休すであった。


「……戌子……すまない」


 最後の力を振り絞って、移動用の呪符を戌子に向ける。


「陰流・解転送移(かいてんそうい)……」


 凛之助が罪悪感に満ちた声で呟き、なけなしの霊力を使って奥の手である脱出用の結界術を発動させる。

 戌子とアルを、この場から逃がすためだけに。


「これは……ま、待て! 凛之助! おぬしは、おぬしはどうするのじゃ!?」


 呪符によって作り出された扉が空中に現れ、中から伸びてきた光の帯が戌子とアルティシアのふたりを絡め取る。


「その扉は坂口所長のところに繋がってる。あの人に事情を話せ、あの人ならきっと手立てを考えてくれるはずだ」


「置いて行けるものか! おぬしを置いて! また、おぬしを……ひとりぼっちには……!」 


 地面に爪を立てて逃れようとするけれど、光の帯はまったく意に返さずに戌子の身体を扉の中に引きずり込んでいく。

 両手の爪が剥がれようとも、食いしばった奥歯が砕けようとも。凛之助の意思の固さを反映するように、引き摺られていく。


「くそっ、やめろ! 離せ、離さんか! はなせェ!」


「幸子さんを頼んだよ、戌子」


「凛之助ぇぇぇぇええええええええええええええええええええええ!」


 最後に伸ばした戌子の手に、凛之助は答えずに前を向いた。戌子の絶叫が扉の閉まる音で途切れ、扉が閉じられる。これでもう、戌子に危険は及ばない。


「律儀に待っていてくれるとは、存外と温いのだな」


「別れの挨拶、邪魔するのは無粋の極み」


「良い演出だ。感動的だ」


「だが無意味だ」


 凛之助に嘲笑の籠った声で黒仮面たちが答えると、頭領らしい先頭の男が真面目な声になって告げる。


「すでに我らが生贄を確保している」


「今更なにをしようと無駄なことだ」


「宇宙は、神秘力によって新たに生まれ変わるのだ」


「天地空、之にて終結である」


 凛之助の全身が影に飲み込まれたのを見届けると、怪異たちが悍ましき勝鬨を上げ、やがて来るその時を想像して、誰もが歓喜に打ち震えた。これでもう邪魔する者はいない。彼女に埋め込んだ銀の鍵はまだバレてはいない。正体も知られていない。順調の極みなり。


「まろかれのときぞちかし!」


 華の大帝都に、地獄の門が開く。


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