第17話
東京はモダンの発信地たる銀座の一等地。瀟洒な西洋風の門の奥で貞淑に軒を構えるは、日本の未来を背負う立派な淑女を目指し、華も恥じらう乙女たちが精進の毎日を送っている帝都でも有数の女学校、玉依姫女学校(たまよりのひめじょがっこう)。ここでは最近、ちょっとした話題が生徒の間で流行っていた。
ただそれというのは、別に怪異に繋がるようなものではない。本当に些細で、身近な話だった。
「ほら見て、またあの書生さんがいるわ。幸子ー、お迎えの方が来てるわよ!」
「御付きの狩ヶ瀬様に加えて、今度は美丈夫の書生様ですか。まったく羨ましいことで」
「あら、今日はあんぱんを抱えているのだわ、あの殿方」
「本当、袋に山盛りですわね。王子様のように奇麗なお顔をしていらっしゃるのに、すごい健啖家ですのね」
「あれを健啖家といっていいのかしら……?」
(凛之助様……お迎えに来てくれるのはありがたいけれど、どうして毎日毎日食べ物を抱えてくるのですか!? みんなに噂されて恥ずかしいじゃないですか!)
窓辺に集まってきゃいきゃいと騒ぐ女子たちに、幸子は羞恥で顔を赤らんだ顔を伏せる。
毎日校門の前まで車と一緒に幸子を迎えに来る、凛之助の姿がとにかく話題になっているのだ。
ただでさえ身分高い家の子女が集う場所のために、同年代の男子との交わりが極端に少ない乙女の花園たるこの女学校。ここに突如として現れた同年代の男子である凛之助という存在は、年頃の乙女の好奇心をツンツンと刺激した。
しかもそれがばかみたいな量を買い食いしている男子ともなれば、それだけでもう話題は尽きないのである。ただでさえ付き人と馭者を兼任する狩ヶ瀬を連れていた幸子だったのが、余計にであった。
「ねえねえ、言葉さん。あの方って、やっぱり貴女の許嫁か何かなの?」
「もしかして……恋人だったり!」
「ち、違います! あの人は、そういうんじゃ……」
「えー? 本当に? あの人が来た初日には、真っ先に飛び出してたのに?」
「あ、あれはその……あの日は、そう、習い事が……生け花の習い事があって……」
「ふぅン? でも私の記憶だと、毎週水曜日は生け花どころか何の習い事もなかったはずだけどねぇ」
「嘘吐いたってこと? じゃあやっぱり恋人さんなんだ!」
「違います! 違いますから、本当に! あの人はもっと、こう……違うと云うか!」
「そうやってムキになっちゃうところが怪しいんだ~」
きゃあと悲鳴めいた歓声を上げる女子たちに、幸子はタジタジなって内心で反論した。
(そりゃあ、確かに? ちょっとあの人に興味があるけれど……でも、あの人のことが、す、す、好きだなんて! 色恋にうつつを抜かして、はしたない女みたいじゃないの!)
こう云い訳しているが、幸子だって年頃だし同年代の男子とは交流がほとんどないので、多少どころか大いに色恋に興味があった。急に降って湧いた同年代の男子が気にならないと云えば嘘になる。どころか、食べ歩きに連れてってもらってから、彼のことがものすごく気になって仕方がなかった。
彼の微笑が頭から離れなかった。彼の声が耳に残って響いていた。もっと仲良くなってみたい、もっとあの人のことを知ってみたい、あの仏頂面の下にある感情を暴いてみたい。自分でも訳がわからないくらいに、好奇心が腹の奥底からムクムクと出てくる。彼という存在が心を掴んで離さない。
言葉幸子は、本人は自覚がないし認めもしないけれど、赤城凛之助に夢中だった。
「と、とにかく! 彼とはそういうんじゃないですから、勘違いしないでください!」
「ねえねえ、聞いた? 彼ですって!」
「これはひょっとすると、ひょっとするかもしれないわね~?」
「もう! みんなったら、付き合ってられないんだから! 私、帰りますからね!」
可愛らしく頬を膨らませて、教室を出ていく。
友人たちにからかわれて、そんな気持ちなんて微塵もないのに失礼しちゃうわ、なんて恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。でも気付けば彼女の足は自然と早足になっていて、いつの間にか恥ずかしい気持ちも吹き飛んで駆け出してしまった。
「ほむ……」
一方、あんぱんを食べながら幸子を待つ凛之助のほうにも、些細ながら変化があった。
なんだか近頃、いつもより食事の味が薄い気がする。幸子と食事をした日から、食べ物が味気ないと思う日も増えた。最初はまったくの気のせいかと考えたけれど、食べれば食べるほど味気なくなる。初めての感覚だった。食事に対してこんなことを感じるとは予想もしていなかった凛之助は、自身の変化に少なからず戸惑いを覚えていた。
(おかしな感覚だ。まるで、隣にぽっかりと穴が開いてしまったような……)
『うん? 凛之助、どうかしたのじゃ?』
「いや、何でもないさ」
戌子に問われて、気のせいだろうと肩を竦める。
「おい、来たぜ」
その時ちょうど、息を弾ませながら幸子が駆け寄ってきたのが見えて、運転席の坂口が溜め息混じりに凛之助へ呼びかけた。
「すみません、お待たせしましたっ」
「いえ、待ってはいません」
息を切らした幸子に、凛之助はあんぱんを飲み込んでからいつもの無表情で答えた。
さっきまではあんなにも味気なかったあんぱんが急に味を取り戻した気がして、凛之助は不思議な感覚に包まれた。でも、悪い気分ではない。むしろ隣にできた穴がすっぽりと埋まってしまったような、心地良ささえあった気がした。
「あら、今日は坂口様なのですね」
「狩々瀬のほうはなにか私用があるとのことで、僭越ながら自分が運転させていただきますので、」
「ありがとうございます。くれぐれも安全運転でお願い致しますね」
「もちろんです。プロですから」
妙に角ばった言い方をした坂口に微笑みで返して、幸子は凛之助と戌子のほうを振り返った。お淑やかに見えたが、その表情はいかにも楽しそうな、非日常にわくわくしている様子であった。
「それでは、帰りましょうっ」
『うむ、れっつらごー! なのじゃ!』
「どうぞ、足元にお気をつけて」
差し出した手を握って、言葉家の車に乗り込む。傍らでは戌子が嬉しそうに笑顔を浮かべている。ここ一週間でふたりともすっかり見慣れてしまった光景だ。
「あら、今日は坂口が運転するのですね?」
「ええ、まあ。予定がなかったもので」
バックミラー越しにそう答えた坂口は、燐寸で煙草に火の点けよとして、しかし何もしないまま気怠そうにアクセルペダルを踏んだ。
ふと幸子は、友人のひとりが凛之助のことを王子様みたいに奇麗な顔をしていると云っていたのを思い出して、彼の顔をまじまじと眺めた。
長いまつ毛に、澄み切った瑠璃色の瞳。帽子の下から零れる髪は濡れ羽色で、唇は女子のような艶やかさを帯びている。率直に云って、端正な顔立ちをしていた。まるで西洋のお伽絵巻に出てくる、お姫様を華麗にエスコートする王子様みたいだ。
「……? 自分の顔に、何か?」
「い、いえ! なんでも!」
『むむむ……』
慌てて誤魔化して、車に乗り込む。そんなことを考えた。きっとみんなにからかわれて、意識してしまっているんだと、幸子は自分に聞かせた。残念ながら効果は薄く、幸子は妙に意識してしまって落ち着かなくなって道中穏やかでなかった。凛之助は変わらず無口無表情で周囲の警戒を怠らず、戌子は凛之助の膝で窓の外を眺めていて、どうしようもない沈黙が車内には漂っていた。
「あ、あのっ」
耐えきれず、幸子が声を発した。凛之助は車窓から正面に視線を移して、彼女の少し赤らんだ顔を見た。
「その……凛之助様は、どうして陰陽師になったのですか」
「急に、どうされましたか」
「い、いえ! なんだかその、凛之助様のことを、もっと知っておきたいと云いますか、気になったと云いますか……と、とにかく! お話を聞いてみたいな〜と思いまして」
「そうですか」
『むむむむむ……』
云い訳するみたいに慌ただしい口調で幸子が弁解して、妙な理論を振りかざして自分語りを始める。緊張でうまく頭が回っていないからこうなっているのだ。
「だめ……でしょうか?」
「いえ、問題はありません。お話ししましょう」
凛之助は幸子のそれを変に思いつつも別段隠すことでもないので話してやることにした。
と言っても、話すことなどあまりない。
捨て子であったところを御師に拾われ、陰陽師としての修行をつけてもらった。そして修行をやり遂げた後に、試験を乗り越えて帝都守護任となった。
それだけのことである。
「その……凛之助様は、どうして陰陽師になったのですか」
「急に、どうされましたか」
「い、いえ! なんだかその、凛之助様のことを、もっと知っておきたいと云いますか、気になったと云いますか……と、とにかく! お話を聞いてみたいな~と思いまして」
「そうですか」
『むむむむむ……』
云い訳するみたいに慌ただしい口調で幸子が弁解して、妙な理論を振りかざして自分語りを始める。緊張でうまく頭が回っていないからこうなっているのだ。
「だめ……でしょうか?」
「いえ、問題はありません。お話ししましょう」
凛之助は幸子のそれを変に思いつつも別段隠すことでもないので話してやることにした。
「私が陰陽師になった理由ですが、なんてことはありません。陰陽師である御師に拾われたからです」
「拾われた……」
『うむ。わしらはな、捨て子であったのじゃ』
幸子が目を瞬かせる。凛乃助はどこか懐かしむような口調で続けた。
「自分が七つ……いえ六つの頃でしょうか。陰陽師であった御師に、捨て子であった自分は拾われました。そして陰陽師に拾われた自分は、やはり御師の後継として育てられたのです」
『六十近い爺さんじゃったからの、そろそろ後継が欲しかったんじゃろうなあ』
「そうだったのですね。御師様は、どんな方でしたか」
「御師は驚くほど寡黙で口数が少なく、話しかけなければ答えない人で、時にはまったく口を聞かない日もありました」
「まぁ、そんなに……でも、愛されてはいたんですよね?」
祈るみたいな声で云われて、凛乃助は首肯する。
「陰陽師の修行は厳しく苛烈でしたが、修行を終えるといつも年季のはいった皺くちゃの手で、頭を撫でてくれました。言葉はありませんでしたが、自分にはそれで十分でした」
決して楽ではない日々であったが、最後に御師の手の温もりがあるだけで凛乃助は修行を頑張れた。ただ撫でてくれるだけでも、御師の気持ちが伝わったから乗り越えられた。
「……愛されて、いたんですね」
「はい」
あからさまにホッとした幸子に、凛乃助は朗らかな笑みを浮かべる。幸子はその笑みにまたドキリとした胸の高鳴りを覚えて、熱を持った顔を逸らした。もちろん、視線は逸らさないままで。
「御師の修行を乗り越えて、十五になって無事に皆伝……陰陽師になった自分は、帝都守護任の試練を受けました」
凛乃助はここで言葉を切ると、車窓から外を眺めて哀愁の情を瞳に浮かべた。
「惜しむらくは、試練の前に御師が病に臥せてしまったことです。不治の病でした。やはり心苦しく……試練を辞して御師の介護を優先しようかとも悩みました」
『高齢ゆえに長くないことが理解していたんじゃが、こう急ではな、わしらもちと堪えたのじゃ……』
「けれど、おふたりは……」
「"悪しきに屈せず、己が高きに順え"。御師が死の直前に遺した言葉に従い、自分は御師の魂魄をも食らって試練を受けました。辛く厳しい戦いでしたが、現在自分がこうして言葉幸子様の護衛としているのが、結果であります」
「そんな、とんでもありません……御師様はきっと、凛之助様を誇りに思っていますよ」
感動とも同情とも見える表情の幸子に、凛乃助は顔を戻して頷いた。御師の魂と言葉は、今も胸の中にある。己が信ずるべき高き志もまた、胸の中にある。
「牙無き人々のために。それが自分の、高きと信じて順う決意です」
胸に手を当てて云った凛乃助の、なんと清々しい表情か。幸子は彼の気高さに内心で感嘆した。見惚れたと云っても良い。
胸の奥が熱くなって、我知らず唾を飲み込んだ。彼のような気高い人になりたい、彼に似合うような人になりたいと、自然にそう思った。
『むぅ……そ、そうじゃ!幸子は昔どんな子供だったんじゃ? 聞いてみたいのじゃ!』
「えっ。あ、ああそうですね!?」
なにやら乙女の危機感をビンビンと感じとった戌子が、勢いよく両手を叩いて声を上げる。それでハッとした幸子は、慌てて背筋を伸ばした。
「自分も、少し気になります。言葉幸子様の幼少の頃の話を、お聞かせください」
戌子の提案に凛乃助が頷く。彼女の過去には興味があったので、少しだけ聞いてみたいと思った。もしかしたら幸子の過去にこそ、彼女に抱いたこの親近感の正体が潜んでいるんじゃないかと思った。
「えぅ……は、はい……少し重苦しい話になりますけれど、よろしいですか?」
「構いません。自分はどのような話であろうと聞きますゆえ」
わずかに目元を緩めた凛之助に、幸子は恥ずかしさを誤魔化すために右手を胸に当てて、深呼吸をしてから話を始めた。
「私は、その……小さな頃は、けっこう気難しい子供でして」
幸子の幼少期は、決して幸せばかりではなかった。
幸子が産まれてから少しして母が死んだ。難産の末に体力を使い果たした結果、流行り病によって死んだ。母は自らの命と引き換えに幸子を産み落としたのだ。
産まれながらに母を殺した彼女は、父から距離を置かれた。他の家と比べればよほど格式高く裕福な家に産まれたのは確かだが、彼女自身の心は満たされなかった。幼心に父が恋しかった。遠ざけられるのではなく自分を愛して欲しかった。ある程度成長して社交界に出るようになると他家の家族を見るようになった。いっそう父の温もりが恋しくなった。
「産まれた時から私の世話をしてくれた狩ヶ瀬が、父親の代わりのようなものでした。彼は母の代から言葉家に仕えていた使用人でしたから……私に良くしてくれました」
家族の温もりを知らぬまま乳母と使用人たちに育てられた幸子は、そのうちに、愛情をくれない父に対して反抗的な態度を取るようになった。勉学を怠り、習い事をサボっては父のものを壊したり汚したりして回った。
そうしてある社交界の日、幸子は会場を抜け出した。愛してくれない父に見切りをつけて、新しい父親を探そうと思ったのだ。無論、そんな目論見が成功するはずがない。幸子は犯罪組織に身代金目的の人攫いにあった。
「気付けば私は、自室のベッドに寝かされていました。私が目覚めたのは、何もかもが終わった後でした」
泣き疲れて眠る父の横で「旦那様は幸子が攫われた直後から、あらゆる場所や人を伝手を使って貴女を探すために奔走し、賊に攫われたと知るや否や身柄を取り返すために家が傾くほどの金額を、千円もの多額の身代金を支払ったのですよ」と乳母から伝えられた時、幸子は初めて、父が自分を愛してくれていたのだと知った。
「それ以来、私は父の愛に報いるため言葉家に相応しい女になろうと決めたのです。習い事もサボらず、勉学に励み、言葉家を支える女になるのだと」
話し終えて、幸子は探るように凛之助の顔を見つめた。
「立派な、志です」
凛之助もまた、幸子の顔を見つめていた。
「……ありがとう、ございます」
そうあれかしと己を定義して生きるふたりの間に、この瞬間、はっきりと意識が通った気がした。相手が身に着けている仮面の下の素顔をこっそりと知ったような、密やかで不思議な繋がりができた自覚が、この男女の間で芽生えたのだ。
「そ、そろそろ着きそうですねっ」
嬉しさと恥ずかしさでにやけそうになった顔を隠すために、幸子が急に窓のほうを向く。
この短時間でいくつも見たことのない表情を目撃した。自分だけは知っている、彼の素顔。そのどれもが燦然と脳裏に焼き付いて、思い出すだけで耳が熱くなってしまう。
(い、いやいや! これは錯覚、錯覚よ! みんなにからかわれてからずっと変に意識しちゃって、だからこうなってるだけよ!)
そんなはずない。そんなはずはない。自分に云い聞かせて赤くなった頭を振る。右手を握って落ち着けと云い聞かせる。けれど違うと思えば思うほど、そんな気がして、幸子はますます気持ちが高ぶってしまう。
『むぅ~~~……!』
急速に近付いていくふたりの距離に、危機感を覚えるのは戌子ばかりであった。
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