第16話

 煤除けの蛇の目傘を開いた幸子と狩ヶ瀬を伴って食べ歩きの旅に出発した。

 新宿の街はいつもと変わらぬ喧騒で満ちている。垂れこめる霧さえも吹き飛ばさんとする活気が渦を巻き、雄渾な響きを以って人々の顔に笑顔の火を灯している。各所から吹き出る蒸気は天高く昇り、ヨイトマケの歌は今日も地に響いていた。

 しかし煌びやかなのは表側だけ。陰の滴る路地裏を見やれば、そこには煤と排煙にやられて肺を病んだらしい人や、煤に塗れたままゴミを漁る浮浪者。盗みを働こうと屋台の影から機を窺う浮浪児たちに、外の蒸気パイプに腰かけて暖を取りながらカビの生えたパンを分け合う痩せっこけた親子がいる。

 発展途上の街がゆえの、光と闇。それがここには、ありありと存在していた。


「すごい人だかりですね」


 きょろきょろと落ち着きなく通りを見廻す幸子が呟く。屋敷の窓や車の窓から眺めるだけだった人だかりを実際に体験して、熱量とざわめきに圧倒されていた。いろんなものが新鮮で、美しくて堪らなくて、いろんなものに目移りしてしまう。


「これだけの人です、万が一にもはぐれぬようにお願いします」


『新宿はこんなじゃから破落戸も多いからのぉ、気を付けるんじゃぞ』


「お気遣いありがとうございます、おふたりとも。狩ヶ瀬も、気を付けてね」


「はい、幸子お嬢様がはぐれぬようにしっかりとお守りいたします」


 三人は新宿の街をゆっくり進んだ。だが労働者であふれた街では幸子のお嬢様然とした姿は嫌でも人目につき、その横を歩くのが暴食で有名な凛之助であればなお目立つ。そのうちに顔馴染みの人々からやんややんやと声を掛けられてもみくちゃにされてしまった。


「あら、凛ちゃん! その子どうしたんだい!」


「こんにちは。今は街の案内をしているところです」


「ど、どうも」


「あらあら、どうもお嬢さん! お近づきの印にうちの肉まんはいかが?」


「わぁ! いいんですか? こんなに大きな肉まんをタダで!」


「いいのいいの! ささっ、遠慮なく食べてくんな!」


「いつもありがとうございます。それと凛ちゃんではありません、凛之助です」


「よお凛坊! 今日は団子屋を潰したんだって?」


「潰してません、材料枯渇による営業停止になっただけです」


「それを潰してるって云ってるんじゃないかしら……」


「オイオイ凛の坊主、別嬪連れてるぜ!」


「ついに女ができたか、やるねえ!」


「え、ええっ!? ち、違います! そういうんじゃ!」


「依頼人である彼女の周辺地理把握のため、この街を案内しているだけです」


「……そんなばっさり切られると、こちらとしてもなんだか釈然としないのですが」


「仰っている意味が、わかりかねます」


「もうっ」


「ワォ。見ろよ、あれが罪な男ってやつだぜきっと」


「馬鹿なこと云ってんじゃねえや、とっとと働けっての!」


 さきほど団子屋の屋台を店終いに追い込んだばかりの凛之助が、何やら美少女を連れて歩いている。こんな面白い出来事は囃にゃそんだと、街の人々は盛んに話しかけてきた。

 帝都守護任陰陽師とはいってもまだ二十にも満たぬ子供。その上陰陽師なんて知らないこの街の人々にとって、息子や孫のような存在としてとくに可愛がられていた。


「街の人たちに、慕われているんですね」


 凛之助は答えなかった。ただ居心地の良いような悪いような不思議な顔をするばかりで、人からの好意にはあまり慣れていない雰囲気を醸している。

 彼からしてみれば、どうして街の人たちがよくよく自分に世話を焼くのかわからなかった。彼は陰惨な過去を持つがゆえに他者に対して心の扉を固く閉ざして、決して開かぬように自ら鍵をしていた。だから街の人々の好意を、素直に受け取れない。大人という存在を、いまいち信用し切れない。

 幸子からしてその姿は、自身に重なるものがあった。誰もがひとりの少女ではなく、言葉家の令嬢として接してくる中で、良き大人と悪い大人の区別を早々に覚えねばならなかった彼女も、やはり大人からの素直な好意を受け取るには慣れていない。

 だから幸子は、ますます凛之助という存在に親近感を抱き、興味を惹かれた。


「こんなにも多くの人に好かれているのは、凛乃助様の人徳のおかげなのでしょうね」


「お戯れを」


 笑えない冗談でも云われたような凛之助の声に、幸子はまるでツンとすました子供みたいだと思った。大人になろうとしている子供の態度に見えて、また少しだけ親近感を覚える。身勝手ながら、自分と似ていると感じて嬉しい気持ちになる。ちょっとだけだけ、からかってみたいと悪戯心が湧き出てくるのも、なくはない。


「それにしても、新宿の街はずいぶんとにぎやかですのね。人がたくさんいて、それに骨組みだけのビルヂングも、こんなにたくさんあるなんて」


「発展途上の街です。建設のため労働者や出稼ぎにきた人々が多くいますので、活気という点では他の地区に勝るとも劣らぬでしょう」


 天高くそびえる高級ビルヂングや煌びやかな西洋屋敷、美しく手入れされた日本庭園ばかりを見てきた幸子にとって、この光景はとても奇妙なものに映った。奇妙と云っても、それはまるで、浅草公園の見世物小屋を見て歩いているような、あるいは万博で異国情緒あふれる不思議なものたちに囲まれているような、そういうお祭りの日を練り歩く楽しさに包まれている感覚に近い。できればずっとこの中で過ごしていたいくらいだった。


「銀座でもまったく見ないひとだかりなのですから、きっと貴方の云う通りなのでしょうね。ふふっ、食べ歩きも楽しみですわ」


「期待には応えます。そのために選んだのですから、当然です」


「ええ。貴方が紹介してくださるのです。きっと良いものだと、信じていますよ」


 朗らかに微笑んだ幸子から、凛之助はそうですかと云って目を背けた。からかわれているとわかっていながら、どうしてか悪い気持ちにならない自分に困ったのであった。

 そうやって、他愛もない話をして歩いていると、ついに凛之助が贔屓にしている飲食店に辿り着いた。店は平屋の小さな定食屋で小汚いとはっきり云ってしまえる面構えだった。


「着きました。まずはここで、食事などを」


「趣のある店ですのね」


 下町情緒に溢れた店を前に、幸子は目を皿にした。もちろん悪い意味で驚いたのではない、自身の生活圏内ではまず存在しえない珍しいものに、まったく不思議だと感動しているのだ。横の狩ヶ瀬はあまり良い顔をしていないけれど。


「おふたりにとってはよろしくない見てくれと思われるでしょうが。ご期待には沿えるかと」


「そうでなければ困ります。これだけ期待したのですから、その分の責任は取ってもらわねばなりませんから」


「幸子お嬢様、あまりはしゃぎませぬように」


「わかっています! 狩ヶ瀬ったら、いっつも神経質なんだから」


 ツンと顔を背けていかにも子供っぽく答えた幸子は、らしくないと思いながらこうするのが正しいと振舞った。たまには子供らしくしたいのだ、こういう凛之助の横だから余計にそうしたいと考えてしまったのかもしれない。

 店内は見た目に違わず汚い。引き戸は開けにくいし、天井は機関ランプの煤で黒く変色している。壁はところどころ壁紙が剥がれていて、中の蒸気管がむき出しだ。


「おや、凛ちゃん。今日はどうしたんだい」


「お邪魔します。おばあ様、お客人をお連れしました。それと凜ちゃんではありません、凛之助です」


 対応したのは歳の重なった老人であった。垂れた顔に温和なものを湛えていて、見るからに人好きする顔の女性だ。 


「かわいらしいお嬢さんねえ」


「お邪魔します、おばあ様。赤城様の紹介でこちらに来ました、おいしい料理が食べられると伺っております」


「あら、あらあら。そんなことを云われたら、年甲斐もなく張り切っちゃうねえ。さあさあ、お掛けになって」


 老婆はにっこりと微笑み、カウンターの席を勧める。足が悪くてガタガタと鳴る椅子に四人揃って──狩ヶ瀬は幸子に半ば無理やり、戌子は自然に凛之助の膝の上に──座ると、老婆が奥から出てお品書きを手渡してくれた。

 色褪せた品書きは手書きで作られており、愛嬌のある絵が描かれている。凛之助は見慣れたもので気にも留めなかったが、幸子にとっては見ていて楽しいものであった。


「おばあ様、このお店のおすすめはございますか?」


「そうねぇ、天麩羅蕎麦なんてどうだい? 知り合いから今朝獲れたばっかりのエビを融通してもらったんでねえ、あったかいお蕎麦と一緒にいただくのが乙だと思うわ」


「まあ! でしたらぜひそれでお願いします!」


「そちらの殿方は?」


「私は、いえ私も同じものを」


「はいよ。……その手袋、最近もみたけど流行りなんかい?」


「ん、そうですね。旦那様から許可をもらって身に着けてる私物です」


「へぇ、最近の若い子はお洒落なんだねえ。凛ちゃんはいつものかい?」


「お願いします。それから凜ちゃんではありません、凛之助です」


「あいよ。あんたー! 天麩羅蕎麦ふたつと、いつもの奴だってよぉ!」


 全員分の注文を取り終えると、老婆は奥の調理場に引っ込んで、さっきとは別人みたいな大きな声で旦那さんに注文を告げた。奥からは年を感じさせない伊勢の良い声が聞こえてきて、幸子はちょっとだけびっくりしてしまった。


「元気な方々ですのね。私、失礼ですけど、こう元気なご老人を見るのは初めてですわ」


「還暦を過ぎてなお現役のお歴々です。料理人としての腕も一流ですから、高級料理店とはまた違った美食を感じることができるでしょう」


「まあまあまあまあ。そんな褒められても、天麩羅しか出てこないわよ凜ちゃん」


「ですから凜ちゃんではありません、凛之助です」 


 ちょっとむず痒そうにころころと笑った老婆は、照れ隠しするみたいに厨房の奥へと引っ込んでいった。きっと料理をしている翁の夫に褒められたことを伝えに行ったのだろう。共白髪になるまで連れ添ったふたり、さすがに何年たっても仲睦まじくある。


「そういえば、戌子さんは先ほどから黙ったままですが」


「余人には見えませんので、人がいる場では極力しゃべらぬように自重しているのです。一人でなにかと話しているみたいに話していては、端から見れば気狂いでしょう」


「それは、そうかもしれませんが……」


『なぁに、わしはなんも気にしとらんのじゃ。凛之助とは言葉はなくとも心と身体で通じ合っているからの、ちっともさみしくなんてないのじゃ』


「そう、ですか。戌子さんは強い方なのですね」


『むっふふ! そうじゃぞ、わしはとっても強い女なのじゃ! まあでも、欲を云えば周りに憚らず凛之助と”らぶらぶ”したいのじゃが……あ! もちろん、幸子とも仲良くしたいし、いっぱい遊びたいのじゃ! わし、公園で玉遊びとかしたいのじゃ!』


「ええ、私もです。機会がありましたら、ぜひ一緒に遊びましょうね」


『うむ、うむ! 凛之助と一緒に遊ぶのじゃ!』


「戌子、その辺にしろ。戻ってくる」


 膝の上でひょこひょこと跳ねる戌子の身体を、腕を組むみたいにして押さえ付けて、凛之助が軽く叱責する。顔を上げれば確かに、両手に蕎麦の器を携えた老婆が満面の笑みで厨房から出てくるところであった。


「あいよ、おまちどうさん。天麩羅蕎麦二人前だよ」


 ドンと目の前に置かれた天麩羅蕎麦に、幸子は我知らずにわあと声を上げた。丼はみ出すほど大きな天麩羅、エビと、白身魚と、それに野菜をふんだんに使ったかき揚げの三種類が乗っかっていて、その下にある奇麗に透き通ったつゆと自家製らしい太めの麺が、いかにもおいしそうな匂いを放っていた。


「こ、これは……すごくおいしそうですね! 失礼ですがさっそくいただいても?」


「ええ、どうぞ。冷めないうちに食べてくださいな」


「では、お言葉に甘えて」


 普段食べているのとはまったく違う、いかにも下町情緒あふれる料理を前に、幸子は逸る気持ちに促されるまま、するりと箸を伸ばす。

 まずは麺を食した。太い麺は噛めば噛むほど蕎麦の香りを存分に放ち、つゆの風味と一緒になって口内にじんわりと広がって鼻を抜けていく。大きな天麩羅はサクサクとした触感で、下味がないゆえ素材の味をより強く感じられる。つゆを吸い取った衣も味が変わってまた美味だった。


「おいしい……!」


 下品だとは思いつつも、夢中になって食べてしまう。初めて食べた庶民の味は、高級な料亭や西洋料理の店に比べても劣らない、むしろ勝ってるんじゃないかと感じるほどだ。こんなものを毎日食べられるなんてずるいとさえ思ってしまったくらいだ。


「はいよ。凜ちゃんも、おまちどうさん」


「ありがとうございます」


「へぶっ」


 そうこうしているうちに凛之助の料理が来たのだが、これがまたとんでもない量だったので幸子は思わずむせてしまった。

 文字通り山盛りのご飯に、これまた山盛りの漬物、それから塩焼きのホッケが五枚と、たっぷりの大根おろし、最後には丼に注がれた味噌汁。これにはさすがに幸子もつっこむのを抑えきれなかった。


「そ、その量を食べるんですか!?」


「……? はい、食べますが」


「さっきあれだけ団子を食べたのに!?」


「まだ腹二分目です。これでだいたい五分目でしょうか」


「ウソでしょ……!? い、いったいどんな身体をしているのかしら……!」


「幸子お嬢様、言葉遣いが乱れております」


「久々に見たねえ、凜ちゃんの食べる量にびっくりする人」


 街の人々はもうすっかり慣れてしまって何も云わないが、凛之助の大食いはとにかく異常の一言に尽きる。自分の身体よりも多くの食べ物を収めるその身体はどうなっているのか、たぶん食べている本人ですらわかっていないだろう。彼を指して暴食の権化と云うのは、まったく誇張なしの表現なのである。

 その上に、食べるのも早かった。凛之助はひたすら静かに箸と口を動かすだけで、味わって食べているのか疑わしい調子で、まったく言葉を発しないで食べている。話しかければ答えは返ってくるのだろうが、ひょいひょいと普通に食事をする調子で、休みなく山を崩していくのだ。どこで話しかけたら良いのかわかったものではない。


「え、えぇ……」


 常識はずれにもほどがある光景に、幸子はもう開いた口が塞がらなかった。開きすぎて顎がはずれそうになった。


「ごちそうさまでした」


「ご、ごちそうさまでした」


「はい、お粗末様」


 結局、幸子たちが蕎麦を食べ終わるのとほとんど同じくらいに、凛之助も料理を食べ終えてしまった。むしろ僅差で彼のほうが食べ終わるのが早かったまである。恐るべき食欲、恐るべき胃袋である。帝都守護任陰陽師とはこれほどのものなのか、と幸子は改めて痛感した次第であった。


「どうかねぇ、お口にはあったかしら」


「はい、とてもおいしかったです。またここに来たいと思うくらいに」


「あらあら、嬉しいねえ。ぜひいらしてくださいな、いつでも歓迎するからねえ。凜ちゃんもいつでも来ていいからねぇ」


「ありがとうございます、おばあ様」


 ふっ、と凛之助が微かに微笑む。初めてみた彼の笑顔に、幸子は何か云いようのない胸の高鳴りを覚えた。急に彼という存在が近くに思えて、すとんと、心の空白に何かが嵌り込んだような気がした。


「最後に言っておきますが凛ちゃんではありません、凛之助です」


「もう。いい加減いいじゃないの、凜ちゃん」


「ダメです。訂正をお願いします」


「つれないねえ。でも、そこが凜ちゃんのかわいいところだからねえ」


 老婆は孫をかわいがるような顔で云うと、凛之助が珍しく感情を顔に出してむっつりした顔で返す。そういうところがまた、幸子の心を刺激した。決して豊かとはいえないけれど、時折見られる表情の変化に気付けた瞬間が、とても心地の良い時間に思えた。

 にこやかに見送る老婆に挨拶をしてから店を出た。動いてみると、思った以上に量があったせいで幸子はもう満腹であった。お腹周りがきつくって、ちょっと動くのが大変なくらいだ。


「では、次の店に参りましょう」


「まだ食べる気ですか!?」


 食べ歩きが中止になったのは云うまでもない。

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