第10話
時計の針が午後の七時を指した頃。
凛之助は言葉家の面々に連れられて、彼女が住まう言葉家の邸宅に足を踏み入れた。
帝都でもいっそう大きな邸宅の中には、常人では一生かかっても見ることのできないであろう舶来品の数々で満ちており、凛之助と戌子は見たこともない光景にわずか息を飲んだ。
金糸と銀糸を贅沢に使った絨毯は音を吸い取り、床を彩る虎皮の剥製は生きているかのように来客へ睨みを利かせ、掛けられた諸外国の珍しい装飾品たちが色とりどりの輝きを放つ。
この世すべての贅を極めたと云っても過言ではない、まさに豪華絢爛を形にした邸宅の奥で、しかしそれらを圧倒するほどの存在感を放つのが、主たる現言葉家当主の言葉和平である。
「よく来てくれた。帝都守護任陰陽師、赤城凛之助」
古今東西あらゆる英知を本棚に詰め込めた書斎に、低い威厳に満ちた声が広々とした書斎を満たす。
いかなる言葉をも圧殺するであろう鋭き視線に、凛之助は無言の礼をもって答えた。
「聞いての通り、我が愛娘が危機に晒されている。護れ」
それだけを云って、言葉和平は退室を促す。
ほんの短い言葉であったが、その中には幸子の身を案ずる万感の想いと、常人ならば冷や汗を掻くほどの期待が込められている。
「承知いたしました」
言葉和平の重圧を真正面から受けてもなお眉ひとつ動かさない凛之助は、厳かに礼を取って失礼のないように部屋を辞去した。
その表情は最後まで少しの変化もないままであった。
部屋の外には使用人のメードが待っていた。
一瞥するに、凛之助は奇妙なメードだと思った。
メードというからには女性である。
しかし歩幅がいやに大きく体格に見合っていない。
絨毯に吸い込まれていく足音が重く聞こえた。
黒い手袋も気になる。
何より一般人というにはあまりにも邪悪な気配がした。
十色の絵の具を中途半端にかき混ぜて作った汚濁色のような気配だ。
(気のせい、というわけではなさそうだな)
察するに、件の外道師が変化の術で化けているのだろう。
凛之助が出てきたとあって功を焦ったのかもしれない。
なんにせよ、相手側から出向いてきてくれたのは僥倖だ。
凛之助は戌子に軽く目配せをして黙っているように指示すると、衣擦れの音さえ立たないような慎重さで腰のモ式拳銃に手を伸ばす。
外套の下。
銃の固定を外してしっかりと右手で木製の銃把を握り、銃爪に指をかけた。
刹那。
「……!」
銃を抜くと同時に安全機構を解除して、銃爪を引く。
ハッと振り向いたメードが後ろへ身体を傾けるのと、独特の甲高い銃声が廊下を駆け抜けたのは同時であった。
『外れたのじゃ!?』
「この、糞がッ!」
尻もちを突くみたいに倒れ込んだメードが、野太い声で叫んで息つく間もなく駆け出す。その後ろ姿は蜃気楼めいて揺らいでいた。
やはり外道師!
凛之助は徐々に黒ずくめの男へ姿を変えていくメードを追いかけながら、頭、胸、腰に向けて三度続けて銃爪を引く。
走りながらの射撃ゆえブレはあるが、どこに当たっても確実に動きを止められる狙いだ。
「たかが九パラが!」
しかし外道師もさるもので、背後に呪符を飛ばして白色の結界を張ると、三発とも防ぎきってしまう。
銃弾を受けた結界には大きな亀裂がはいり、凛之助が体当たりするといとも簡単に、硝子が割れるのにも似た音と共に砕け散っていった。
霊力の残滓が舞い散り、機関シャンデリアの下で淡い光の尾を引く。
「……っ!?」
『なっ!?』
突如として、がくりと凛之助の膝が落ちる。
手足が痺れてうまく動かない。強烈な悪寒と吐き気が腹の奥底から込み上げてきて、全身が倦怠感で包み込まれる。
まるで酷い風邪にでもかかってしまったと思う酷さだ。
『どうしたのじゃ凛之助!? 大丈夫か!?』
(これは、毒か!)
すぐに気が付いた凛之助は、我知らずに舌打ちをした。
時間稼ぎのために、結界に毒を含ませていたのだろう。
外道師らしく姑息な手を使う、舐めた真似をしてくれたものだ。
苛立たしく頭を振った凛之助は、懐から毒消しの丸薬を取り出すとふた粒飲んだ。五分もすれば効き始めるだろう。
『だ、大丈夫なのじゃ?』
「問題ない。行くぞ」
心配する戌子に笑みを浮かべて無理矢理に立ち上がった凛之助は、いまだに痺れの残る手足を解してから再び外道師を追って駆け出す。
幸子たちが避難している客間にまで近付くと、激しい物音ときゃあと幸子が悲鳴が聞こえた。
『いかん、幸子が危ないぞ凛之助!』
「わかっている!」
凛之助が客間に飛び込むと、外道師の男が付き人の狩ヶ瀬を突き飛ばしているところであった。
幸子を護ろうとして咄嗟に前に出たのだろう。
力を持たぬ者が無謀な行動をした。だが、おかげで間一髪で間に合った。
「伏せろ!」
「ひぅ……!?」
壁に叩きつけられる狩ヶ瀬と悲鳴を上げる幸子を他所に、もう一度、三回続けて銃爪を引き残弾を撃ち尽くす。
外道師は再び結界術で防ごうとするが、銃弾は結界ではなく背後の窓硝子を穿つだけに留まり、結界には傷のひとつもつけない。
狙いが外れたことで一瞬だけ硬直する外道師に、勢いそのままに部屋中央の机を足場にして機関シャンデリアを掴み、結界を飛び越えて鋭い蹴り落としを放つ。
「ぐがっ!」
鈍い打撃音。
靴のつま先が強かに外道師の右頬を捉えて後ろへたたらを踏ませる。
追撃の後ろ回し蹴りを鳩尾に放てば、外道師は派手に窓ガラスをぶち割って外へ落ちていった。
「あ、赤城様……!」
不安に満ちた顔の幸子が弾かれたように凛之助へ駆け寄った。
胸の前で握りしめた右手が、恐怖で微かに震えている。
「あの……」
「申し訳ありません。下手人はすぐに捕まえますゆえ」
『うちの凛之助がすまんの。次はないから安心するのじゃ!」
色の悪い顔で凛之助が言う。
無表情で、まるで慮った様子もない。
薄情な男と思えた。
けれど幸子は、彼が微かに眉尻を下げたのに気が付いた。
今までほとんど表情を変えなかった彼が、ほんのわずかに垣間見せた感情は、後悔と、義憤が混じった複雑なもので、心から助けようとしてくれているのだとすぐにわかった。
その事実は恐怖に強張った幸子を、どこか安心したような気持ちにさせた。
「よろしく、お願いします。おふたりとも」
「お任せを」
『そう怯えんでもいいのじゃ! パパパッ、とわしらがやっつけてくるらかの! お茶でも飲んで待っているがいいのじゃ!』
怯えを押し殺した幸子に、戌子は威勢の良い笑い声で、凛之助は小さな頷きで返して窓から飛び出した。
「邪魔をするな、帝都守護任!」
窓から飛び降りるとすぐに怒声が飛んできた。
凛之助は意に返さずに弾を装填しながら、改めて外道師の姿を見た。
伴天連の修道服を身に纏ったその姿は、いつぞやに見た宣教師に相違ない。
だがあの時の真摯な姿とは打って変わり、瞳の奥は質の悪い悪霊に乗っ取られているかのような、異様な殺意と興奮が渦を巻いている。
「我らの神聖なる儀式の贄、奪わせはせんぞお!」
(我ら、か。背後に何か組織があるのか?)
怒髪天を衝く勢いで叫ぶ外道師だが、凛之助は話す舌など持たぬとばかりに発砲で返す。
なおも何か云いかけていた外道師は、慌てたように転がって銃弾を躱し唾を飛ばしながら文句を吐いた。
「不意打ちとは、卑怯な! それでも帝都守護任か!」
「戌子!」
「あいさー! さあて、縊り殺してやるぞ外道め!」
続けざま、式神符で戌子を召喚して攻勢に出る。
正面から肉薄する戌子と、逃げ道を塞ぐように放たれる銃弾は、抵抗する余裕は与えないままに外道師を殺さんとしていた。
「無粋極まる外道の徒め! だがそれもここまでよ、この赤サソリが直々に地の獄へと送ってやる!」
簡易結界を張って銃弾を防ぎながら地面を転がり、戌子の攻撃を躱した外道師は、修道服の袂から何かを取り出すとそれを頭上に掲げて握りつぶした。
「マガツノマロカレよ、我に力を! うぉあああああ!」
機関燈の明かりを受けて鈍色の輝きを放つそれは、赤サソリと名乗った彼の霊力を受けて赤黒い稲妻と共に肉の触手を生やして、彼の姿を異形へと変えていく。
それは変身というよりも、飲み込まれていると形容するに近い。完全に霊力が暴走して制御が効いていない状態だった。
「なにっ」
「な、なんじゃぁ!?」
やがて完全に彼の身体が肉の触手に覆われて、禍々しく身体を奔っていた稲妻が止むと、ついに変貌した赤サソリが姿を二人の前にさらした。
大猩々の顔をふたつ持ち、異常なまでに痩せ細った四肢と無数の太い触腕をうねらせる、夜と混沌に住まう者と呼ばれ特に強力とされる存在。
名を、デモゴルゴン。
西洋に悪魔と伝えられる怪異である。
「ぎゃー!? なんじゃあのキモイ奴!」
「馬鹿な!」
思わず凛之助は声を上げた。
人が怪異に変わるなど、陰陽師の長い歴史の中でもまずほとんどあり得ないことだった。
”怪異が人や物に取り憑いたりして変化”したりすることはある。
だが”人が怪異に変化”するなど、ほんの一例しかない。
特に悪魔と呼ばれるほど強力な怪異に姿を変えるとなれば、もはや人の領域を越えた所業である。
この外道師、やはり異様だ。
凛之助は目に見えて歯噛みすると、赤サソリの裏にいる存在を思って腹の底から危機感を覚えた。
「さあ行くぞおおおおお!」
悍ましい雄叫びを上げた赤サソリが、戌子に向けて触腕を伸ばす。
速度はそれほどでもないが、その力強さは体躯の小さい彼女にとって一撃だけでも致命になる。
「うぎゃー! こっち来たのじゃー!?」
「戌子っ!」
慌てて逃げ出した戌子を庇うように、凛之助が四度続けて銃爪を引く。
銃口が火を噴く度に、伴天連の祝福が施された銀弾が赤サソリに当たるが、まるで意に介した様子もなく触手が突っ込んで来る。
「くっ!」
飛び込んできた戌子を受け止めて地面を転がる。
間一髪、空気を引き裂いて振り下ろされた右腕は地面を抉った。
飛び散った石礫の殴打が凛之助の身体に小さな傷を刻んだが、そんなことを気にしている余裕はない。
続けて迫りくる薙ぎ払いを刀を抜いて受け流し、二本目を後方に跳躍することで躱すが、毒が抜け切っていないせいか体勢を崩して不格好に着地してしまう。
この隙を、敵が逃すはずもない。
赤サソリが身体の触腕を唸らせ、凛之助を確殺する体勢にはいる。
「南無三……!」
「うぇ、ちょ!?」
咄嗟に戌子を脅威範囲の外へ投げ飛ばし、防御用の結界を張る。
が、威力を完全に殺すにはあまりにも薄い。
「っ──!」
凄まじい威力に結界はいとも容易く破れ砕けてしまい、凛之助の身体は機関車に撥ねられたが如くに吹っ飛ばされて屋敷の壁に叩きつけられてしまう。
「凛之助っ!?」
全身に走った痛みと衝撃に、視界が明滅する。
肺の空気が絞り出され、吐き気が込み上げてくる。
無様に地面へと落下すると、凛之助は耐えきれず血と一緒に胃液を吐瀉してしまった。
「ま、またわしを庇って……何という無茶をするのじゃ!」
「……だい、じょうぶだ……心配するな……っ」
血相を変えて寄って来た戌子に強がって笑いながら、刀を支えによろりと立ち上がる。
立ち上がったは良いものの、右腕があらぬ方向に折れ曲がっており、肋骨も数本叩き折られ息をすることすらも苦しくて儘ならない。
本来ならば逃げるのはおろか、身動ぎのひとつすらもできない重体、立ち上がれただけで奇跡ともいえる状態である。
「ハハハ! 道具でしかない式神を庇い瀕死になるとは、まったくもって愚鈍! 愚昧! そのまま下賤の式神もろとも滅びるがいいぃぃぃぃ!」
「耳に、痛い……お言葉だ……」
血の混じった唾を吐き捨てて、左手の祀狼丸を地面に突き刺して、割れた眼鏡を押し上げる。
どれだけ式神が傷つこうとも、依り代たる式神符が破れるだけで死ぬわけではない。式神を庇って陰陽師が重傷を負うなど、陰陽師失格である。
だが見よ、あえて戌子を庇った凛之助の表情は晴れやかだ。
帝都守護の大任を背負う身は魂魄朽ちぬ限り健在、先ほどよりもいっそう闘志を漲らせ、敵を滅ぼさんと気炎を吐き出していた。
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