第8話

 黄金の夜明け。

 煌々と輝けむ二十世紀と謳われし時代たる、華の大帝都は今日も今日とて大騒ぎ。


 人々は西へ東へ忙しなく道を行き交い、路面汽車が轟々と音を立てて蒸気自動車の合間を縫い進む。馬車も人力車も人を乗せ、進めや進めと駆け回る。

 荒唐無稽な噂もまた巡り、人々の間を上へ下へと休みなく飛び交う。


 最近流行りの奇妙な宗教たる宇宙神秘教。

 美女連続猟奇殺人事件。

 変幻自裁の大怪盗と名探偵の対決。

 触覚芸術なる新たな美術への芽生え。 

 とある大臣の浮気騒ぎ。

 浅草に現れる美しい白髪をした私娼の話。

 黒手組なる奇妙な集団。


 様々な言葉が駆け抜けては、重く垂れこめた霧の中に消えていく街は、正しく娯楽と放蕩の坩堝と云えよう。

 そんな帝都の中にあって、ひと際もふた際も異彩を放つのが本郷区の中心に聳えるこの学校、國立女月神高等学校(めつきのかみこうとうがっこう)である。


 世界に羽ばたける碩学を育てるために政府が威信を賭けて設立したここは、まさしく大日本帝国における最先端の教育現場であると同時に、もっとも美しい建物だ。

 帝都においては珍しいゴシック・リヴァイヴァル様式の建築はフランス貴族が使っていた屋敷を参考に作られており、正門から玄関口へ至るまでは御影石を敷き詰めて奇麗に舗装され、遠めに見える巨大な校舎は窓から漏れ出る幾多の機関燈の明かりで輝いている。

 小規模ながらも手入れの行き届いた美しい庭園、多くの調度品が並び美麗な装飾の施された内装、そして高等学校の名に恥じぬ教育の数々は、帝国がこの学校にどれほど熱を入れているかわかる確かな証拠と云えよう。


 さてそんな見目美しい学校ではあるが、実はひとつだけ、市井には知られていない、知られてはいけない裏の顔がある。


「よくぞ参った。帝都守護任陰陽師、赤城凛之助」


 女月神高等学校でいっとう高く聳える塔の最上階。

 上品に飾られた校長室にて重苦しい雰囲気で口を開いたのは、立派な顎髭を蓄えた女月神高等学校学校長にして、日本の霊的守護を担う秘密結社ユザレが最高責任者”陰陽頭”のひとり。

 藤原宿禰秋津弾正甚三郎明久(ふじわらのあそんあきつだんじょうじんさぶろうあきひさ)である。

 そしてユザレの重鎮がおわすこの部屋には、我らが帝都守護任陰陽師たる赤城凛之助の姿もあった。

 ここは碩学を育てるための教育施設だけにあらず。

 秘密結社ユザレが本部、帝都でもっとも危険な不夜城なのである。


「貴様を指名した個人依頼が来ている」


 机の引き出しを開いた藤原は、凛之助の目の前にいかにも高級な封書を置く。

 封書の口には、三つ柏の印が押された真っ赤な蝋で封がされており、見ただけで相当な地位にいる人物からの依頼であると理解できた。


「言葉家は知っているな」


「はい。貿易業で財を築いた一族と存じております」


 静かな問いかけに、凛之助は無表情で答えた。

 言葉家は明治初期から存在する一族だ。

 最初は小さな卸問屋だったが、文明開化の折にいち早く諸外国と交渉をして商品を日本に運び入れ、十年で当時の日本の財源を上回るほど資産を得た大富豪の一族でもある。

 もちろん今でもその資源資産は健在で、日本の貿易業を牛耳り独占し続け、もはや世界でも有数の富豪にさえ数えられている。


「その言葉家の令嬢、言葉幸子(ことのはゆきこ)から貴様に解決してほしいことがあると依頼が来ている。封書を開けよ」


「はい」


 云われるまま封書を受け取って蝋封を剥がすと、中から女性らしい丸みを帯びた字で書かれた一枚の手紙が出てきた。

 仰々しい封書とは裏腹に手紙の内容は実に簡素で、丁寧な挨拶のあとにすぐ『誰かもわからぬ視線に四六時中晒されていて恐ろしい』と依頼についての詳細が綴られていた。


「視線、ですか」


「うむ」


 微かな疑問が籠った凛之助の声に、藤原は顎髭を撫でながら頷く。


「時間や場所を問わず常に視線を感じるようになったため、令嬢は人ならざる者の存在を疑って貴様に調査して欲しいと依頼を出した。そういう話である。……本来ならば貴様に回すほどのものではないが、日本一の財閥から念押しされてはこちらも易々とは断れん」


 日本の霊的守護を一手に担っている政府直属の組織たる秘密結社ユザレとて、政界に働きかけをできるほどの人物から依頼となれば、おいそれと断ることはできない。

 悲しきかな、日本経済の重鎮に札束で頬を撲られてしまえば、時の陰陽師とて従わざるを得ないのである。


「最近多発している殺人事件、現場では小規模ながら霊力の残滓が確認できたと報告が上がっている。今回起きた言葉幸子の件、あながち無関係ではないかもしれん」

「承知しました」


 依頼を受けることに否はない。

 例え何が立ち塞ろうとも、この身はすでに牙無き人々の明日のために在るゆえ。


「では、失礼いたします」


 凛之助は封書を懐にしまい、部屋を辞去した。


 ほとんど人の寄り付かない廊下は静謐で満ちており、天井から吊るされた機関ランプの輝きは肌寒さを和らげるには弱々しくある。

 鏡面の如く磨かれた廊下を叩く靴音は、物悲しく廊下の端から端まで響いていた。

 十五を数える人避けの結界が張られたここには、陰陽師の中でもほんの一握りの人物しか来ることができない。

 この塔に足を踏み入れる事自体が、一種、陰陽師としての格を現す指標のひとつとして扱われているほどだ。人の影どころか生物の影すらないのは当然であった。


『四六時中の視線とは、まったく穏やかでないのじゃ! 下手人は婦女子のぷらいべーとを何じゃと思っとるのじゃ!』


 霊体で傍に浮いていた戌子が、義憤に駆られたように云う。種族はさておき、同じ女子として思うところがあるらしい。


「どうせ幽霊か何かだ。適当に悪霊払いでもやれば、それで平穏が戻る」


『乙女の秘密を覗き見る輩ぞ! きっついお灸を据えてやらねば気が済まんのじゃ!』


「戌子のほうがよっぽど物騒だよ」


 がおっ、と可愛らしく牙と爪を立てた戌子を見て、凛之助はくすりと笑みを零した。

 彼女と楽しげに言葉を交わしながら、蟻の足音すら聞こえない塔から降りて本棟と繋がる渡り廊下へ出ると、先ほどまでの静寂が嘘のように喧騒が戻ってきて、生徒たちの気炎万丈とした活気がにわかに肌を焦がした。

 ところへ。

 本棟の柱の陰から凛之助の目の前に、やおらと姿を現す者がいた。


「お待ちしておりました」


 行き交う生徒の奇異と好奇の視線を気にすることもなく、実に恭しい態度で腰を折るその者は、仕立ての良い燕尾服を纏った白髪の老人である。

 佇まいからして相当に地位の高い主、つまるところ、言葉家に仕えている老執事であることは疑いようもない。

 悟った凛之助はすぐに丁寧な礼を彼に向けた。


「この度依頼を預かりました、赤城凛之助です。解決のため尽力いたしますゆえ、どうかよろしくお願い致します」


「こちらこそ、依頼を受けていただき誠にありがとうございます。早速で申し訳ございませんが、坂口霊能事務所にてお嬢様がお待ちです。詳細はそちらで伺いたく……」


「畏まりました」


「ありがとうございます。外に馬車を用意しておりますので、どうぞそちらへ」


 執事はまた深く腰を折って返すが、間を置かずに踵を返して急かした。表情に焦燥と心配が浮かんでいた。

 凛之助は首肯して云われるがままにあとに尾いて歩いた。

 

(依頼を受けていただき、か。待ち伏せしていた身でよくも云う)


 生徒たちの不躾な視線と口さがない言葉を横切り、校門の前に止められた蒸気自動車に乗り込む。


 蒸気自動車は英國製で、丁寧に磨かれた瑪瑙のような美しい赤の輝きに、各所のフレームを金色で装飾されており、側面には言葉家の家紋があしらわれている。

 フロントの先端には気高き駿馬の意匠が施されており、まさしく高級車である。

 はたして言葉家がはたしてどれほど凛之助に期待を寄せているか、わかろうものだ。

 凛之助は改めて、この任務は失敗が許されないものなのだと理解した。


 車に乗り込み、新宿に向けて目抜き通りを行く。

 今だ忙しない薄霧を引き裂いて走る車は、沈黙と重苦しい空気で満ちていた。

 老執事は言葉家の令嬢が心配で気が気ではない、凛之助は生粋の不愛想と生真面目さとで口を開かない。

 どちらとも話題を探すでもなく、ただ窓の外を眺めて過ごすばかりであった。


「着きましてございます」


 車が照郭楼に止まると、運転手の声が沈黙を破った。扉が開かれると先んじて老執事が降り、続いて凛之助が地に足を付ける。


 一瞬、嫌な気配を感じた。


 何者かの悪意が籠った視線が注がれている、という自覚が凛之助の背中を駆け上がり、納得となって脳髄に染みわたる。

 眼鏡をずらしてちらと見上げれば、赤い靄を纏う羽蟲めいた姿をした真っ黒い単眼の式神が見えた。

 脳内で連続猟奇殺人事件の話が反芻される。


(陰陽頭の忠告、あながち間違いでもない……か)


 中へはいっても、雰囲気は変わらない。

 嫌な雰囲気がねっとりと漂っている。

 どうも予想外に厄介な依頼のようだ。

 凛之助は眉をわずかに顰めて学生服の襟を正した。


「失礼いたします。赤城凛之助様をお連れしました」


 老執事に先導されて坂口霊能事務所にはいると、まず白梅香の香りが鼻をくすぐった。

 春を告げる梅の中にいちごやバラなど西洋の趣を感じさせる爽やかな香りは、凛之助の鼻をわずかにひくつかせた。

 応接用のソファにはしきりに恐縮した様子の坂口と、老執事と同じく燕尾服を身に着けた付き人らしい奇妙な文様が刺繍された黒手袋の青年と、行儀よく紅茶のカップに口をつける品の良い少女が一人いた。


 不思議な少女だと、凛之助は思った。


 胸の中に冷たい美しい焔が燃えている感じだ。

 その焔が瞳に宿って、美しく輝いているように見えた。

 不思議な、不思議な気持ちが芽生えたように思えた。

 それは奇しくも”言葉幸子から見た凛之助”への評価と同じであった。


「お初にお目りかかります。この度ご依頼を承りました帝都守護任陰陽師、赤城凛之助、ここに罷り越しました」


「ああ、貴方が……」


 脱帽した凛之助が恭しく挨拶をすると、少女もまた凛之助の瞳をじっと見つめて、奇妙なものを瞳の奥に燻らせた。

 それは交感であった。赤城凛之助という存在に、ある種の異様な、シンパシーを覚えたようだった。


「私が、依頼を出した言葉幸子です」


 しばしの沈黙の後、少女も立ち上がって小さな礼で返した。

 清廉な川の流れを想起させる、美しく澄んだ音色であった。

 目の上で切り揃え、腰まで伸ばした射干玉色の髪。

 穏和に目尻の垂れた黒い瞳は力強い意志の感じられる鋭さを宿し、黒地に赤いスカーフを巻いたセイラー服──帝都でも有数とされる女学校の制服だ──を身に纏っている。

 嫋やかな雰囲気と匂やかな美を醸すこの少女こそ、言葉家の令嬢と名高い言葉幸子その人であった。


「今回は、無理なお願いをして申し訳ありません」


「いえ」


 慮った言葉も吐かずに凛之助が面を上げる。幸子も顔を上げたが、急に驚愕と困惑に染まった顔をして凛之助の背後に視線を向けた。


「あの……その犬神は、いったい?」

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