第2話

 1


「<asrnea《治れ》>」


 呪文を唱え、指を振る。

 一秒もたたないうちに男の傷は治った。およそ人間の耳では聞き取れない発音とともに繰り出された魔法。

 師匠先生ならともかく、俺にはぼろぼろの服はどうしようもない。とりあえず表面上の傷は治ったのだからいいだろう。

 奇跡を見慣れているはずの少女も、男も、なにがなにやらという顔で俺を見つめていた。視線がうっとうしい。俺は鼻で笑った。


「床が汚れるからな」


 そっけなくそれだけ言うと、少女に「照れないでくださいよ」と小突かれた。断じて照れてないが? 片方の眉を上げて彼女を見れば、悪びれる様子もなく小さく舌を出した。

 男は目を真ん丸に見開き、状況を把握しようと頭を回転させているようだった。が、数秒後には俺のいるカウンターに歩み寄り、土下座をしてみせた。


「頼む、娘を助けてくれ!」


 悲痛な叫びだった。間髪入れずに男が語った事情はこうだ。

 男は娘と旅行でこの町に訪れたが、事故を起こしてしまった。運転席にいた男は這う這うの体で出てきたが、助手席にいる娘は引っ張り出せなかった。その後、通行人の手助けもあり、どうにか娘を救出した。しかし、娘の容体は素人目にもわかるぐらいに良くない。男は藁にもすがる思いで、近所の人から聞いた魔法使いを訊ねてきたという。

 そこまで言うと、男は口を閉ざした。それから俺の目をまっすぐに見つめてくる。


「亡くなった妻との、一人娘なんだ……! だからどうか、その神秘で助けてくれないか? 俺にしてくれたように」


 やかんが沸騰している。

 俺も、怒りでどうにかなりそうだった。


「ふざけるな!」


 男がよろよろと顔を上げる。


「そういうとき父親って言うのは傍にいてやるものだろう! ……なんで離れた!? 家族なんだろう、愛しているんだろう? ならなぜ傍にいてやらない! 見知らぬ土地で一人で死ぬことの恐怖がわからないのか!?」

「俺だって置いてきたくはなかった! けど動かせないんだ!」


 男も俺に煽られたのか、唾を飛ばしながら怒鳴った。


「それに、俺はなにも難しいことを頼んではないだろ!?」


 違う。根本的にこの男と、俺の思考は違う。

 男は奇跡にすがり、それを生み出せる俺に最後の望みをかけた。

 俺はそんなあやふやなものには頼らず、死に目には傍にいろと言っている。

 しかも間の悪いことに俺が軽率に魔法奇跡を使ってしまった。どうしようもない。平行線だ。説得なんて時間の無駄。

 隣にいる少女が、おろおろと俺と男を交互に見ている。その目には薄い水の膜が張られていた。

 ……できなくは、ない。

 その娘とやらに生きる気力さえあれば、瀕死の状態から回復させられることはできる。要するに掛け算なのだ。望みと俺の魔法がかけ合わさって結果につながる。さっきの男の怪我もそうだ。生物として本能的な望み。俺の魔法がそれに応えただけになる。

 この父親の言う通りだ。難しいことでもない。

 だが、それをしたところで、俺に何のメリットがある? 同じように瀕死の人間を抱えた連中がここに群がるのは目に見えてわかることだ。搾取され、疲弊し、魔法が使えなくなって死んでいく。現にそうなった魔法使いや魔女を知っていた。

 俺は少女を横目で見た。彼女の父親は、人間に使い魔だ。その使い魔の魔女が、俺の師にあたる。

 師匠人間が好きだった。正確には人との交流が好きだった。だから魔法を、人間のために使い――そして、護っていた人間に殺された。めった刺しにされて、俺の目の前で死んだ。

 のちにに『魔女狩り』と呼ばれ、法の整備につながった大事件だ。少女の両親も師匠と交流があったせいか事件に巻き込まれている。人間嫌いの俺が彼女を引き取ったのは、師匠が遺したものを守りたかったのが理由だった。

 手のひらを叩く音で、我に返る。

 音の発信源は、少女だった。眉を吊り上げ、口をへの字に曲げ、キッとした顔で男を睨んだ。少女は、俺の手を取った。こちらが文句を言うより早く、カウンターの外へと引っ張る。俺はあわててガスコンロの火を止めた。


「おい、なんだ。どうした?」

「お父さんの言い分も、先生の言い分も、わかります。わかりますから――行きますよ!」


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