父、先生、友へ

うどん

思春期の主張

 「人間はつねに、自分に理解できない事柄は何でも否定したがるものである。」(ブレーズ・パスカル/『パンセ』)

  私は親の言うがままに中学受験をし、現在は自称進学校に通っている。中学3年間はつまらないモノだった。何の面白みもない、何の変化もない、そんな人生に飽きて学校に行かなくなった。当たり前だが、学校に行かない私に親は激怒し、しまいにはもう知らないと呆れて何も言わなくなった。そしていつのまにか夏休みに、私はカナダへ留学にいくことになっていた。カナダでは寮生活だった。私は大人しいスペイン人とルームメイトになった。友達は何種類もの香水を混ぜたようなえげつない香りのタバコを吸うスペイン人とルームメイトになっていた。その子じゃなくてよかったと心底思った。とにかくスペイン人はすごかった。夜中に踊り始めるし、美術館にスピーカーを持ってくるし……。そして何を得たかもわからない留学が終わり、帰りの飛行機ではなぜかドイツ経由で日本に帰ることになった。

 夏休みが明け、学校にしぶしぶ行くようになった。とにかく毎日がしょうもなかったことに加えて、2人の人物が私を苦しめた。1人目は私が所属していた同じグループにいた承認欲求爆発女である。彼女は私がこれまで、いや、これから出会うヤバイ人ランキング中でもトップスリーに入るくらいの人物であろう。初めは穏便に暮らしていたが、彼女に初彼ピッピができてから、狂い始めた。「映画とか見る余裕彼氏が作らせてくれない」とか「彼氏といる時の方が私面白い」とかの惚気は別に何の問題もなかったのだが、その彼氏と別れてから、Twitterであっちの友達を作るようになったのだった。今は大学生の彼氏がいるらしく、かつて高校生で大学生と付き合っていた退学した子をボロクソに言っていたのにまったくすごいやつである。2人目は中学生時代に仲が良かった子である。お昼ご飯を友達と食べている時、隣でその子に自分の体質について言われていた。友達にも申し訳ないし、優しかったその子が変わってしまったように思えて悲しかった。

 この二人に共通していたことは私を否定することだった。てめえらが何の立場で私の意見、外見、体質を否定するのか。学校の現代文の授業だってそうである。先生が自分が書いたコメントをABCにランク付けする。クラスメイトの書いた小説の一位を決める。私は文学に順位は必要ないと思う。重要であるのは感じたことを自分の言葉で表してそれを相手に伝えることではないか。  

 とは言っても、自分で自分の人生を否定している私が、言えたことではない。所詮、私は親の敷いたレールの上を歩いて、文句を言っているだけのガキである。この文句も言葉に出して言う勇気のないちっぽけな人間である。あ、これも否定であるのか。否定せずに生きていくことは無理に等しいと思う。誰しも一回は嫌悪を抱いたことはあるだろう。否定することで相手との距離が生まれ、相手の世界を縮めてしまう。お前には無理だ、やめときなさいと父と先生は私が行きたい大学を打ち明けた時に言った。勿論親の金で学校に行き、受験するわけだから、その大学を諦めるしかなかった。私はこれからの人生も自分を否定し続け、陰でぶつぶつ言うことしかできないのか。自分の好きなことを学べる大学に行きたい。自分の夢を叶えたい。このように思うことは間違っているのだろうか。親は自分達は浪人したくせに子供の浪人は許せないのか。今思えば、カナダでは否定されることがなかった。多文化社会であるカナダでは、多様な価値観が認められているからであろうか。

 大人が子供の気持ちを完全に理解することはできない。なぜなら一人一人違う人間であるから。読者が筆者の考えを完全に理解することはできない。なぜなら一人一人違う人間であるから。他人が私のアイデンティティを完全に理解することはできない。なぜなら一人一人違う人間であるから。





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