今世の俺は長女だから
ビーデシオン
第一章 春歌の狩人
第1話 ちょっとでも何かしていれば
薄暗い部屋。横向きの視界。雨と時々、雷の音だけが耳に響く。
朝からずっと、身体を起こせない。
カーペットは敷いていないから、床は固い。
ずっと圧迫されているからか、左目の視界が少し欠けている。
自分の呼吸音が、やけに頭に響く。
外の雨音を除けば、部屋の中が静かだからか。
数時間前まで、随分賑やかだったけど。
俺は今朝、5年間連れ添った彼女に捨てられた。
いや、捨てられたっていうか、愛想を尽かされた。
きっかけは俺が夜中、イヤホンを忘れて催眠音声を聞いていたこと。
最初の方はただの耳かき音声なんだけど、後半になるとR指定が付くタイプのヤツが、スピーカーで流れてたらしい。
彼女は俺が引きこもってる間に俺の部屋以外の引っ越しを済ませて、業者のトラックと一緒に地元に帰っていった。
明日にはマンションの管理人さんが来て、俺は強制退去になるそうだ。
考えてみれば当たり前のことだ。
5年連れ添ったって言っても、彼女だけ働いて俺はヒモだったし。
しかも引きこもりで、ソシャゲと催眠音声に毎月2万つぎ込んでたし。
彼女と出会った直後に、大学も中退してるし。
むしろよく5年持ったと思う。
よく5年もこんなやつ養えたよ。すげぇよ。
殺しても誰も文句言わないレベルだっただろうに。
それなのに彼女は、俺を置いて行くだけで済ませてくれた。
だからしょうがないというか、むしろ彼女の行動は随分寛大だったと思う。
でも、俺もしょうがないと思うんだ。
大学入試直前で、親父の浮気で親離婚して。
なんとか適当な大学には入れたけど、実家からすごい遠くて。
一年頑張ったけど、だれも友達できなくて。
そんなときに母さん死んだって親父から言われて。
そんなときに、一目惚れですって言われたら、そりゃ飛びついちゃうよ。
がんばらなくていいかって、思っちゃうよ。
いや、だからといって俺は、彼女のことを雑に扱いすぎた。
心が疲れてるからって働きもせず養ってもらって、養ってもらっている分際でゲームと音声ファイルに課金して、嫌われたくないからって夜も相手せずに催眠音声とか聞いて……
今思うと、俺は彼女のことを、利用していただけだったのかもしれない。
手を差し伸べてくれた彼女を、まともに愛せてすらいなかったのかもしれない。
ホント、ひどいことしたよ。
俺から解放された後は、ぜひ幸せに生きてほしいな。うん。
俺は……、多分、このまま強制退去食らってから、野垂れ死んだ方が良いと思う。
『————! ——————!!』
うん……?
何か、物音がする。
玄関からじゃない、ベランダの方から物音……というか人の声がする。
『————ッ!!』
一瞬、雷かとも思ったけど、人の声で間違いない。
もしかして、彼女が俺の部屋のものを回収しにきたのだろうか。
俺がもういなくなっていると踏んで、戻ってきたのだろうか。
「なわけないよな……」
だったらわざわざベランダから来る理由が無い。
第一、ここはマンションの3階じゃないか。
馬鹿な思考を投げ捨て、数時間ぶりに立ち上がる。
こんな雨の日にないとは思うけど、もし近くで火事でもあったのなら大変だ。
カーテンを開くと、相変わらず外には雨が降っている。
窓を開け、網戸を開けると同時に雷が鳴って、俺は少しだけたじろぐ。
「うわっ……」
ベランダに一歩踏み出すと、足が濡れてしまった。
そりゃそうだ、吹き込む雨もあるわけだし、ベランダは濡れているに決まってる。
「助けてえぇ!!」
「……は?」
突然のそんな声で、困惑する。
声はかなり近い場所から聞こえた。
まるで、手すりの向こうに誰かいるみたいに……
「あ、あ!?」
そこで気づく。
ベランダの手すりに、手のようなものが見えた。
外側からぶら下がるように、人の手が手すりに掛かっている。
引き上げないと!
そう思って俺は手すりから身を乗り出す。
「あっ、たすっ、助けて!」
ぶら下がっていたのは、全身が水浸しになった制服姿の女の子だった。
外見からして、高校生だろうか。
彼女は俺の姿を見た瞬間、助けを求めて叫び出した。
「い、今引き上げます!」
女子高生が、こんなどしゃぶりの雷雨の日に、うちのベランダから転落しそうになっている。
なにがどうなってそうなったんだとは思うけれど、俺は考えるより先に女の子の両腕を掴んだ。
この建物は五階建てのマンションで、ここは三階。
落ちてしまえば、ただでは済まないはずなのだ。
「うおっ!?」「わっ!」
腕を取ると同時に、女の子の手が手すりから離れる。
雨水で滑って、俺の両手も腕から離れる。
咄嗟に、女の子の右手を両手で掴む。
直後に、女の子の全体重が俺に伝わってくる。
『ずるっ』「あっ」
足が地面から離れた感覚。
雨水で滑って、俺の身体がベランダの向こう側に引きずり込まれる。
なんで? どうして?
疑問が浮かぶが、もう身体は宙に浮いてしまっている。
背負い投げされたみたいにひっくり返って、落ち始めている。
視界がマンションの壁を映してから、空の雨雲を映してしまっている。
あっそっか、そう言えば俺、五年も引きこもってたんだ。
昼は一人だったから、朝晩で一日二食。
昼寝含めて12時間以上は寝てたし、運動もしてないから、筋肉も落ちてる。
元々細身だったけど、今の俺って多分、爪楊枝みたいにヒョロヒョロなんだ。
なんで俺、こんなになるまで気付かなかったんだろ。
はは、こんな状態で落ちたら、多分即死だな。
女の子の悲鳴とともに、空が光る。雷だろうか。視界が白く覆われたのをきっかけに、俺の頭を後悔が支配する。
もっとちゃんと食べてれば、もっとちゃんと運動してれば、引き上げるくらいできたのに。
どうせ今から野垂れ死ぬしかなくても、最期に一人くらい助けられたのに。
ああ、考えてすらいなかったな。
将来が見えないからって、ほかの全部を疎かにした結果がこれか。
ちょっとでも、何かいい方向に動いてればよかったのに。いつから何を始めてもよかったのに。
死ぬ直前になって、やりたかったことがたくさん出てくる。
人生で一回くらい、バイトは経験してみたかった。
一回くらい、サークルも入ってみたかった。
せっかく彼女ができたんなら、手料理も振舞ったりしてみたかった。
お金貯めて、一緒にどこか旅行にも行きたかった。
ちょっとでも、何か、していれば……
ああ、せめて最後に下敷きになれば、この子の怪我軽くすることくらいはできるかな。
『ぐしゃ』
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