夢と私

私は、最近までよく夢を見ていました。それは普通の夢とは違って、暖かさも、寒さも感じる、目が覚めても忘れない夢。その夢で私は、木の上のように高い所で、と言うよりも、私自身が木となって、近くにある崎岡さきおか小学校の校庭を見下ろしています。朝や夜、夏や冬、景色は夢ごとに違えど、一つも動かないで、ただ見守っているだけ。


夢の中では、校庭で楽しそうに遊ぶ子たちがよく見えたから、この夢を見始めた最初の頃は、病気がちでほとんど学校に行けていない私への当てつけだと思っていました。でも、ある日の夢では、夜の暗闇の中、誰もいない学校を、ずっと物寂しく眺めることがありました。それは辛くて、悲しくて、何かを私に届けようとしていると感じたのです。だから、そんな意地悪なものでもないのかもしれないと、今では思っています。


その夢は毎回、年もバラバラでした。昨日ドッジボールで大活躍をする褐色肌の男の子を見たと思えば、次の夢ではその子に似た、背の高い大人が、この学校に懐かしむような眼差しを向けます。何十年も生きてはいない私が、その時の流れを見ると、落ち着かなくて、なんだかゴム風船の中でふわふわ浮かんでいるような、地に足がつかない気分になりました。そんな日には、私はよく本を読みます。読書が好きという理由もあるけれど、そこにさっきの感情が何か、書いてあるかもしれないと思って。そして時折、お父さんから貰った栞を挟んで閉じるのです。栞は木で作られていて、優しい温もりを感じる、つい三週間前に貰った、私のお気に入りのグッズ。この栞がきっかけで、私は本も、木のものも、もっと好きになりました。夢の話が嫌にならないのも、栞のお陰かもしれません。


だけどこの頃、ぱったりと夢を見なくなりました。私はそのことが不安になって、しばらくぼーっとした日々を送っていたけど、今日、その木がある学校に行こうと決意しました。今はその準備をしています。


私は二階の部屋にある、ベージュの小さな手提げ袋を持って一階に降りて、麦茶を入れた水筒と地図、更に本と栞を入れました。外に出るのも久々な私のお守り代わりです。玄関まで行って靴を履き替えようとすると、二階からお母さんの声が聞こえました。両親の寝室は二階にあります。


もえ、どこに行くの?」


階段を降りながら、心配そうに訊いてきました。


「近くの公園までだよ」

「そう………萌は身体が弱いんだから気をつけてね」


お母さんが一瞬悩む表情を見せたのは、病弱な私が不安で、めようかどうか迷ったからだと思います。ただ、私から外に出ようと言うなんて珍しいものですから、きっと大切なことなんだろうと許してくれたのです。そんなお母さんに嘘をついたので、胸をちくりと刺される気持ちになったけれど、木の夢も、今日の小さな探検も、まだ私の中だけの話にしたかったから、隠すことにしました。


ドアを開けると、柔らかな日差しが、私を歓迎するように照っています。テレビで言っていた通りの、過ごしやすい気温です。木々は爽やかな風で歌うように揺れます。あの木の心配だけではなくて、外の世界に触れることで、わくわくした気持ちになる、そんな日和。登校なんていつぶりか憶えていないほどなので、道を間違えないように地図を確かめつつ、一歩を大事に歩いていきました。



学校まではそれほど離れていないので、走るとすぐに息が上がる私でも、一〇分程で着くことができました。夢で何度も見た青緑の校門、奥に佇む白い校舎、黄色がかった運動場。でも、夢とは違う私自身のの低い視点からの景色は、少し変わって見えます。お目当ての木は、夢の通りだと校庭の右端にありますが、広い道路沿いに学校があるので、大きな壁が建っており、また別の場所からも、住宅やお山の遊具が邪魔をして、私の身長では見ることができません。学校に入ろうと思ったけれど、今日は日曜日。考えなしに来てしまいましたが、やはり校門は閉まっているので、諦めて帰るか、勇気を出して校門のそばにあるインターホンを鳴らすか、ずっと悩んでいたところ、救世主の如く、中から用務員さんらしき人が現れました。


「君、学校の子かい?忘れ物でもしたの?」


人に話しかけられるのに慣れていない私は、長い間ぼんやりとしてしまいました。なんとか、「私は、ここの小学生で、とにかく校庭に入りたい」と伝えました。すると、用務員さんは少し困った顔をした後、私の名前と、余り自信がないですが、クラスを訊くので、新島萌という名と、親に教えてもらったクラスを答えると、


「もしかしたら今、君の担任の先生がいらっしゃるかもしれないから、ちょっと待っていてね」


そう言って去っていきました。先生が来るまでの間、私は学校を観察しています。先に学校の様子を「変わって見える」と言いましたが、しかし、確かに目の前にあるのは、夢で見たものほぼそのままでした。ドッジボールをしていたあの男の子も、あの下足から出て、遊んで、中に戻っていったなあ、などと色々な夢を思い出しては浸っていると、その先生がいらっしゃいました。男性で、年齢はおそらく……お父さんと同じ三五歳くらいだと思います。


新島萌にいじまもえさん?会えて嬉しいよ。お父さんやお母さんはいらっしゃるのかな?」

「えっと……一人で、来ました」

「そうなんだ。ところで、どうして学校に来てくれたんだ?」


私はこの時、はっきりと木のことを話そうか悩みましたが、親にも言っていないので、何となく気が引けて、木が見たいということだけ伝えました。先生は流石に驚いていましたが、特に理由も聞かずに、どんな木なのか尋ねました。それは私にとって、とても嬉しいことでした。しかし、私がその木について説明していくと、先生の表情は徐々に曇っていきます。話し終わると、先生は「ついてきて」とだけ言います。私はかなり不安になりながら先生の背中を追いました。


「多分、新島さんが言っているのはこの木のことだと思う……」


先生の指すものは、切り株でした。私の広げた両手よりもずっと大きく、立派な。


私は悲しくなりましたが、同時に腑に落ちる感覚がありました。あの夢は、哀しい誰かの思い出のように感じられることがあったからです。それをひっそり私に見せてくれているのだと。先生が言うには、この木は丁度一ヶ月前に伐採されたそうです。更にもう一つ、しゃがみながら切り株から出た芽を指して、教えてくれました。


「これはひこばえと呼ぶんだ。この木は確かに伐られたけれど、こうして次に生命を繋いでいく。そうすれば、この木の存在は決して無くならない。死ぬことはないんだ」



私は先生にお礼とさよならを言います。先生はその間際に「無理じゃなければ、もう一回学校に来てくれると嬉しい」と言ってくれたのを心に留めて家に帰ると、お父さんがリビングで座って本を読んでいました。


「萌、おかえり。嬉しそうだけど、公園で良いことがあったのか?」


私はその時になって、木の夢のこと、今日のことを全部話そうと決めて、話し始めました。


お父さんは私の拙い話を、静かに最後まで聞いていてくれました。私が話を締めると、今度はお父さんが話し始めます。


「前にあげた栞、覚えているか?」

「うん。大事に使っているよ」

「実はその栞、小学校の伐られた木で作られた記念品なんだ。それは学校の先生に配るものだけど、一つ、父さんの友達、萌が今日会った富永とみなが先生がくれた。父さんもその木には思い出が沢山あってな。伐採が決まったのは辛かったが、手元に残るものがあるのはうれしかった。先生が言っていたように、まだ死んでないと思えてね」


優しく、落ち着いた語りでしたが、この思いが私に伝わってほしい、そんな願いが込められた声でした。私はその返事として、お父さんに抱きついてみせました。いえ、本当は今日あまりにも沢山の思いに触れてしまって、疲れきったのかもしれません。


その日の晩、私は手提げ袋から本と栞を取り出して、ベッドの上で読みながら眠りにつきました。すると、久しぶりに夢を見ました、あの学校の夢です。けれど、前に見ていたものとは違って、随分と低いところから、きれいな校舎を眺めていました。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

@geregere0809

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ