ある楽しみ

萩谷章

ある楽しみ

 二時限目が始まり、すっかり静かになったとある女子大の正門に、若い男が一人やって来た。男は門をくぐることなく、キャンパス内をうかがっている様子である。守衛が大いに警戒して男に近づき、話しかけた。

「何か、ご用がおありですか」

 そう尋ねられた男は、助かったという表情をして言った。

「ああ、よかった。怪しい動きをして申し訳ありません。頼みごとがあって来たので、誰かいないか、探していたんですよ」

 丁寧な言葉遣いをする男である。守衛はそんな印象を受け、いくらか警戒を緩めた。

「頼みごととは、何でしょう」

「忘れものを届けに来たのです。僕は、こちらに在籍している藤田綾子という学生の恋人です。彼女、今日は夕方から大事な発表があるのに、それに使う資料を忘れてしまったそうです。その連絡を受けて、こうして僕が資料を持って来たんです」

「そういうことでしたか。それはご苦労さまです。ですが、あなたは男性ですから……」

 守衛は申し訳なさそうな表情を作り、男の目を見た。すると、男はうなずきながら口を開いた。

「ええ、分かっております。僕は男ですから、女子大に入るわけにはいきません。ご迷惑をおかけしますが、これを綾子に届けていただけませんか。『頼みごと』とは、そのことなんです」

「ご理解に感謝いたします。しかし、失礼ですが念のため、中の資料を調べてもよろしいですか」

「ええ、それはもちろん」

 隅々まで調べたが特に怪しい点はなかったので、正式に預かることにした。男は丁寧に頭を下げて去っていった。

 守衛は、すぐに大学の学生課に連絡した。「藤田綾子」が確かに在籍していることを確認し、先ほど男と話した内容を説明した。学生課の職員も、男の受け答えが丁寧だった旨を聞いてか、さほど怪しむことなく理解してくれた。

 守衛は正門を離れられないので、封筒は職員に預けることになった。やがて職員が正門にやって来た。

「先ほど連絡を受けた、学生課の小山です。例の封筒を預かりに参りました」

「ああ、これはわざわざどうも。こちらです。入っている資料に怪しい点はありません」

 封筒を預けた守衛は大きなため息をついて、水筒のお茶を半分ほど一気に飲んだ。


 守衛から封筒を預かった小山は、二時限目の講義が終わった頃を見計らって、綾子が大学に登録している番号に電話をかけた。

「もしもし。私、学生課の小山です。藤田綾子さんで間違いないでしょうか」

 綾子の声色から、大いに戸惑っていることが分かった。

「はい、そうですが。何でしょうか」

 小山は封筒を預かっていることを話し、学生課の窓口に来るよう求めた。

 ほどなくして綾子が学生課に現れた。身長は一七〇センチほどと高く、長い髪を後ろで一つに結んでいる。何度も頭を下げながら、感謝の言葉を繰り返した。

「本当にありがとうございました。助かりました」

「いえいえ、大事な発表が台無しにならなくてよかったですね」

「その守衛さんにもお礼を言いたいのですが、お名前は何とおっしゃる方ですか」

 小山に守衛の名前を聞いた綾子は、最後に深い礼を一つして去っていった。

 その日、完全に日が暮れて学生たちが続々と帰路につく時間。正門から出ていく学生たちが作る人ごみを飛び出し、綾子は門のそばにある守衛室に向かった。

「突然すみません。矢田さんはいらっしゃいますか」

 守衛室で休憩していた矢田は、見知らぬ学生に名前を呼ばれた驚きを隠せないまま返事をした。

「は、はい。私が矢田ですが」

「ああ、矢田さん。今朝のお礼をしたくて参りました。私、藤田綾子です。本当にありがとうございました」

 藤田綾子という名前を聞き、矢田は今朝話した若い男とのやりとりを思い出した。

「あの彼が言ってた藤田さん。お役に立てたならよかったです」

「大事な発表だったので、忘れたことに気づいたときは血の気が引きました。本当に守衛さんのおかげです」

「いやいや、私は大したことをしていません。お礼なら、藤田さんの恋人の彼と学生課の小山さんに」

 その後二言、三言ほど交わすと、綾子は深々と頭を下げて正門を出ていった。

 

 あくる日の昼ごろ。矢田はいつもと同じく正門にいた。昨日のことが印象深く、今日は一段と穏やかな日であるように感じる。まばらに学生が正門を通るなか、一人の学生が矢田に声をかけた。

「矢田さん、おはようございます」

「ああ、藤田さん。おはようございます」

「今日は何も忘れていないはずです。もうご迷惑はおかけしません」

「それならよかったです。今日も頑張ってください」

 矢田と綾子は笑顔を交わした。

 それからほとんど毎日、綾子が大学に来るときと帰るとき、矢田は彼女と挨拶を交わすようになった。ある日、矢田の同僚が彼に話しかけた。

「随分と仲のよい学生がいるじゃないか。日々がいくらか華々しくなったろう」

「あれを仲がよいとは言わないよ。ただ、きっかけがあってお互いに顔を知っただけさ」

「ふうん。しかし、見ているとかなり礼儀正しい子のようだね」

「そうなんだ。度の過ぎた冗談は言わないし、近すぎる距離に来ないところが好感だね」

「高評価だね」

「俺の、大学生という存在に対する悪い偏見があったせいかもしれないな」


 同じ日、綾子は一人暮らしをしている自分の部屋で、友人の一人と会っていた。

「いやあ、凛ちゃん。上手くいってるわね」

「そうね。綾子も楽しくなってきたんじゃない」

「本当に楽しいわ。お互いが化粧と服装をお互いに似せて、一日おきにそれをやりながら毎日大学に通うなんて」

 凛は、身長の高さと髪の長さが綾子とほとんど同じで、顔つきも似た系統であった。二人は同じ大学の同じ学部、同じ学年で、一日おきにお互いをお互いに似せて大学に通っていたのである。つまり、守衛の矢田は毎日綾子と挨拶していると思っているが、実のところは、綾子に会った翌日に会っているのは彼女に扮した凛であって、さらにその翌日は本物の綾子、その翌日は綾子に扮した凛……と繰り返しているのである。

 凛は綾子に言った。

「しかし、ばれないものね。あの矢田さんという人、真面目な印象だけど、あの仕事には向いてないんじゃない」

「そうかもしれないわね。少しも怪しむ様子がないわ」

「スリルがあって楽しいものね。しかし、綾子はどうしてまたこんな遊びを提案してきたの。面白そうだったから話にのったけど、詳しくは聞いてなかったわ」

「自分がもともと好きでやっていたものを大学で学び始めて、それが『学問』として見えてくると、かえって楽しくなくなるのよ。同時に、自分が楽しめるものが他になかったことに気づいたの。だから、何か楽しいものがないか考えていたら、こんなのを思いついたわけ」

「ふうん。贅沢な悩みがあるものね」

「しかし、はじめに正門に現れた男子が、男装した凛ちゃんだったと知ったら、矢田さんどんな顔するかしら」

「卒倒するかもしれないわ。ハラハラしたけど、意外といけるものね」

 綾子と凛は、大成功のうちに進行している自分たちの遊びを今後も続けようと約束した。


 二人が継続して「遊び」を行っているなか、綾子が凛に新たな提案をした。

「凛ちゃん、フィールドを広げてみない」

「フィールドってどういうことよ」

「もっと別の人にばれないか試してみないってこと」

「いいわね」

「私がよく行く定食屋があるんだけど、そこのおかみさんと仲がいいのよ」

「その人にばれなければ、相当なものね」

 その話をした翌日、早速凛は綾子に扮して定食屋に入った。おかみさんが元気な声で迎えてくれ、凛は席についた。

「久しぶりね、綾子ちゃん」

 凛は、事前に聞いていた綾子の好きな料理を頼み、その美味さに驚いた。危うく「こんなの初めて食べた」と言いかけたときは冷や汗が出た。

 気分のよくなった凛は、贅沢のつもりでジュースを注文した。大学生といっても、一年生なので酒はまだ飲めない。自分が酒に強いか弱いかも、まだ知らないのだ。凛は食事を大いに楽しんだが、楽しいがゆえに余計なことを口走り、ばれることがないようにと、あまり長居せず店を出た。

 ところが凛が帰ったあと、おかみさんは不思議そうな表情をしていた。店の常連が「どうしたんですか」と聞いたが、「いえ、何でもないの」と言うだけだった。

 店を出た凛は、綾子に電話をしていた。

「全然ばれなかったわ。私たち、もはや双子ね」

「楽しくなってきたわね。おかみさんのところへ何度か行って一度も怪しまれなかったら、家族でも試してみようかしら」

「それはどうかしら。血のつながりは侮れないわよ」

 二人は楽しげに笑いながら成功をかみしめた。じゃあまた明日大学で、と電話を切ったあと、綾子はハッと気づいたような顔をして、頭を抱えてつぶやいた。

「そういえば、私が一年浪人して入学してたって凛に言ってないの忘れてたわ。私上戸だから、あのお店によく飲みに行くのよね……」

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