陸軍法務官レーネ・アマーリア・ライヒェンベルガーの軍務事件簿

ペルソナ・ノン・グラータ

若き天才

プロローグ

「ランツ軍曹。本日付で貴官をオイベルツ連隊区法務官付補佐官に任ずる」

「……はい?」


 久しく用事のなかった連隊区人事課の庁舎に出頭したユリウス・ベルング・ランツは、聞き覚えのない役職への着任を命ずる辞令を受け取った。


「法務官付補佐官、とは聞いたことがありませんが」

「軍法には書いてあるそうだが、俺も初めて知ったよ。今度現任のロールズ法務少尉が栄転するのに伴って新任の法務官がやってくるんだが、その『後見人』が補佐官を付けることを希望したとのことだ」

「後見人?」


 ユリウスはまたもや軍隊で耳にしなくなった言葉を反復し、訝しむ視線を眼前の人事課長へと向けた。後見人は主に貴族の幼当主などが、その領地の運営を代行するために指名する人間を指す言葉だ。軍人の――ましてや強力な権限を有し、膨大な知識が要求される軍法務官に就くような人間が後見人を置くことなど、まずあり得ないといっていい。


「まぁ、色々と事情がある人物だと理解してくれ。そして、君はその補佐官に任じられた。具体的に言えば、君には法務官の業務――案件調査や書類作成、定期査察などの補佐の他にも、日常的にも法務官をサポートする任務が与えられる」

「……日常的にも?」

「その代わり宿舎は広めの個室だ。おおよそ軍曹とは思えない待遇だと思ってもらって構わんよ」


 若干引き攣った顔を見せる人事課長に対して些かの不安を抱きつつ、ユリウスは自分の中にある最大の疑問をぶつけた。


「分かりました。最後に一つだけ、質問をしても宜しいでしょうか」

「なんでも聞きたまえ」

「何故、自分が?」


 単刀直入にユリウスは尋ねた。当然の帰結だろう。彼は部隊の中でも何か秀でた能力があるというわけでもなく、勤務成績は上から数えた方が早い方ではあるとはいえ、このような大役に推挙されるような功績を挙げたつもりもない。


 何か特別なことがあるとすれば、卒業生の殆どが軍隊に進まない法科学校の出身であること……と、そこまで考えて気づいた。ユリウスがその結論に至るのとほぼ同時に、人事課長が口を開いた。


「その様子だと、君も既に結論に辿り着いたようだが。そう、君は法科学校出身。法律業務については補佐官は基本的に口出しをしないことになっているが、それでも業務を補佐する以上法律知識が必要な場面は必ず出てくるはずだ。それを加味した上で、君以上にこの連隊で適任な者がいなかったということだ」

「つまりは消去法と」

「どう取るかは君の自由だ。だが職務はきっちり遂行してもらう」

「……了解しました」

「物分かりが良くて実に助かる。新任の法務官は明日の朝に着任される予定だ。すぐにローホーズ通りにある連隊区法務官事務所へ向かうように。以上だ」


 人事課長に対して一礼し、ユリウスは踵を返して部屋を出る。渡された地図に記された事務所の場所を頭に叩き込み、彼はローホーズ通りに向けて歩みを速めた。


――――――――――


 連隊本部が置かれたオイベルツ駐屯地から法務官事務所までは1時間ほどの距離だった。年末が近いこともあってか、ローホーズ通りは年越しの準備に忙しい人々で賑わっていた。


 ユリウスが所属する第33ライフル歩兵連隊が駐屯するオイベルツは帝国南部で五指に入るほどには大きな都市であり、ローホーズ通りは中央駅にも繋がる動脈の一つであった。


 数日前に申請した年末年始休暇の審査結果が出ていないことに一抹の不安を覚えながら、人々の間を縫ってしばらく進むと、やがて『オイベルツ合同法務庁舎』と書かれた石造の建物が見えてきた。法務省アデラル州検察庁を始めとする各法務当局が集まる庁舎の3階に、法務官事務所は置かれていた。


 警備兵に対してつい先ほど交付された辞令を見せ、建物への立ち入り許可を得ると、ユリウスは吹き付けてくる冷たい空気に身を縮こませつつドアを締めた。比較的温暖な南部と言えど、雪がちらつき始めるこの時期の夜ともなれば流石に寒い。


 階段を上がり3階に辿り着いたユリウスは、扉に掛けられた『ヴァンベルク帝国陸軍南部軍管区高等法務官部オイベルツ連隊区法務官事務所』という表札を確認してから静かにドアを開ける。


 足を踏み入れた先にあったのは、大きな窓とそこから入る沈みかけの夕日に照らされた年季の入った木製のテーブル、部屋の主が座すための椅子、そして来客用のソファが並ぶ、簡素な部屋だった。テーブルの上にはライトと電話、後は筆記用具が用意されている程度の徹底的にシンプルで事務的な装いは、前任の法務官の性格を窺わせるようだった。


「あっ……」


 よく見ると、両側の壁に扉があることに気づいた。左側の扉の上には、小さく『書類・資料室』と書かれたプレートが掲げられている。扉を開けると、そこには膨大な数のファイルや資料が収められた棚が聳えていた。


(『帝国刑法概論』、『帝国民法概論』、『帝国法学の歴史』、『実務帝国陸軍法』……)


 それらの書物を見て、ユリウスは胸の高鳴りを感じる。しかし、それと同時に過去の苦い経験が、記憶の底から湧き上がってくるのも感じた。


 古びた校舎、その前に集まる群衆。渡り廊下の上からぶら下げた、無数の──というには些か足りない番号の行列が記された垂れ幕。


 手に握りしめた紙切れに記されたそれと一致する番号を探し、血眼になって視線を這わせる人々。そして── 自分の番号がなかった時、頬を伝う涙の熱とむず痒いような喪失感と罪悪感を混ぜ合わせた、どうしようもない虚無感。


(……)


 そこまで考えてから、ユリウスは左右に小さく頭を振った。過去は過去のこと。今は今だ。苦しい思い出を引っ張り出したところで、それが何かの人生を変えるわけではない。


 逃げるように部屋を出て、今度は右側の扉に向かう。『給湯室』と書かれたプレートの掲げられた扉を開けると、ひんやりとした空気が全身を撫でた。部屋の奥にある小さな石炭コンロが目に付き、その下の棚を開けてみるといくつかの銘柄の紅茶の缶が整然と並べられていた。


 前任の法務官が愛飲していたものだろうかとぼんやり考えつつ、ユリウスはその中から一つの銘柄の茶葉をカップに入れ、湯を沸かした。官品の可能性があるものを勝手に拝借するのは些か気が引けたが、寒空に冷えた体を温めるのは公務を遂行するために必要なことであるとユリウスは自身に言い聞かせ、カップに湯を注いだ。


 部屋の中に広がる紅茶の芳醇な香りを十分に楽しんだユリウスは、一口紅茶を口に含んでから、来客用の机にカップを置く。そして、改めて部屋を見回すと、執務机の上に一枚の便箋が置かれているのが目に入った。『補佐官殿へ』と宛名書きされた、恐らくは前任者が残したのであろうその便箋の中には、後任が着任するまでにやっておくべきことがずらりと列記された手紙が出てきた。


 そこに書かれた事項を確認し終わると、ユリウスは自身の左腕をちらりと見る。時計の針は既に7時を指しており、恐らくは明朝に新任の法務官が赴任してくることから道び出される結論は――


「これ、徹夜では?」


 その日、彼は夜を事務所で過ごした。


――――――――――


 結局用意された宿舎に向かうことすらできず、前任者が残した決裁が必要な書類のまとめや必要なファイルを出しておくことなど、彼がやるべきことを終えたのは日付が変わってからのことだった。


 庁舎に置かれた浴場で体を洗い、その後来客用のソファに倒れ込んだ彼はしかし、軍隊でみっちり叩き込まれていた通りの起床時間に目を覚ました。ボサボサの頭と変な体勢で寝たせいで軋む体に鞭を打ち、ユリウスは給湯室に併設された洗面台に向かう。


 出てくる水は冷たく、眠気を覚ますには却って都合が良かった。顔を洗って歯を磨き、最低限の身だしなみを整えたその時であった。執務机の電話がけたたましく鳴り響く。急いで給湯室を出て電話へと向かい、受話器を取る。


「はい、こちらオイベルツ連隊区法務官事務所」

『合同法務庁舎管理部です。入口にそちらの事務所の法務官がいらっしゃいました。申し訳ありませんが出迎えをお願いします』

「了解。準備してすぐに向かいます」


 短く返して受話器を置いた後、ユリウスは軍服を改めて整え直し、鞄を持って扉の外に出る。1階まで降りると、警備兵とその奥にいると思わしき人物が、何やら問答をしているのが見えた。


「……はい、私がここの事務所に来た新しい法務官です。身分証はここに」

「拝見します。もうすぐ事務所の方が来られるので……」


 警備兵と問答している人物の声に、ユリウスは違和感を覚える。あまりにも若い――というよりも、幼さすら混ざっているような、そんな声。そう思って目を凝らし、警備兵の肩越しに見えたのは――軍服を身に纏った、小柄な少女であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る