名前と風


『第一と第二階層のことは気にしなくていいよ。君達は自分の身を大切に。部屋に戻っていようね』


 なんて、いつも通りの声色でガイン先生に部屋に戻された。鎖を引かれて、囚人のように。


 ノアもユニも同様に、重りを増やされて運ばれた。

 両足にギプスをはめた湊はモズ先生に抱えられ、フィオネはスー先生に手を引かれて。

 メルはモニカ先生に首から下を飲み込まれた状態で部屋まで連れて行かれていた。


 部屋の外から鍵をかけられた音を聞き、私は扉の前にしゃがみこむ。床にお尻をつけて膝を抱えて、窓の外は夕暮れを過ぎた色をしていた。


 抱えた膝に顔を埋める。

 暗くなる部屋の中で、目を閉じる。


 私がパンデモニウムで生きる意味は、ガイン先生と出会った時から決まっていた。


 私達ゲネシスは殻だ。

 守るようにと手渡された先導者パラスが、孵った後の殻。


 喋ることが許されたパンデモニウムで生きる意味とか、そんなものを求める必要はなかった。元から決まっていたんだから。


 私にはライラの殻になる資質があった。憤怒のクラスに集められた子は、みんな資質を有していた。その中で、私がトップに立っただけ。


 暗い瞼の裏に、水の膜を張った黒い目を思い出す。「ごめんなさい」を言えなかったあの子を、思い出す。


 あれも教育だったなら。

 あれも、私がライラの殻になる為に必要な事柄だったなら。


 ふざけてる。

 ふざけてる。

 人の命を、何だと思ってる。


 息苦しくて、息の仕方が分からなくて、膝から上げた顔には汗をかいている。


 肩で息をして、膝を崩して四つん這いに近い形になって、それでもまだ呼吸が浅い。


 マスクに触れる。マスクに爪を立てる。マスクの金具に右手が伸びる。


 その瞬間に背中が思い出したのは、メイスで殴られる痛みだから。


 右手首を左手で床に押さえつけ、額も床に擦って小さくなる。


 外してはいけない。食事でもお風呂でも、睡眠でもないのだから。外してはいけない。外すのは悪いこと。ダメ、ダメ、我慢しろ、ダメだ。


 そうやって、私はずっと守ってきた。


 今まできちんと守ってきた。


 一度の失敗から更正して、正しく生きてきたのに。


 喋らないようにしてきた。喋る人を罰してきた。喋らないことが世界のためだと信じてきた。


 それなのに、ちゃんと守った先が、この道なのか。


 どうして、どうして、どうして。


 腹の底が熱くなる。肺が狭くなって呼吸がしづらい。力を入れた目頭から雫が落ちた。悲しいわけではないのに。流したいわけではないのに。


 規律を守ってきた私が、どうしてこんな道に立っているのか。どうしてこんなに息ができないのか。


 私は、ちゃんと、喋らず、今日までやってきたのにッ


 奥歯を噛み合わせて呼吸する。押さえつけていた手で胸を掻き、いつか浮かべた感情を再び舐める。


 そう、そうだ、覚えてる。


 私が初めてパンデモニウムに来た日。守護者ゲネシスになった日。ライラを託された、あの日。


 同じことを思ったんだ。


 あの日から私は、同じ感情を燃やし続けているんだ。


 体内の魔力が熱を帯びたと気づいた時、ウェストポーチのチャックが開く音がした。


 〈酷い有様だこと〉


 紫の火文字が宙で踊る。あの日と同じ文字が揺れる。


 部屋を覆った猛火の魔人。紫の海は荒ぶることなく、静かに淡々と燃え広がっている。


 揺らめくライラは、蹲る私を見下ろしているようだ。


 〈いい怒りね 私のゲネシス かわいい子 貴方の怒りはいつも私に力をくれるわ〉


 火で出来た手が私の頬を撫でる。私の肌はその温度に耐えられる。耐える為に、体づくりをしてきたから。


 服を握り締めていた手を解き、私の指には火が溜まる。喋らずに意思疎通がしたくて、宙に文字を書きたくて、工夫してきた私の力。


 〈成鳥に なった時 名前をくれるって 約束した〉


 ゆっくり綴って、ライラを見上げる。


 〈名無しでいてねって 書いてた〉


 数秒で形を変え、熱を発し続ける魔人を凝視する。


 〈生きる意味をくれるって 書いてた〉


 震えた手を片手で支え、私の感情が育てた魔人に火を見せる。


 〈なんて名前を くれるの〉


 書いて、拳を作って、魔人を射抜く。


 どれだけ熱くても視線を逸らさず、どれだけ目が乾いても瞬きせず。憤怒の魔人に、私は問う。


 紫の猛火は上体を曲げて私に迫ると、炎を歪めて笑っていた。


 〈ライラよ〉


 視界が白く明滅する。

 火の爆ぜる音が遠くなる。


 頭のどこかで分かっていた答えが、突きつけられる。


 〈だって貴方は私のゲネシス 私のかわいい殻だもの〉


 憤怒のライラが私を包む。

 猛火の檻が私を逃がさない。


 〈パラスって便利よね ちょっと環境を整えて 少しだけ面倒な相手をいなしていれば こんなかわいい殻を準備してもらえるんだもの〉


 どこから来たかも分からない魔人。

 空の果てからやって来た、憤怒の権化。


 〈かわいいかわいい私のゲネシス 大丈夫 貴方の怒りが私は好きよ その身に宿した怒りこそ 私を育て 受け入れる糧になってくれるんだもの〉


 猛火が大きく波打って、部屋の温度が上がり続ける。その熱に耐えるだけの造りをしているここは、やはりライラの部屋なのだ。


 私の場所はどこにもない。


 パンデモニウムに、私が私でいられる場所は、どこにもない。


 〈貴方が名無しで良かったわ〉


 火が笑う。炎が踊る。猛火が私を嘲笑う。


 〈名前が無い方が 殻に馴染みやすいのよね〉


 私の脳裏では、ガイン先生の言葉が回った。


『ま、俺も名無しちゃんで通そうと思ってたからいいや。気が合うね』


 ***


 気づけばベッドに横たわっていた。いつライラがポーチに戻ったとか、どうやってベッドに移動したとか、そんなことは覚えてない。


 ベッドのシーツに手を滑らせ、皺を作って、目で追った。


 私はこれからどうすればいいのだろう。

 殻ってどんな感じなんだろう。


 ライラの殻になった時、そこに私はいるのかな。


 私の意識は、どこに行くのかな。


 シーツの皺に指を立て、握り締めて体を丸める。


 先生達はもう殻へ移行し始めてもいい口振りだった。ノアとユニ、私はまだ難しいと言っていたから何か条件があるのか。疑念が邪魔をするのか。


 なら、メルとフィオネ、湊は。


 今日の話を聞いて、あの三人はどう動く。どう感じた。何を考えてる。


『ご飯食べよう、イグニ』


 メルはいつでも私に給仕をしたがった。自分より小さくて軽い存在を愛でていた。フィオネの手を引き、湊の口に食事を突っ込み、私の為にご飯を作ってくれた。


 〈俺はペリドットの力が強くてね だからずっと教会にいた 何人もの優しい人達を認めてきた それが俺が生まれた意味で 役割だから 優しさを認めて 広げるのが 俺なんだ〉


 湊は傷つくことを望んだペリドット。人の痛みを受け入れて、肩代わりしてきた子だ。怪我をしている方が優しくて、痛みを教えたいと人に刃を向けた彼は。


 彼はまだ、エーラを孵してない。


 そう、湊はまだだ。彼の元にある卵はまだ孵っていない。


 緑の双眼は妖精を見ていたから。彼女と手を繋いでいたから。


 〈イグニ〉


 ベッドから体を起こした時、私の肩に紙が触れる。唐突に頭に響いた声に体が震えたが、その正体はすぐに判明した。


 〈やさしくて強いイグニが好きよ〉


 窓枠の隙間を抜けて届いた、金の紙。それは何度も聞いた声を私に届けにやってくる。


 〈いっぱい話を聞いてくれるメルも好き。たくさん手を繋いでくれる湊も好き。真似できない声で喋るユニも好き。大きくて不思議なノアも好き〉


 風に乗った以心伝心タラリアが、私のベッドに溜まっていく。


 〈みんな好きよ。好き好き大好き、いっぱい好き〉


 桃色好意少女――フィオネの声が、私の頭に流れこむ。いつものように甘い声を紙に乗せて。


 〈だから私、みんなに見て欲しかったの。飛んでる私の姿。パンデモニウムでなら、私は飛んでもいいって思えたから〉


 また、金の紙が私に当たる。風が私の髪を撫でる。


 伝わるフィオネの声は、笑っていない気がした。


 〈でも、でもね。私ね、思っちゃったの〉


 立ち上がって窓を開ける。以心伝心タラリアが吹き込んでくる。


 〈まだもうちょっとだけ、手を繋いでいたいなって〉


 流れてくる、流れてくる。


 〈ずっと飛べてて嬉しいのに、手を繋いでもらえるのも嬉しくて。私、考えるのって苦手なの。下手なの。考えるってどうしたらいいのか分からないの〉


 風に乗ったフィオネの声が、流れてくる。


 〈それでも私、あぁ、私ね、今日の話を聞いて思ったわ。みんなが好きな守護者ゲネシス。その殻になれるってきっと素敵なことなんだわって。そう思うようにしたわ。そう思わないと、そう思っていないと、〉


 息継ぎが下手だ。言葉をまとめるのも下手だ。それでも今、フィオネは懸命に息をして、意思を伝えようと以心伝心タラリアに触れている。


 私とユニの会話を覚えて、地が揺れた時、私達の居場所をノアに教えてくれた、柔らかな妖精。


 届く金の紙を両手で受け取めた私は、フィオネの声に耳を傾けていた。


 〈……嫌だって、思いたくないのに、思っちゃいそうなの。思っちゃダメなの。好きでいないと。好きなところを探さないとダメなのに〉


 以心伝心タラリアが風に乗る。


 私の両手に下りてくる。


 〈私、みんなともっと、お話していたかったわ。もっと好きって伝えたかったわ。本当に、本当に、大好きだから〉


 その言葉に――冷や汗が浮かんだ。


 次の一枚が飛んでくる。


 最後の一枚が、やってくる。


 それに触れた私は、体を燃やして駆け出した。


 外から鍵のかけられた扉をモーニングスターで殴り、殴り、殴って壊す。


 砕けて燃えた扉を踏んで、フィオネの部屋の方を見る。


 メルの部屋の扉も食われた。真緑のツルが激しくうねり、生きた包丁が破片を雑に食べている。


「フィー!!」


 赤茶の髪を乱し、張り上げたメルの声が廊下に響いた、瞬間。


 寮全体で――膨大な風の魔力を感じた。


 肌を泡立たせる圧力。

 突発的に流れたのは、体を巻き上げる暴風。

 床を転がり、モーニングスターを突き立てて、やっと前を向ける程の台風。


 メルは植物に自分を抱えさせ、私の体も掴んでくれる。視線の交差した赤茶の瞳は焦りを浮かべ、私の顔を自分の髪が叩いた。


 台風の中心は、フィオネの部屋。


 そう分かった瞬間、風がやむ。


 体が正しい重力を感じる。


 階段を駆け上がってきたノアは私を見ると、すぐに鱗の腕に抱えてくれた。


 ユニは状況を理解しようと白い瞳を左右に走らせる。


 メルは壁伝いに立ち上がり、最後に松葉杖で到着した湊は、フィオネの部屋の方向を凝視していた。


「……嘘だ」


 湊の声が落ちる。


 フィオネの部屋の扉が開く。


 出てきたのは、金から桃へグラデーションがかったおさげ。脹脛の白い羽根。風に浮いた体はしなやかに伸びをし、桃色の双眼がこちらを向いた。


 月光の如き、淡い金の輝きを、その目に滲ませながら。


 少女が笑う。

 風に座った、彼女が笑う。


「あらぁ、みんな集まってくれたのねぇ、ありがとぉ」


 フィオネの声で、フィオネではない誰かが喋る。


「成鳥になる一番は、私だったみたいねぇ」


 フィオネ・ゲルデを纏って喋るのは――愛執のリベール。


 私の体から血の気が引く。


 耳に残っているのは、最後に届いた少女の声だ。


 〈ずっとずっと好きだから……私を、忘れないでね〉

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