第14話 八咫鴉
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水戸藩士の屋敷には必ずのように梅と竹が植えられている。
塀から飛び降りて重孚の屋敷内に侵入を果たした雑賀は、さながら果樹園でもあるかの如く整然と植えつけられた梅林の中に身を隠した。
水戸藩は公称三十五万石ということになっていたが天保年間に水戸藩が行った検地で判明した実高は、わずか二十五万石である。
にもかかわらず、徳川御三家の一つとして残る二藩である尾張藩や紀伊藩はもちろん、その他の大藩とも面子に懸けて見栄を張り合っていたため、始終、財政が逼迫していた。
開国以来の物価の上昇が水戸藩の財政悪化に、より一層の追い打ちを懸けている。
お借り上げと言い、名目上、家臣から禄の一部を藩が借りていることとして事前に禄を強引に天引きして対処している始末であった。
もちろん、水戸藩には借りた米を家臣に返すつもりも返せるあても全くない。
おまけに他藩では玄米で支給している禄の米を水戸藩ではまだ殻のついた籾の状態で支給するため禄としての実質的な米の量は、さらに少なくなる仕組みにさえなっていた。
水戸藩士の屋敷の庭に植えられた梅と竹は、せめて梅干しや筍でも食べて少しでも腹と収入の足しにしようという苦肉の策だった。
他には柿も良く植えられている。柿の場合、果実はもちろんだが若芽も食えた。
鈴木重孚の六百石取りにしても、あくまで公称で実際の禄高はお借り上げのために大きく削られてしまっている。
おまけに公称の石高の多少に比例して、藩士は軍用金を藩に納めることとされていたから実際に使える手取りとなると遙かに少なかった。
貧乏こそがすべての水戸藩士が直面している一番の敵であり、その原因は物価の上昇を招いた開国、すなわち外国人のせいであるとして水戸藩の方針は尊皇攘夷だった。
雑賀はそんな水戸藩の重臣の屋敷に忍び込んだのだ。見つかれば勝海舟の身分証明書があったところで無事には済むまい。
幸いなのは他の重臣同様、重孚もまた公称に見合う決められた数の家臣を雇うだけの体力を持ってはいないことだ。重孚の屋敷の警備はほとんどザルも同然だった。
もっとも屋敷と呼ぶから聞こえは良いが広いのは面積だけで実際はその大部分が梅と竹の林にすぎないのだが。
雑賀は下枝を低く仕立てられたそんな梅林の中を、梅の枝に頭をぶつけぬよう身を屈めたまま小走りで移動していた。
踏み込む度に右足の切り傷に痛みが走る。
梅の実はすでに収穫されており梅干しに加工するため敷地内のどこか別の場所で干されているようだった。甘酸っぱい梅の香りだけが辺りに漂っていた。
その匂いだけで雑賀は口中に涎がわいてきた。
唾を飲み込み軽く足を引きずって走り続けた雑賀は、やがて屋敷の縁側に面したある一室に近づくと梅の林に身を隠したまま片膝を地面に突いて動きを止めた。
暗く、ほとんど人気の感じられない重孚の屋敷であったが、その一室だけは室内に明かりが灯っている。
雑賀は片膝を落とした姿勢のまま、じっと動かずに部屋を見張った。
雑賀が潜んでいる梅の木と見張っている部屋の縁側との距離は六間(約十・八メートル)程である。
日は落ちかけ梅の葉が木の下に濃い暗がりを作っていた。
黒い衣服の雑賀の体は闇に紛れてほとんど見えないはずである。
雑賀が見詰める屋敷の一室こそ当主である鈴木重孚の部屋であった。
梅は、もちろん食べ物になるばかりではなく花を見ても楽しめる。
縁側に面した重孚の部屋の戸を開け放てば季節には満開の梅の花が楽しめるような配置に屋敷内の梅の木は植えつけられていた。
雑賀が部屋を見張り始めるとすぐ、縁側に面した重孚の部屋の障子戸が開いて中から門番が現れた。
すぐに戸を閉め門番は縁側を足早に去っていく。
おそらくは門の外で待っているはずの雑賀のもとへ向かうつもりなのであろう。
門番は目の前に雑賀が隠れていることには全く気づかない様子だった。
まさか雑賀がすでに目と鼻の先にいるなどとは想像すらもしていまい。
さらに待つと室内の行灯の明かりが消えた。
再び障子戸が開かれて痩身の六十絡みの男が姿を現した。重孚である。
重孚は縁側を門番が去ったのと同じ方向へ進もうとしたが、ふと視界に何かが入ったのか直感を得たか、雑賀が潜む梅の根元へ視線を向けた。
「何奴!」と、重孚は鋭く
雑賀は「重孚殿」と低く落ち着いた口調で応答した。
膝を落として地面に向かって顔を伏せたまま雑賀は梅の木陰から外へ姿を現した。
とはいえ、すでに辺りは暗く邸内に無駄な明かりは灯されていない。重孚には雑賀の顔は見えないはずである。
「失礼ながら表ではなくこちらで待たせていただいておりました」
「無礼だな。それほどの切迫した用件か」
不審者に応じる重孚の口調に脅えはなく淡々とかつ堂々としたものだった。
「恐れながら」
雑賀は、より深く頭を下げた。
「申せ」
「まずはこれを」
雑賀は自分の手荷物の袋の中から一尺ほどの長さの細長い布包みを取り出した。
片膝を立て平伏したまま雑賀は思い切って重孚の足元まで近寄った。
縁側から雑賀を見下ろす重孚に対して雑賀は包みの下に自分の両手を添えるようにして頭上に掲げると包みを
重孚は雑賀から包みを受け取った。
布をほどくと中には短刀が入っていた。
色褪せて古ぼけた短刀だ。
真っ赤な鞘に白い丸の模様があり白丸の中には黒で三ツ足の鴉の図柄が描かれている。
「これは雑賀の旗印、
不審者を前にしても動じなかった重孚が悲鳴のような声を上げた。
「死んだはずの息子の短刀だ!」
重孚は縁側から地面に飛び降りると一方の手には短刀を握ったまま雑賀の両肩をがしりと掴んだ。
顔を伏せたままの雑賀を重孚は激しく揺さぶった。六十間近とは思えぬ腕力だ。
「おぬし、いったい、どこでこれを!」
重孚の声は掠れていた。
雑賀は応えない。
重孚に肩を掴まれたまま、いいように揺すられていた雑賀の口から、くくくくく、と、漏れるような声が上がった。
「何を?」
重孚が雑賀の肩を放す。
だが、重孚が肩から手を放してもなお、雑賀の肩は小刻みに揺れているままだった。
雑賀は笑っていたのである。
「まだ、わかりませぬか?」
雑賀は、がばりと顔を上げると見下ろす重孚の顔を見返した。
「まさか」
重孚の口から呟きにもならないような小さな声がこぼれ落ちた。そのまま重孚は、へたへたと座り込んだ。
にやりと笑い、雑賀は左目を
「父上。雑賀
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