南北戦争帰りの雑賀孫市の子孫、米大統領の密命により幕末の勝ち馬づくりに暗躍す。

仁渓

第一部 帰郷篇

第1話 おあずけ犬

               1


 文久三年五月十日(一八六三年六月二十五日)。


 USSモニター型戦艦モビーディックは船首にアメリカ国旗を高々と掲げて江戸湾に進入した。


 第十四代将軍・徳川家茂いえもち孝明こうめい天皇に約束した攘夷決行の期限日のまさに当日のことである。


 モビーディック専任通詞つうし雑賀聖人さいかひじりは艦内から甲板にでるためのハッチを押しあけた。


 途端に陽光と青い空が目に飛び込む。眩しさに雑賀は目をしばたたいた。


 敵船からの砲撃を艦体に受けないよう喫水が浅い半潜水式の船としてモビーディックは設計されている。


 高波を艦内に入れないためハッチは四角い煙突状の筒の上に設置されていた。


 雑賀はハッチから甲板に飛び降りた。


 雑賀の肌は浅黒く日に焼け伸ばした黒髪を後頭部で一つに束ねている。


 年齢は二十八。


 なめした鹿の皮のズボンとシャツを身につけふくらはぎの中程までの高さの牛革のブーツを履いている。


 腰の左右でガンベルトに通したホルスターには、それぞれ拳銃が納められていた。


 S&Wモデル2アーミー。三十二口径六連発式の拳銃は一八六一年にアメリカで発売された途端、圧倒的な使い勝手の良さから南北戦争中の南北両軍の兵士から三年待ちの予約が殺到したという代物である。


 ガンベルトには革製の小さなループが無数に縫いつけられ、ループには同じだけの数の金属薬莢が詰められていた。


 腰のガンベルトとは別に、やはり金属薬莢を納めたカートリッジ・ベルトを雑賀は両肩から襷掛けに身につけている。


 雑賀は船首に向かって歩きだした。


 歩くのに支障を来すような揺れはない。


 江戸湾の海面は穏やかに規則正しく上下しているだけであった。


 船首に立つアメリカ国旗を掲揚している支柱を右手で握りしめ身を海上に乗り出さんばかりにして雑賀は近づいてくる横浜村の町並みに目を凝らした。


 日本らしからぬ西洋風の家々が港の奥、外国人居留地と呼ばれる一帯に広がっている。


 小さな庭と花壇に囲まれた住宅は、すべて新築か新築同様に新しい建物ばかりである。


 モビーディックは速度を落とし、ゆっくりと投錨予定地点へと向かっていた。


 史上初めて旋回式の砲塔を搭載した戦艦モニターの改良型であるモビーディックは甲板の前後に一基ずつ計二基の旋回砲塔を備えている。


 旋回砲塔には、それぞれ口径十五インチのダールグレン砲が二門ずつ装備されていた。


 砲撃時に邪魔になるような帆はなく蒸気機関によるスクリュー制御のみで航行する船だ。


 海風が雑賀の顔をなぶった。


 日本を離れていた十年間、雑賀が、ずっと脳裏に思い描いてきた祖国の町並みは軒の突き出た木造平屋建てで瓦屋根と障子戸がある家だ。


 だが、今、目の前にある町並みは雑賀が思い描いてきた祖国の景色ではなかった。


 多くの家が二階建てで障子戸ではなく木製の板戸に囲まれている。


 家の中と外の境目となっている空間は縁側ではなくベランダやバルコニーという呼び名こそがふさわしい代物だ。


 多分、内部も畳ではなくテーブルと椅子が並んだ板敷きの部屋だろう。


 雑賀が記憶している限り、以前の日本では、ほとんど見かけなかった建築様式だ。


 マシュー・カルブレイス・ペリー提督の来航によって始まった変化は建物のような目に見える物ばかりではなく政治体制といった目に見えない物にまでも及んでいた。


 アメリカが、まさしく南北戦争の最中であるように日本もまた、ほぼ内乱状態にあると雑賀は聞いていた。


 雑賀が離れた十年前の日本と今の日本は様々な面で大きく変わってしまっている。


 日本の変化は生き別れたきりの雑賀の家族にも多かれ少なかれ及んでいるのに違いなかった。


 変化が吉とでた者もあれば凶と出た者もあるだろう。


 はたして、家族は吉凶いずれの側に属していようか。


 歯痒さで雑賀は奥歯を強く噛んだ。


 いずれにしても違う国にいた雑賀には家族に変化が及んだ当時、何の助けにもなれなかった。


 帰国が叶い、今まさに日本の地に着こうという状況となったが、任務のためこの先も家族を助けられるとは限らない。


 歯痒い限りだ。


 艦は歯痒さと同じくらいに、ゆっくりと進んでいる。


「遅い」


 雑賀は苛々と前部旋回砲塔を振り返った。


 分厚い鉄の装甲に覆われた砲塔上には、同様に分厚い鉄の装甲に守られた司令室がある。


 旋回砲塔の上こそが甲板上で砲撃を邪魔せずに司令室が存在できる唯一の場所だった。


 司令室では艦長以下数名の士官が任務に就いている。


 艦長たちが故意に雑賀の帰国を遅らせようとしているわけではないのはわかっている。


 にもかかわらず、雑賀は理不尽な苛立ちを胸に抱いた。


 雑賀は司令室を睨みつけた。


 司令室ではモビーディック艦長ジョナサン・デビット大佐が双眼鏡で近づく横浜港の様子を視認していた。


 ジョナサンが雑賀が司令室を睨んでいる姿に気がついたようだ。


 ジョナサンは双眼鏡を雑賀の顔に向けた。


 ジョナサンの目には恨めしそうな雑賀の表情が大写しに見えているのに違いなかった。


 濃い髭に覆われたジョナサンの口元が面白い玩具を見つけた子供のように、にやりと微笑みを形づくった。


「まだよ、まだまだ」と、ジョナサンの口が動く。


 聞こえはしなかったが雑賀にはジョナサンの言わんとした意図が、はっきりと伝わった。


 雑賀は照れ隠しに、ぷいと前方に視線を戻すと港に浮かぶ他の船に目をやった。


 アメリカ船はない。だが、英仏数隻ずつの軍艦が停泊していた。


 すべての艦が太い帆柱を持っている。皆、蒸気船だが帆走も行うのだ。


 モビーディックのような完全な蒸気走行のみの艦は一隻もない。


 軍艦に比べて数倍の数の商船も停泊していた。


 他にも荷のやりとりや陸上との乗員の往来用の小船が大型船の間を何艘もちょこまかと動いている。


 雑賀は、行きかう船たちの様子を、しばし眺めた。


 やがて、モビーディックは完全に足を止めると碇を降ろした。


 轟音とともに二基四門の砲塔が空砲を放つ。到着の礼砲だ。


 二十一発の礼砲が撃ち終わると遠く神奈川村の砲台から返答の礼砲の音が聞こえた。


「おあずけされた犬みたいな顔をしているぞ」


 突然の背後からの声に雑賀は振り向いた。


 にやにやとしたジョナサン・デビットの笑い顔が、すぐそこにあった。


 年齢は雑賀より二つ上だ。


 日本人である雑賀より、そう背が高い訳ではないが筋肉の固まりのような男である。


 太い首の上に人懐こい笑顔が乗っていた。


「目からよだれだ」


 雑賀は自分が涙を流している事実にジョナサンの言葉で初めて気がついた。


 とはいえ、恥ずかしいとは思わない。


 ジョナサン・デビットと雑賀は、南北戦争の渦中、同じ戦場で肩を並べて戦った友である。涙など散々に見せあっていた。


 雑賀の腹が、ぐう、と鳴った。


 にやにやとしたジョナサンの笑顔が爆笑に変わった。


「ほらみろ、おあずけをされた犬だ」


 流石に雑賀は、ばつが悪くなってジョナサンから顔を逸らした。


 雑賀はうそぶいた。


「潮風が夢にまで見た醤油と味噌の匂いを運んできたんだから仕方ないだろう」


「ははははは。すぐ降ろしてやるから、しこたま食ってきな」


「サンクス」


 雑賀は、ジョナサンに右手を差し出した。


「おまえのおかげで帰ってこられた」


「なぁに、任務だよ」


 ジョナサンは短く髪を刈り込んだ頭を右手でぼりぼりと掻きむしった。


 同じ手で雑賀の右手をグッと握り返す。


 ジョナサンの顔から笑みが消えた。濃い眉毛と髭の間の小さな目玉が真剣だった。


「気をつけろ。日本じゃ志士とかいうやからが外国人を見ると斬りかかってくるそうだ」


 雑賀は軽く笑った。


「俺は日本人だぜ」


「そのナリじゃ、誰も日本人とは思わんさ」


 雑賀の腰ではモデル2アーミーが青黒い輝きを放っていた。


 上半身には百発を越える弾丸を納めたベルトも巻かれている。


「すっかり、臨戦態勢だな」


「この船が港へ着くまでは専任通詞。だが、その先は大統領直属のエージェントだ。『内戦中の日本の勝ち馬と手を組め』というのが閣下のご命令だ」


 雑賀は左目をつむってウインクをした。


「自分で勝ち馬をつくりだすとなったら、これくらいは持ち歩かんとな」


 ジョナサンは呆れたような声を上げた。


「真っ先に志士に狙われるよ」

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