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武上 晴生

屈折

「だから、カメラの羽根の絞り具合で被写界深度が変わるわけです……」


 パソコンの画面に表示される資料の上を、赤いポインターがカクカクと動き回る。

 水平な線に沿って一直線上に並ぶ、光源、凸レンズ、像。そしてレンズで折れ曲がる光の線。思えばこんな図は中学、もしかしたら小学校のころから教科書に載っていた。

 虫眼鏡でものが大きく見える仕組みを知るため。実像、虚像、焦点などの新しい言葉を覚えるため。倍率や像の大きさ、写る位置なんかを計算するため。映像制作の撮影技法を学ぶため。

 図を使用する目的、教わんとする内容、それはもちろん異なっていたはずだ。重々分かっている。あのとき習ってきたことが今日まで活かされていると言うこともできるだろう。そんな言葉だけなら、文字だけで意味を認識するなら、とてもポジティブなことであるのだろうなぁと思う。

 テストで‟Do you agree or disagree with this statement?"なんて聞かれたものなら真っ先にagreeと書くのは間違いない。

 でも感覚にしてみれば、気に食わないのだ。なんとなく。

 大学生にもなって義務教育時代と同じことを教えられているのか、とまではいかないけど、それに近い。今年どころか、今まで何をやっていたんだって思ってしまう。

 コップに入った氷がカランと鳴る。

 頭の上で手を組んで、ひっくり返して平を天に向け、ぐっと伸ばして肩をコキコキと鳴らす。

 力なく腕を落とすと、机の端の、パソコンに追いやられて積み重なった参考書が目に入る。上から三番目にいる赤い物理の問題集。パソコンから顔をそむけ、腕を伸ばす。

 パラパラとめくり、適当なページを開いて見る。波動の範囲。目で文字を追う。特に意味はない。

 眺めるだけで頭が良くなる気がして、どこかにある苦い不安を紛らわせるように思えて、何一つ為にはなっていなくとも、やらずにはいられない。一種の中毒みたいなものだった。

 講師の声も耳に入らなくなる。自分が曖昧になる感覚に酔っていた。


 ふと我を取り戻したとき、声はしなくなっていた。

 パソコンを見る。画面が変わっていた。画面共有されたスライドが屈折の絵から変わったとかではなく。まず、参加者が三十人から二人に減っている。

 まだ授業の終わる時間じゃあない。たぶん、ブレイクアウトルームに分けられたのだ。最終課題の映像作品をつくるグループで話しをしてとか言っていたっけか。

 撮影グループのメンバーは計五、六人いたはずだが、今このルームには自分のアイコンと、椅子に座ったパンダのぬいぐるみしか映っていない。

 人の姿は見えないし、声もしないし、今のところ動きはない。一息つくと、ほぼ無意識にブックマークバーにあるYoutubeを開いて、あなたへのおすすめにあったマリオカート実況をクリックする。

 「聞こえてるよ」

 その声はYoutubeからかと錯覚して、ウィンドウを閉じてしまった。Zoomを見れば、黄色い枠の中で、パンダの後ろから、人間が顔を出していた。

 ごめん、と言いかけ、口を開いたまま止まる。Youtube聞いててごめん、か、遅れて申し訳ない、か──どっちにしろ言うにはあまりにも不真面目な行動をしすぎた。結局模範解答を諦めた頭はとぼけることを選んだ。

「ミュートしてなかったっけ」

「今日は大学来る日ではなかったでしたっけ?」

「あ」

 忘れていた。というか連絡をちゃんと見ていなかった。スマホの通知で何か書いてあったのを見た。気がする。

「ほかのメンバーは買い出しとロケハンに行った。話はだいたい終わったから」

「……あなたは」

「自宅だけど、誰かさんとは違って連絡をしたので」

 マイクに入らない程度にため息をつき、静寂を以て返答とした。

「えー、撮影日はできれば全員集まりたいわけだけど、アンケートの結果、みなさん都合が合わないのですよ」

 一つ分かるのは、そのアンケートに自分は参加していないということだ。

 さすがに決まりが悪くなって、せめてもの償いにビデオカメラをオンにして、申し訳なく思っている表情を相手に見せながら俯きがちにいう。

「僕は夜でも大丈夫ですよ」

「徹夜もいける?」

「……」

 それは聞いていない。

「今夜から明日始発まで。今んとこ、今日学校にこなかったメンバーが対象となっております。ちなみに私は参加する」

 背もたれに体重をあずけ天を仰いだ。深夜。少人数。無理。

 よくそんな無茶な計画通したなぁ。他人事のように笑いながらパソコンを見下げる。

 この表情が相手に見えていないのが救いだ。いや、カメラオンにしてたんだった。もうどうだっていいや。

「偉いですねーあなたもみなさんも。そんなに授業に真剣になれて、ひたむきになれて……話を聞いて素直に受け止められる人は偉い。疑い、否定、不満ばっかじゃあなんもやれんですもん」

 額を片手で押さえながらうなだれる。薄目に見る彼女は、目を見開いて一瞬口の端を上げた、気がした。

「そう? 真っ直ぐにしか物を見れないのも考えものだと思うよ」

 彼女は自信ありげに言い放った。と、言いますと? と返してやる。

「実は私、生まれつき、『屈折』が見えなくって。全然人と見る世界が違うんですよ」

「と、いいますと」

「例えば虹とか。あれは太陽の光が水滴にぶつかって屈折して起こる自然現象でしょ。あれが私の目には映らなくって、見えなくて。写真でしか見たことがないの」

 ほう? と年不相応な声が出る。空の色や雲の見え方まで変わってきそうな話だ。

 なけなしでありったけの知識を引き出しては質問を投げかけてみる。

「当然、彩雲や月の暈、ニュートンリングとかシャボン玉の虹色は見たことがないと?」

「なーいですね」

「蜃気楼とか陽炎、逃げ水も」

「蜃気楼は普通に見れなくない?」

「眼鏡、コンタクト、虫メガネは」

「私の前では無力」

「水族館の分厚いアクリル板でアザラシが歪んで見えたり」

「そっかー、君らには歪んで見えるのかー。残念だね」

「じゃあこの……コップの水に浸かったストローはどう見える?」

 溶けた氷入りのガラスコップにストローを挿してカメラに映す。

「大丈夫、画面越しならちゃんと歪んで映るから」

 意外と騙されないな。コップを置いて頭を掻いた。そして相手の顔を見て、尋ねる。

「視界は、どうなってる」

「あーっとね、一般人より狭いんですよ。角膜で光を集められないから……」

「残念。像を結べないので『見えない』が正解でした」

 彼女はきょとんとした。

「ん、よくわかんないけど負けたってこと?」

 無言でうなずいてやる。

 彼女は首を傾げ徐々に目線を上げていくが、急にカメラ目線になってタカタカと音を鳴らす。しばしカメラの少し下を凝視すると、突然画面から顔を遠ざけ、あー、と声を上げながら顎に手を当てた。

 彼女のモーションが落ち着いたところで、僕はマイクを口に近づけた。

「罰ゲーム代わりに答えていただきたい。

なんで屈折が見えないだなんて突拍子もない嘘ついたんですか」

「あーはは、あー。うん。屈折ね」

 彼女は笑いながらこちらを指さす。

「そこに君の物理の参考書があるでしょ。開かれて映ってたから思いついたのよ。興味あるんだなって」

「……別に」

「それに、まぁつまり、屈折がなきゃあ世界は『見れない』わけですよ」


 彼女はにかっと笑った。そして、ぬいぐるみを抱きかかえる。

「ということで、撮影、来ませんか」

 目をつむり下を向く。

 はぁ、とひとつため息をついてから、スマホを取り出した。

 乗換案内アプリを開いたとき、画面に写った自分は、少し口角が上がっていた。

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