43 宿にて 02 悪神アルスナム

 ふと、ホリーは自分が神殿のような広い空間にいることに気づいた。隣に気配を感じてそちらを見ると、シャルリーヌと目が合った。そして二人は申し合わせたように前を見る。

 そこにはバートともう一人、いや『人』と表現するのは正しくはないだろう。その青年に見える存在は人にはあらざる神聖な雰囲気を放っている。バートとその存在はホリーとシャルリーヌに気づいていないかのように盤を挟んでチェスを打っている。

 ホリーもシャルリーヌも言葉を発そうにもその存在がおそれ多くて発せない。彼女たちも気づいている。これは夢なのだと。だがただの夢ではないと。そしてホリーにはバートの対面にいる存在とよく似た存在に心当たりがあった。その存在は夢の中で彼女に啓示けいじを与えた善神ソル・ゼルムと同質の存在に見えた。

 バートたちはただ無言でチェスを打つ。ホリーたちを見ることもなく。彼らがホリーたちに気づいているのか気づいていないのかも彼女らにはわからなかった。




 どれほどの時間、そうしていたのだろうか。バートの姿が急に薄れ、消えてしまった。



「バートさん!?」


「バート!?」



 それにはホリーとシャルリーヌも声を上げてしまった。

 バートと向かい合っていた存在はホリーたちを見もせずに言葉を発する。



「心清き人間の少女よ。心清きエルフの乙女よ。ここはお前たちのいるべき所ではない。去るがよい」



 その言葉は抗いがたい圧力となってホリーとシャルリーヌに迫る。だが、彼女らは踏みとどまる。存在の淡々とした言葉が、彼女らの身近にいる男を思い起こさせた。

 ホリーはあらがいながら言葉を発する。



「……私はホリー・クリスタルと申します。あなたは、どなたなのですか?」


「我が名はアルスナム」



 存在はあっさりと答えた。自分の言葉にあらがわれたことに不快感を示すこともなく。ホリーたちを見ることもなく。ホリーは名乗ったが、名乗らずとも目の前の存在にはわかっているという奇妙な確信があった。

 ホリーとシャルリーヌは息を飲む。

 『アルスナム』

 善神ソル・ゼルムと対を成す悪神の名だ。

 だが彼女らは疑問に思った。目の前の悪神の名を名乗った存在には悪という印象を感じない。おどろおどろしくもなく、暴虐そうにも見えず、むしろ神聖で尊い印象を受ける。



「あなたはバートさんに啓示けいじを与えたのですか?」



 シャルリーヌが息を飲む。

 ホリーは善神ソル・ゼルムと夢の中で向かい合って啓示を与えられたことがある。バートと悪神アルスナムもそんな関係なのかもしれないと思ったのだ。



「我が友の聖女よ。我はあの者に啓示けいじを与えていない。ただ、あの者を見守っているのみ。あの者はこの場でのことも覚えていないであろう」


「……私は善神ソル・ゼルム様の聖女なのですか?」


しかり」



 アルスナムは言った。我が友の聖女と。

 そして我が友という言葉にはホリーにも心当たりがあった。彼女の夢の中で、善神ソル・ゼルムが友と呼んだ存在がいることを。

 ホリーも認めざるをえなくなった。自分は本当に聖女なのであろうと。これまで彼女は半信半疑だった。だけど悪神から自分は善神の聖女と言われたのならば、信じるしかない。



「なぜ、あなたはバートさんを見守っているのですか?」


「人にも時として我と同じ心境に達する者がいる。我はそのような者を見守る。そのような者は我の聖者となることもある」


「あなたの聖者になると、バートさんはどうなるのですか?」


「短期的には人間たちにとっての災厄さいやくとなるであろう。それは我が友の聖女であるお前とは対なる存在、魔族たちを率いる者ゆえに」


「……!」



 ホリーとシャルリーヌは息を飲む。彼女らはバートが人類と敵対する存在になるなどと考えたくはなかった。



「だがそれは長期的には人間たちのためでもある。人間たちを栄えさせすぎてはならぬ。人間たちを適度に間引まびきしなければならぬ。人間たちが栄えすぎれば、人間たちを含む全てに破滅がもたらされる」


「……」


「我が友の聖女よ。人間にもお前のような心美しい善なる者もいることは認める。だが大半の人間の本性は悪だ。人間たちの欲望は全てを飲み込み絶やす。それを阻止しなければならぬ」



 悪神と呼ばれるアルスナムが、人間たちこそが悪だと考えている様子であることも彼女たちには衝撃だ。そして心のみにくい人間がいることは彼女らも否定はできない。アルスナムの言葉をそのまま受け入れることもできないけれど。



「……あなたは人間に絶望しているのですか?」


しかり」


「あなたは人間を憎んでいるのですか?」


いな



 ホリーとシャルリーヌのすぐ近くに、アルスナムと同じように考える者がいる。そう、大半の人間の本性は悪であると考えている男が。



「あなたは、人間を滅ぼそうとしているのですか?」


いな。絶やさず、増やしすぎず、管理しなければならぬ。だが魔族が人間たちを統治するべきでもない。人間たちは己らで己らを統治するべきだ」


「……」



 悪神は人類を滅ぼそうとしているとされている。だがそれは、悪神自らによって否定された。悪神の行おうとしていることが、人間たちにとって良いことであるのかそうでないのかは別として。



「……善神ソル・ゼルム様は言っていました。友は本当は人間を信じたいのだろうと。あなたは本当は人間を信じたいのですか?」


「……」



 ホリーの質問に、アルスナムは沈黙した。

 ホリーにもシャルリーヌにも、目の前の存在が言われているような『悪』そのものには見えなかった。このアルスナムを『悪』とするならば、あの人も『悪』としなければならなくなる。だけど彼女らはあの人が『悪』とは思えなかったし、思いたくもなかった。

 ホリーは善神ソル・ゼルムに言われた言葉を思い出していた。善の意味を考えよと。それは同時に悪の意味を考えよということでもあるのだろう。



「……我が友も余計なことを言ってくれたものだ。神々の時代、我が愛した女には人間も一人だけいた。その女を殺したのも人間だった」


「……」



 アルスナムの言葉に感情がこもった。その言葉の圧力に、ホリーとシャルリーヌは吹き飛ばされそうになり、必死であらがう。この言葉からすると、悪神は人間を憎んでも当然と思える。だけど悪神は先程人間を憎んではいないと言った。



「我は人間たちを愛している。あの女と同種族の者たちを。我が友とその同胞たちがエルフやドワーフたちと同等に愛する者たちを。だが我は人間たちを信じてはいない」


「……」



 ホリーは驚いた。悪神が人間たちを愛しているとさえ言うことに。それなのになぜ人間たちを間引まびきするなどと言うのかは理解できない。



「我が友の聖女よ。お前のような、そしてあの女のような心美しき人間がいることは認めよう。だがその子や孫、子孫に至るまで全ての者が心美しきことはまずない。お前に子孫ができようと、その大半はお前のような心が美しい者であることは期待できぬ」


「……」



 シャルリーヌもその言葉は肯定するしかない。一般の人々についてはまだ年若い彼女にはわからないが、少なくとも歴史として彼女が知っている統治者の地位にある人間たちについては、名君の子孫が暴君、暗君であった例はいくらでもある。



「人間たちを野放しにすれば、そのとどまることない欲望はこの世界全てにとっての災厄さいやくをもたらすであろう。人間たちを適切に間引まびきし、管理しなければならぬ」


「……」



 ホリーは思う。悪神は人間たちを妖魔たちと大差ないと考えているのではないかと。そしてそう考える人が彼女のすぐ近くにいる。



「エルフやドワーフたちのように、人間も心の美しい者が多くを占めるのならば、こんなことをする必要はないのであろう。人間たちのせめて半分がお前たちのように心美しく、そして調和をもって生きられるのであれば、人間たちが自ら悪なる者たちを掣肘せいちゅうし、我が出る幕などないのであろう」


「……」



 悪神はエルフやドワーフのことは心の美しい者たちだと認めているようだ。それもあの人と同じだとホリーたちは思った。



「残念ながら、心の美しい人間はごく一部に過ぎぬ。大半の人間は、己らの欲望に歯止めをかけることはできぬ。だから我と魔族たちが動き、人間たちを間引まびきしなければならぬ。数が増えすぎる前に」


「……」



 ホリーもシャルリーヌも理解せざるをえない。悪神は人間たちに絶望しているのであると。



「だが我が友とその同胞たちはそれを理解しない。我が友は人間たちを信じると言って、我と戦った。人間たちが野放図に活動すれば、世界は滅ぶであろうのに」


「……」


「あの傲慢におちいった人間たちのために、我が友は我と戦った。心みにくき人間が多くいるのはあやつも認めていたが、その子や孫、子孫たちには心美しき者たちも生まれるであろうと。その果てに、全ての人間が心美しき者になることを期待したいと言って」


「……」


「我が友ながら愚かではあるが、あやつはまぶしい。我はああはなれない。我は総体としての人間たちを信じる気になどなれない。何故なにゆえ我が友が人間たち全てを信じるのか、我には理解できない。お前のような心の美しい人間はごく一部にしか過ぎぬというのに。エルフやドワーフたちを守るのは、我も理解できるのであるが」



 ホリーは悲しかった。この偉大な存在が人間に絶望していることに。悪とされるこの存在が為そうとしていることは、人間たちにとっては悪だ。だけどこの存在はそれが世界のためなのだと信じている。

 シャルリーヌは危惧している。バートも、人間たちに絶望しているあの男も、この存在と考えを同じくするかもしれない。あの男がしていることは、間違いなく人間たちにとっての善だ。だけどあの男は人間たちを信じていない。あの男には大部分の人間は妖魔同然の醜悪しゅうあくな存在に見えている。

 そしてアルスナムは言った。人間たちを間引きしなければならないと。それはゲオルクたちが妖魔共を間引きしようとしていたことと同じではないかと。この存在にとって、人間は妖魔共と大差ないのであろう。

 これまで言葉を発そうにもできなかったシャルリーヌが、圧力に耐えながら聞く。



「私の名前はシャルリーヌ。あなたにも人間は妖魔と大差ないと見えているの?」


「当然だ。妖魔たちも神々の時代では人間だったのだから。妖魔たちは人間の肥大化した欲望と残虐性の一側面だ。両者は今の姿は多少異なれど、同じ存在なのだ」


「……!」


「妖魔たちは我らの戦いの影響で人間から変質してしまっただけの存在だ。その意味で、妖魔たちも人間だと言える」



 その返事はまた淡々としたものに戻った。アルスナムの言葉は、信じられなかった。いや、信じたくないというのが正確なところだ。だけど彼女らは理解してしまった。この存在は本当のことを言っているのだと。



「……じゃあ、魔族たちも元は人間だったのかしら? エルフやドワーフも」


「魔族にはそのような種族もいる。元から魔族だった種族もいる。エルフやドワーフは人間と近い種族として誕生しただけで、人間ではない。だが我からすれば魔族もエルフもドワーフも人間も、全て『人』だ」



 質問したシャルリーヌの言葉は震えていた。人類と魔族の神話の時代からの戦いは、人間同士の戦いだったのかもしれないと。どうやら単純にそういうわけではないようだが。

 この場で彼女たちが聞いたことは、神学的にも歴史的にも根本から考えをくつがえすことだ。アルスナムが真実を言っているならだが、彼女たちはアルスナムが偽りを言っているようには思えなかった。

 そしてシャルリーヌは思う。バートがアルスナムの聖者になれば、あの男も魔族になってしまうのかもしれない。だが彼女は魔族だからというだけで否定することはできなくなっていた。彼女もゲオルクたちのような魔族もいることを知識で知っているだけではなく、その目で見たのだから。



「心清き人間の少女よ。心清きエルフの乙女よ。このままではお前たちは耐えられない。去るがよい」



 初めてアルスナムがホリーとシャルリーヌの方を見た。その無表情な顔は、彼女らにバートを思い起こさせた。顔立ちは全く似ていないけれど。

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