兄ちゃん

平川はっか

兄ちゃん

 兄ちゃんが眼鏡をやめた。正確にはコンタクトになった。来月にある修学旅行に備えてのことだ。兄ちゃんは裸眼だと手前五センチくらいまでしかピントが合わない。そんな状態で大浴場でこけたりしたら大変だから、というのが理由らしい。

 眼科から帰ってきた素顔の兄ちゃんは「なんか素っ裸でいる気分だ」と落ち着かなさそうだった。旅行でいきなり使うのではなく、今から装用して徐々に慣らしていく必要があるらしい。

「コンタクト入れた瞬間、世界が変わったよ。おれってこんな顔だったんだって」

 度の強いレンズのせいで目立たなかったが、兄ちゃんは綺麗な目をしている。切れ長のまぶたに長いまつ毛、きらきら輝く茶色い虹彩。眼鏡をとったら美少女だった、の男版。今までは家族と、限られた友達しか知らなかった事実を、明日からは学校中の人間が知ることになるのだ。たぶん女子がほっとかないだろう。


 翌日から兄ちゃんにファンがつき始めた。おれと兄ちゃんは同じ高校で学年は一つちがいだ。おれは日々、兄ちゃんにたかる女子たちを観察した。まるで砂糖に群がるアリのようだった。明るい髪の毛をぐりぐり巻いた派手な女子から、黒髪ストレートの清楚系まで。今まで兄ちゃんに見向きもしなかった人間たちが面白いくらい寄ってくる。だけど思っていたより無愛想な兄ちゃんの態度に、みんな困った顔をしてすぐに離れていく。根性が足りない。ツインテ先輩を見習え。

 ツインテ先輩は製菓部の二年で、髪をいつもツインテールにしているので勝手にそう呼んでいる。一年生のころから兄ちゃんにアタックしていて、その辺の女子とは年季と本気度がちがう。今だって部活で作ったお菓子を手に、中庭にいる兄ちゃんに果敢に向かっていくところだ。おれはその様子を三階の渡り廊下から見守った。

 先輩のお菓子は見た目もさることながら味も絶品だ。この前のチーズケーキは口に入れた瞬間とろけたし、マドレーヌは鼻に抜けるバターの香りが最高だった。なぜ知っているかというと、甘いものが苦手な兄ちゃんの代わりにおれがいつも食べているからだ。兄ちゃんは必ずおれに感想を聞いてくる。ツインテ先輩に味の感想を求められたときに困らないようにだろう。先輩がちょっとかわいそうになる。

 二人から少し離れたところで、ぐりぐり女子とその取り巻きが何かしゃべっていた。なんだか嫌な感じだった。時々ツインテ先輩を指さしては顔を寄せ合い笑っている。兄ちゃんは背中を向けているから気づいていないけど、ツインテ先輩の視界にはばっちり入っていて、それまで楽しそうにしゃべっていた先輩は顔を赤くしてうつむいてしまった。

 ちょうど隣にいた田中がジュースの缶を持っていたので、奪い取ってぐりぐり女子たち目がけて投げつけた。何が起こったかわかっていない田中の腕を引っ張り、窓から身を隠す。わざと外したから当たってはいないはず。地面に缶がぶつかる音と

「なになに、こわ!」という悲鳴のあと、パタパタと走り去る足音が聞こえた。

 完全に足音が消えてからさらに数秒待ってから外をうかがう。周りに花が咲きそうなほど顔をほころばせるツインテ先輩と、やはり表情の変わらない兄ちゃんが見えたが、その手には可愛らしくラッピングされた紙袋があり、今日のおれのおやつが無事に守られたことを確認する。

「なにすんだよ」

 隣で田中が不機嫌そうに言った。

「悪い、なんかむかついて」

「はあ?」

 まだ飲みかけだったのに、と不満を漏らす田中に、今度スタバおごるから、と約束した。


 修学旅行から帰ってきた兄ちゃんから、ものすごくブサイクなシーサーの置物をもらった。手作りだった。昔から勉強はできるのに美術だけいつも二だったのを思い出した。ぎょろりと目を剥いたシーサーはぶっちゃけ不気味で、だけど兄ちゃんがずっと見てくるので、ものすごく嫌だったけれど机に飾った。兄ちゃんは気に入ったのかキーホルダーまで作っていて、そっちは自分のカバンにつけていた。歯を食いしばり、虚ろな目をした青いシーサーがぶらぶらと揺れていた。

 翌日から兄ちゃんはまた眼鏡に戻った。

「目的は修学旅行のためだったからね。コンタクトはお金がかかるし目にも負担がかかる。その点、眼鏡は楽でいい」

 ふと、ツインテ先輩はどっちの兄ちゃんが好きなんだろう、と思った。眼鏡の兄ちゃんと、コンタクトの兄ちゃん。どっちにしても、一貫して兄ちゃんのファンで居続ける先輩をおれは尊敬する。


 学校ですれ違ったツインテ先輩のカバンに、あのシーサーのキーホルダーがついているのを見つけたときは、心臓がひっくり返るかと思った。そういえば置物は二体いるのに、キーホルダーは一匹しかいなかったから変だと思ったのだ。

 おれが弟だと知らないツインテ先輩は、大口を開けた怪しい目つきのシーサーとともに廊下の向こうへ去っていった。その後ろ姿を見送りながら、そうか、と腑に落ちた。どうして甘いものが苦手な兄ちゃんが、ツインテ先輩のお菓子を断らなかったのか。いつも熱心に感想を聞いてきたのか。単におれに食わせたいだけだと思っていたが、先輩を悲しませたくなかったんだろう。

 だけど早めに本当のこと言っとかないと後がつらくなるぞ、と思いながら、机からリビングのテーブルに引っ越したシーサーをくるりと壁に向け、先輩からもらったクッキーをほおばった。

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