理由

萩谷章

理由

 軽快な音を立てて鳴ったドアベルが、弘の来店をマスターに告げた。弘は照れくさそうな顔をしながら店に入った。


「また来てしまいました」


「いらっしゃいませ。いつでも大歓迎ですよ」


 マスターは愛想のいい笑顔で迎えた。




 高校二年生の弘は、三か月ほど前からこの喫茶店に通っていた。きっかけは、彼自身が抱いた一種の焦り。


 彼はいわゆる「帰宅部」であった。仲のよい友人たちはみな何かしらの部活動に所属しており、自分の好きなことに一生懸命取り組んでいる。弘にとっては、それが羨ましかった。自分に合った部活動を探そうかと思い立ったこともあったが、そもそも根っからの運動嫌いだし、熱心に文化活動に励む自信もない。部活動以外で、自慢できるほど熱中できるものは何かないか。色々と考えてみて、たどりついたのがコーヒーであった。もともと、朝食や勉強の合間によく飲んでいたので、とりかかりやすかった。よし、コーヒーの「ツウ」になってみよう。弘はそう思い立った。


 手始めに、コーヒーに関して詳しく書かれた本を買ってきた。今まで何となく飲んできたコーヒーだったが、どうやらかなり奥が深いようである。豆の産地や焙煎度合いによって大きく味が変わり、飲み方も多種多様である。弘はコーヒーに関する知識を大いに身につけた。しかし、知識だけ得ても仕方がない。色々な喫茶店をめぐり、味を知らなければならない。まずは近所の喫茶店から行ってみることにした。三軒まわり、四軒目。そこで出会ったのが、穏やかで話しやすいマスターであった。加えて、その喫茶店はコーヒーの種類が実に豊富で、「味を知る」には最適ともいえる環境であった。まさに運命とでもいうべき店と出会ったと、弘は思った。それからというもの、彼は毎週月曜日、学校帰りにその喫茶店に通っている。




 店内には、四人がけのテーブル席が二つと、カウンター席が五つ。弘はカウンター席の一番端に座り、マスターが淹れるコーヒーの香りを間近で楽しみながら、メニューを眺めた。二分ほどすると、マスターが弘のもとにやってきて聞いた。


「ご注文はお決まりですか」


「今日はこの、ケニアの中煎りを飲んでみようかなと」


「かしこまりました」


 しばらくして、マスターがコーヒーを運んできた。


「ありがとうございます」


「いかがですか。色々飲んでみて、お好みは見つかりましたか」


「中煎りが好きかもしれません。一番バランスがよくて飲みやすいです」


「そうですか。お好みが見つかってよかったです。ぜひ、今後も『お勉強』にいらしてください。私でよければ、いつでもお話ししますよ」


「それは頼もしいです。ありがとうございます」


 やはり、居心地のよい喫茶店である。マスターは親しみやすく、置いてあるコーヒーの種類が多いため「勉強」にはもってこい。そして…… 。


 弘は、五つ連なったカウンター席のもう一方の端をちらりと見た。そこには、女性が座っている。はじめは「勉強」のために通い始めたこの喫茶店。しかし、あるときその女性がいつも決まって端のカウンター席に座っていることに気づいた。よく気を遣っているのであろう長い髪に、眼鏡をかけた知的な横顔。「美しい」としか形容のしようがなかった。いつからか、「勉強」に加えて、その女性のいる空間に滞在することが弘の楽しみとなっていった。意気地なしと言われても構わない。惚れた女性に対して礼を失した利己的な振る舞いを繰り返すより、何も言わずに同じ場所にいる幸せをかみしめた方が、よっぽど理性的ではないか。彼はそう考えていた。


 あるとき、友人たちと浮いた話をし、弘はその女性のことを話した。恥ずかしいので、なるべく秘密にしておきたかったのだが、友人たちに迫られ、話さざるを得なかったのであった。話を聞いた友人たちは、獲物を見つけたように騒ぎ立てた。


「おい弘、お前なんで話しかけねえんだ」


「本当だよ、デートに早く誘え。惚れてるんだろ」


 こうした言葉に対し、弘は弱々しい声で返す。


「いやあ、本当はそうしたいんだけどね。僕らはあくまで同じ時間に同じ喫茶店にいる客どうしなんだよ。急に話しかけられたら嫌だろうし。そうなったら、彼女の居場所を一つなくしてしまうことになりかねない」


「そりゃ考えすぎだよ。そうしてる間に、その人が喫茶店に来なくなったらどうするんだ。お前、ずっと後悔することになるぜ」


「そのときはそのときさ。僕も潔く諦める」


「お前ってのは…… 。俺には分からんな。早めに接点をつくるべきだと思うがなあ」


 友人たちは、頬を赤くするばかりで何もしない弘にもどかしさを感じていた。しかし、弘はそれでよかったのである。




 弘は、変わらず毎週月曜日、喫茶店に通っていた。マスターとの会話を楽しみ、コーヒーに関する知見を深め、四席向こうに座る美しい女性と同じ空間にいる幸せをかみしめ…… 。


 当初の想定とはやや違っていたが、弘は飽きることなくコーヒーに熱中している状況であった。彼は大いに充実した日々を送っていた。


 いつものように、マスターが聞いた。


「ご注文はお決まりですか」


「今日はこの、浅煎りのコーヒーをいただきます」


「かしこまりました。ところで、お客様が初めてご来店されてから半年になりますね。いつもありがとうございます」


「いえいえ、そんな…… 。美味しいコーヒーが飲めますし、マスターとの会話も楽しいので、居心地がよいのです」


 弘は、さらにもう一つの理由を、言葉に出さない代わりにちらりと目を向けた。いつもと変わらず、美しい。


「それは嬉しいお言葉です。私でよければ、どんなお話でも聞きますよ」


「ありがたいことです。いつか、人生の重要な事柄を相談するかもしれません」


 二人は笑いあった。マスターは「では、少々お待ちください」と言って戻っていった。


 弘は、その日もコーヒーを飲みながら幸せをかみしめ、カウンターの向こうでコーヒーを淹れるマスターとの会話を楽しんだ。二杯注文して一時間ほどの滞在。支払いを済ませて弘は喫茶店を出た。


「今日もいい時間を過ごした。定期テストが近いし、これをモチベーションに勉強しよう」




 弘が帰り、客は女性一人となった。静まり返った店内で、先に口を開いたのは女性の方であった。読んでいた本を置き、マスターに顔を向けた。


「リピーターづくりのためとはいえ、ここまでする必要あるかしら」


「惚れた女性のため、毎週通ってお金を使ってくれる。確実な方法だと思うがなあ」


「彼が少し可哀想だわ。私があなたとグルだと知ったら、トラウマになるわよ」


「知られることはない」


 マスターは語気を強くして言い放った。女性は眉間にしわを寄せてマスターの顔を見た。


「ああいう恋に奥手な男子は、まず話しかけてくることはない。何もせずただ通うだけ。そういうものさ」


「随分と自信があるのね」


「俺が昔そうだったからな。惚れた女性ほど遠く見えるものはない」

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理由 萩谷章 @hagiyaakira

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