第四十六話
「僕は人間だ」
なんだが含みを持った言い方にツユは渋々頷くしか無い。艶めかしくも見えるメザメの長く白い首が、再び前へと向き直っていく。
やがて井戸の周囲を歪な結界が取り囲んだ。その頃には、素人目にも禍々しいとわかる井戸を前にしながら、ツユは息を飲むしか無くなっていた。まさかと思い至り、丸めた背中を伸ばしていって、隣に並んだ肩に問い掛けてみる。
「まさかこの井戸に本当に飛び込む、なんて言わないですよね?」
「……」
――え、嘘ですよね。この人何も言わないんですけど。
なんて思っていると流石に否定された。
「実際に飛び込む必要はない。しかしそれと同等なだけの気概は要する。強く信じ、異界への道をこじ開けんとする、その気持ちが」
摩訶不思議なこんな状況も、メザメの言葉に照らし合わせるのなら「怪奇がそもそも人の想像より生まれた産物であるのだから当然だ」という事になるのだろうか。
さも当たり前の様な顔をして、メザメはツユの横顔を一瞥する。
「僕が手を打ったら瞳を閉じて、どれ程驚く様な事があっても決して瞳を開けるな」
「それが再び異界へと到る為の儀式だと言うなら、騙されたと思って従います」
眉をこの上もなく捻じ曲げた不服に極まる表情が、肥溜めでも見下ろすかのような侮蔑を込めながらツユへと振り返っていた。
「……誰がキミなんかを騙くらかすか」
自らが言い放たざるを得なかった胡散臭い言動に嫌気でもさしたか、メザメは忌々しいツユの返答を頭の中で反芻しながら、右手で両の目頭を押さえて表情を俯かせる。
そうして「だから嫌なんだ」と消え入る様な声で言ってから、頭を振るって視線を起こしていった。その目には意地の悪い感情が鈍く輝いている様な気がした。
「メザメさん?」
「腹いせに今からキミを怖がらせようと思う」
何が腹いせなのかと、理由もわからずツユは、彼の意趣返しに見舞われる事となってしまった。
「この井戸はあくまで冥界への
――え!? 少しばかり裏返った、素っ頓狂な声が喉をついて出ていた。
「つまり出口の無い片道切符であると。失敗すれば二度とは出られぬ世界に囚われるとでも言うんですか?」
「やめるか?」
そう問うて来たニヒルな男に、ツユは毅然と首を振って見せた。
「本当は今すぐやめたいくらいに恐ろしいです。でも、この井戸の底がどれ程深いのかは、この目で見定めてみないとわかりませんから」
メザメは鼻から息を吐く様に一笑してから、視線を井戸へと投じていった。
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