第四十三話


 言うだけ無駄な様だと諦めたメザメは、手首に巻いた数珠が流れ落ちていくのを袖口に仕舞いながら、伏せた視線を横に逸らせて立ち上がった。


「案ずるな。ばつが栗彦を理解出来る事など、。つまり魃がキミの兄と同化する事は無い」


 その言葉に、ピタリとツユの動きが止まっていた。そうして振り返ると、今更自分が彼へと肌を晒している事に気付いて赤面した。


「一生って……そんな事がどうして言い切れるのですか?」


 メザメもまたツユにならって、その大きな上背を立ち上がらせて羽織に手を掛けながら答え始める。


「兄の原点を思い出せ」


「原点って……の事ですか?」


 ――そうだ、魃の天上にはいつだって晴れ間が覗き、雨が降る事は無い。


「故に魃がキミの兄を理解出来る事など一生来る事はない」


 ――メザメは言う。


 いわばキミの兄と魃とは決して交わる事の無い水と油の様な存在なのだ。なんの因果か偶然巡り合った両者は、互いに正反対の性質を持ち合わた者同士であったのだ、と。


「魃にこれから尋ねてみよう。流石に神を恨んだか、とな」


 藤色の羽織に袖を通していった男はそんな皮肉を言いながら、巾着袋を一つ手に、リノリウムの床に下駄の音を鳴らせて歩き始めた。


「ええっ、ちょちょ、待って下さい、でも――」


 置いて行かれた格好のツユは、凄まじい勢いで荷物を纏めて服を着替えた。着崩れた服のまま着物の背中を追って行くその道中に問い掛ける。


「でも、おかしいです。思い出して見て下さいよ。栗彦が私達の前から消え去ったあの日も外では雨が降っていました。それに異界も曇り空で、今にも雨が降りそうでしたよ? 兄の体に乗り写ってから特性が変異したのではないでしょうか? それに……」


 アウターに袖を通しながら、時期尚早では無いかと慌てふためくツユに振り返る事もせず、メザメはカコンと下駄を鳴らせて真っ直ぐ歩んで行く。


「そうでは無い。魃は魃だ。神としてのその光のエネルギーは、何者に成り変わろうと失せる事など無く優先される。でなければ狐達が躍起になってあそこに留めようとしない。魃は間違いなくそこに旱魃かんばつをもたらす存在。だからこそ〈厄〉足り得るのだ」


「じゃあどうして?」


「考えたままだ。想像も絶するだけの永きを異界に閉じ込められ、死期を待たれた魃はもう、いよいよとなのだ」


 ――今際の際……つまり魃はもう、神として死に絶える直前であると、メザメはそう言っているのだろうか? 手元に抱えた荷物を取りこぼしそうになりながらツユは小首を傾げる。


「あんな猛威を奮っておいて、死ぬ寸前だって言うんですか、私には全然信じられません。だってフーリさんがあんな簡単に……」


 ――あの様な毛皮など話にもならん。

 そう口火を切ってメザメは淡々と語り始める。


「これを言ったら薄情者だと思われるのだろうが、もし仮に魃が全盛の頃であったとするならば、僕は奴に対抗しようだなどと選択肢にも思い浮かべない」


 ツユの無意識に撫でた首筋に、じっとりと冷たい汗が滲んでいた。大手を振った男は次の曲がり角を曲がって行く。


「それはある種の災害、超自然的なエネルギーに真っ向より対面しようというのと同じだからだ。近年紛い物の神などが散見されるが、それとは一線を画す。魃という怪異は正真正銘本物の神。神とは本来その様な、人の手の及ばぬ超常の事なのだから」


 抱えた荷物に顎を乗せて思案している内にツユは思い至る。


「わかりました! 魃は自分の死期を悟って兄の体に取り憑いた。そうして生き永らえようとしている。そうですね!」


 随分とくだらない塵でも見下ろすかの様な侮蔑の視線が、振り返って眉をひそめていた。ツユは自信げに向き合わせていた視線をジリジリと逸らしていきながら、緊迫しきった愛想笑いを見せるしか他が無い。


「まるで違う。むしろ魃は、数百年ともなる久遠の時を幽閉され、早く死にたいと何度願った事だろうか。人を恨み、地上を憎み、自らを常世に縛り続けた肉の体に何度絶望したか」


 魃は数百年……想像も絶するだけの時間を、あの小さな異界に押し留められ続けていた。

 ――あんな、何も無い空間にずっと……。

 現場を知るツユには、その悲惨さがありありと想像出来る。

 だが、だとすれば余計に合点が行かない点がある事にもまた気付く。


「死にたいって……じゃあどうして魃は――」


「答えは一つだ」


 そう言い始めたかと思ったら、ピタリとそこで口をつぐんでしまった男を側で見上げ、ツユは餌を貰えると思って口を開いていた雛の様な有様で自分が制止していた事を自覚する。軽蔑するかの様に彼女を見下ろした真っ黒な瞳に気付いて口を閉じたツユは、癇癪を起こしてメザメの背中に取り付こうとしたが――背中に目があるかの様にヒョイと避けられた。


「いつだって望んだ答えが与えられると思うな。アホ雛鳥」


「あっ、遂にアホって言いましたね!」


 やがてロビーに出た二人は、賑わう人の群れとすれ違い、大窓から燦々と注ぐ太陽の下に出た。遠くに見えるカウンターの方から、若いナースが身を乗り出して「もう退院されるんですか?」と尋ねて来るので、ツユはお世話になったと会釈をした。


「さて、後はキミの兄の体に取り憑いた神を祓うだけだ。それで全て、僕らの目的は達成される。ただ少し、なのかも知れないがな」


 ナースがこちらに歩み寄って来るのを待っている最中、ツユは「野暮?」とメザメの言葉を繰り返しながら首を捻っていた。

 いつしか元気を取り戻していたツユは、肩からズリ下がったカバンを直しながら彼に問い掛ける。


「フーリさんと安城さんを助けに異界に行くんですよね? でも雲外鏡は壊れてしまったのに、一体どうやって?」


 メザメはもう振り返ろうともせず、顔の前に垂れて来た黒髪を額の所で押し上げながら言った。


「どうもこうもない。僕はただ、庭先に干した毛皮を取りに行くだけだ」


 ――ただし少し急がねばならない。雨が降り出すその前に。


 そうメザメは付け加えた。

 彼の、陽の光に艶めいた髪からは、薄い線香の香りがした。

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